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藤田元司 - Wikipedia

藤田元司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤田 元司
Motoshi Fujita
基本情報
出身地 愛媛県新居浜市
生年月日 1931年8月7日
没年月日 2006年2月9日(満74歳没)
身長
体重
173cm
64kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1957年
初出場 1957年
最終出場 1964年
経歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1996年
選出方法 競技者表彰
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

藤田 元司(ふじた もとし、1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市出身のプロ野球選手投手)、プロ野球監督野球解説者。血液型B型。

目次

[編集] 来歴・人物

旧制愛媛県立新居浜中学校(現・新居浜東高等学校)在学中に終戦を迎え、学制改革に伴って新制愛媛県立西条北高等学校(現・西条高等学校)へ転校した。その時に捕手を務めていたのがNHK高校野球中継の解説で有名だった池西増夫、同級生だったのが後のフライ級プロボクサー三迫ボクシングジム初代会長の三迫仁志であった。

慶應義塾大学へ進学後、オーソドックスなオーバースローから繰り出す快速球を武器に六大学リーグのスター選手として神宮球場を沸かせた。六大学野球リーグでは通算63試合に登板して31勝19敗、227奪三振を記録。だがリーグ優勝は1年春の1回のみで、度重なる力投が報われず「悲運のエース」とも呼ばれた。

その後日本石油を経て、1957年、大学の先輩である水原茂監督の誘いで巨人軍(読売ジャイアンツ)に入団(大学→社会人時代、後に西鉄ライオンズへ入団する花井悠とはチームメイトだった)。

入団1年目から17勝をあげて新人王に輝くと、1958年には29勝、1959年には27勝をあげてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続シーズンMVPを獲得した。

また、1959年6月25日天覧試合として挙行されたジャイアンツ-大阪タイガース戦に於いてはジャイアンツの先発投手として晴れのマウンドに立っている。

そんな華やかな球歴にも関わらず、日本シリーズでは度重なる力投を見せるも報われず、なかなか日本一の栄冠に届かなかった(1961年1963年の日本一メンバーでもあるが、この両年は目立った活躍ができていない)。
特に1958年の日本シリーズにおいては、西鉄のエース・稲尾和久を上回る防御率1.09を記録したものの、打線の援護なく2敗を喫し、その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、元司の音読みに掛けて「ガンディー」とも呼ばれた。

その後、第2次黄金時代を支えた別所毅彦与那嶺要藤尾茂広岡達朗らの高齢化が進んだ時期、登板過多で肩を故障してしまう。

1960年以降は成績が急降下し、1964年に現役を引退。プロ入りの時期が遅かったことも重なり、現役生活はわずか8年にとどまった。

現役引退後は川上哲治監督の下で投手コーチに就任し、堀内恒夫高橋一三を育成して巨人のV9時代を支えたが、1973年シーズン途中に投手陣不振の責任を取らされて二軍コーチに降格され、さらにスカウトへ異動させられるなどの辛酸も味わった。

その後、大洋ホエールズの監督に就任した秋山登に請われて大洋ホエールズヘッドコーチ(1975年 - 1976年)に就任したが、チームは低迷していた[1]。大洋球団コーチを退任した後は、日本放送協会(NHK)野球解説者となる一方、川上哲治を中心にして行っていたNHK少年野球教室の講師を務めている。

1981年長嶋茂雄監督解任を受けて巨人の監督に就任。「長嶋を窓際に追いやった男」という世間の強烈な逆風の中、就任1年目にしてリーグ優勝を果たし、同年の日本シリーズでは、パ・リーグ覇者の日本ハムファイターズを破り、1973年以来となる日本一に導いた。

1983年にもリーグ優勝をなしとげたが日本シリーズで西武との激闘の末に3勝4敗で敗れ、助監督を務めていた王貞治に譲る形で勇退し、再びNHK野球解説者に復帰すると共に報知新聞客員解説委員に就任するなど評論家活動を再開した。

1988年シーズン終了後、王貞治が解任されたことを受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「年寄りの老い先短い願いをきいてくれ」と懇願され、2度目の監督に就任。同年の日本シリーズ近鉄バファローズを下して日本一に輝くと、翌1990年にはリーグ2連覇をなしとげた。1992年限りで勇退した。

指導者として優れた人心掌握術・育成術を持っていた。巨人のコーチ時代には渡辺秀武を再生させ、第1次監督時代には江川卓西本聖定岡正二、第2次監督時代には斎藤雅樹槙原寛己桑田真澄の先発三本柱を確立させ、投手陣の整備をおこなった。また野手では、川相昌弘緒方耕一の積極的な起用、駒田徳広岡崎郁の“名脇役”としての確立等「磨けば光る逸材」を輝かせる事にかけては定評があった。

監督勇退後はNHKで野球解説者を務める傍ら、別所毅彦の死去を受け1999年から2003年まで巨人軍OB会会長を、2005年には四国アイランドリーグ愛媛マンダリンパイレーツアドバイザリースタッフを務めた。

1996年野球殿堂入り表彰を受けた。

藤田は巨人軍OB会長を務めていた2000年頃から体調を崩し、NHKでの解説の仕事も固辞して療養していたが、2006年2月9日午後6時40分、心不全のため東京都世田谷区内の病院で死去した。享年76(満74歳没)。戒名は「元投院球心篤應居士(げんとういんきゅうしんとくおうこじ)」。

読売ジャイアンツでは数々の功績やその人柄を称え、史上3人目となる球団葬を執り行った(藤田家との合同葬)。

現役時代の颯爽とした姿やスマートな物腰、そして決して選手を責めず常に回りに気遣いを見せるあたたかな人柄から「球界の紳士」と呼ばれていた。

[編集] タイトル・表彰

[編集] 年度別投手成績

年度 球団

登板 完投 完封

勝利 敗戦 勝率












暴投 ボーク 失点



1957年 巨人 21 60 4 0 0 17 13 .567 235.2 190 10 80 5 156 7 0 86 65 2.48
1958年 18 58 24 7 1 29 13 .690 359.0 251 11 114 5 199 11 0 75 61 1.53
1959年 55 24 3 2 27 11 .711 330.0 250 14 93 4 181 6 0 76 67 1.83
1960年 36 4 2 0 7 12 .368 141.0 128 12 53 1 70 4 0 60 48 3.06
1961年 42 3 1 0 8 13 .381 141.0 130 4 61 3 64 4 0 54 43 2.74
1962年 42 6 2 1 13 11 .542 199.2 165 9 58 4 103 5 0 55 45 2.03
1963年 30 2 0 1 10 4 .714 119.1 99 11 38 1 65 3 0 39 33 2.48
1964年 41 3 2 0 8 11 .421 175.1 149 15 61 3 86 6 0 63 53 2.73
通算成績 364 70 17 5 119 88 .575 1701.0 1362 86 558 26 924 46 0 508 415 2.20

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 球団 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1981年 昭和56年 巨人 73 1位 130 73 48 9 .603 - 135 .268 2.88 50歳
1982年 昭和57年 2位 130 66 50 14 .566 0.5 133 .254 2.93 51歳
1983年 昭和58年 1位 130 72 50 8 .590 - 156 .275 3.77 52歳
1989年 平成元年 1位 130 84 44 2 .656 - 106 .263 2.56 58歳
1990年 平成2年 1位 130 88 42 0 .677 - 134 .267 2.83 59歳
1991年 平成3年 4位 130 66 64 0 .508 8 128 .253 3.72 60歳
1992年 平成4年 2位 130 67 63 0 .515 2 139 .262 3.69 61歳
※1 太字は日本一
※2 1981年から1996年までは130試合制

[編集] 監督通算成績

  • 910試合 516勝361敗33分 勝率.588

[編集] 背番号

  • 21(1957年)
  • 18(1958年 - 1966年)※1964年までは現役。
  • 81(1967年 - 1973年、1975年 - 1976年)
  • 73(1981年 - 1983年、1989年 - 1992年)※後に緒方耕一がつける。

現役時代につけていた背番号18は、後に堀内恒夫桑田真澄が引き継ぎ、現在では巨人のエースナンバーとして確立されている。

[編集] エピソード

[編集] 現役時代

  • 1959年6月25日後楽園球場で日本プロ野球初の天覧試合が行われ、長嶋茂雄村山実からサヨナラ本塁打を放ったエピソードは余りにも有名だが、この試合に先発し完投勝利を挙げている。
  • 1958年の日本シリーズ稲尾和久の大活躍が印象強いが、藤田はこのシリーズで稲尾と並ぶ6試合に登板、稲尾を上回る防御率1.09を記録している。また、翌1959年の日本シリーズ杉浦忠の4連投4連勝の陰で4試合中3試合に先発登板し22イニングを投げており(4試合シリーズでは杉浦の32イニングに次ぐ記録)、エースとして大車輪の活躍をしながらパ・リーグ大投手の神がかり的活躍の陰に隠れてしまう形になった。悲運のエースと呼ばれる所以の1つである。
  • 3勝1敗で迎えた1958年のシリーズ第5戦、3-2と1点リードの9回裏2死3塁、あとアウト1つで日本一の場面で、このシリーズ不振だった関口清治に起死回生の中前タイムリーヒットを浴びた。結局この試合は稲尾のサヨナラホームランで西鉄が勝利、西鉄奇跡の逆転優勝につながるのだが、藤田によれば関口の打球は藤田の右肩口の上を力なく飛んでいったといい、「右手をちょいと出せば取れたのではないかと今でも思うことがあるよ」と後年になってもよく思い出していたという。

[編集] 監督時代

  • 監督時代は、山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」を座右の銘にし、「誰だって怒られるよりは褒められた方が嬉しい。選手だって同じだ」と語っていた。そのため、短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い「誉め上手」の監督と言われ、監督時代は選手を責めるコメントもほとんどなかった。ただし第2次監督時代、ごく親しい知人には「一刻も早く、このチームの性根を叩き直さなければ(自分の後)苦労することになる」と語り、危機感をあらわにしていた。
  • 1度目の巨人監督就任時は、絶大な人気を誇る長嶋茂雄監督解任の後を受けた形だったために、世間の風当たりは非常に強かった。自宅には熱狂的な長嶋ファンからの抗議の手紙が殺到し、中には「娘を殺すぞ」と剃刀の刃を入れた悪質な手紙もあったという。マスメディアの反応も冷ややかなもので、1年目にいきなり日本一に輝いても「活躍しているのは、みんな長嶋が伊東キャンプで鍛え上げた選手だ」と藤田より長嶋の功績を称えていた[2]。このような状況にも冷静な反応を示していた藤田だったが、正力亨オーナーまでもがムードに乗って長嶋へのラブコールを送り始めると流石に堪忍袋の緒が切れ、単身オーナー室に乗り込んで正力に「私のことがいやなら、私は1年で辞めます!!」と啖呵を切った。
  • 守備に難のある選手をほとんど使わなかった広岡達朗森祇晶と同じく「守りの野球」を掲げてはいたが、唯一長打を望める選手となっていたが故障を抱える原をサードからレフト(1989年 - 1991年)やファースト(1992年)へコンバートし、内野守備を強化。捕手や外野手は、肩を一度壊した村田真一、キャッチングに難のある大久保博元、怪我の影響で守備に不安のある吉村禎章などを日替わりで積極的に起用。ショートの川相以外は目減りしていた既存戦力を再構成し、守備力を底上げしている。その結果1989年・1990年はリーグ本塁打4位ながら、1試合平均4得点以上をマークしており、攻撃面に隠れた手腕を発揮している。
  • 第1次監督時代に継投策で苦労したことから、第2次監督時代では一転して、先発投手に頑固なまでの完投を求めた。特に1990年は、斎藤雅樹槙原寛己桑田真澄の三本柱に宮本和知香田勲男木田優夫を加えた先発ローテーションの6人でチーム88勝のうち80勝を挙げ、完投数は70にも上っている。中継ぎ・抑え投手には肩に故障を抱えた水野雄仁などが登板していた。
  • 育成面での最高の業績は、斎藤雅樹を日本球界を代表するエースに育て上げたことであろう。斎藤は1983年にドラフト1位で巨人入りするも、1988年までの6シーズンで29勝と伸び悩んでいた。しかし、斎藤にサイドスロー転向を促し、精神的な弱さから「ノミの心臓」と言われていた斎藤に、「斎藤は気が弱いんじゃない、気が優しいだけなんだ」「(斎藤が『マウンドに上がるのが怖いです』と言ったときに)投手というのは臆病でないといけないんだ。色々考えたら臆病になる。怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」と指導し、辛抱強く先発で起用し続けた結果、1990年代最高の投手と言われるまで成長した。斎藤は、最多勝5度のセ・リーグ記録と3年連続開幕戦完封・11試合連続完投勝利の日本記録を達成した。
  • また、犠打の世界記録を更新し、2006年まで現役を続けた川相昌弘も、藤田がレギュラーに抜擢し育て上げた選手の一人である[3]
  • 1989年には故障で槙原を欠きながら、日本シリーズで7戦を戦い抜き勝利しているが、1990年はペナントを圧勝したチームとは思えないほどの拙攻・拙守が重なり、黄金期の西武ライオンズにストレート負けを喫し、「硬直化した先発起用に頼ったペナントの戦い方が仇となった」と指摘された。

[編集] その他

  • 第1次監督時代(1981 - 1983年)のプロ野球中継平均年間視聴率は、1983年には27%に達した(27.1% ビデオリサーチ関東地区調べ。1965年の調査開始以来では、歴代最高記録)。監督時代の通算平均視聴率は、第1次監督時代は25.5%であり、第1次長嶋監督時代(1975 - 1980年)の23.2%、王監督時代(1984 - 1988年)の23.9%、第2次長嶋監督時代(1993 - 2001年)の20.0%よりも高かった。第2次監督時代(1989 - 1992年)は1989・90年の独走状態での優勝と1991・1992年の低迷によって、視聴者の興味が薄れたことも影響し、19.9%で、ONが監督だった時期を下回った。
  • 長嶋・王と対照的に務臺に可愛がられたことから世渡り上手を揶揄する者もあったが、采配で務臺に遠慮することはなかった。1989年の日本シリーズでは、開幕から3連敗のあとがない状況で、藤田は4戦目の先発に香田勲男を予定していた。務臺は「香田ではダメだ」と藤田に迫り、藤田も口頭では「分かりました」と答えたが、結局香田を先発させ、勝利した。務臺のご機嫌取りよりも、自分の采配と香田を信じたのである。[4]
  • 現役時代における川上との確執、副業の失敗等による心労が重なり、40歳代から心臓を患うようになった。2度目の監督就任の際には、医者から「命の保障はない」と告げられていたという。1990年頃から心臓病が悪化し(キャンプイン直後の1990年2月に発作で倒れたことがある)、ニトログリセリンを常備しながら采配を振るっていた。1991年に4位に転落したことで、病気の負担もあり辞任を決意していたが、正力オーナーの慰留で1992年も続投した。
  • 慶應義塾大学出身であることや、そのスマートな外見や物腰のため、現役時代から『紳士』のイメージが強かった。だが、実際を知る人の間では、自他共に認める極めて短気な性格で『瞬間湯沸し器』の異名で有名だった。江川も当時を振り返って「自分が打ち込まれたとき、ベンチからマウンドに歩いてくるときの藤田監督は、鬼の形相で顔を真っ赤にして、本当に恐ろしかった」と語っている。
  • 糸井重里との対談に詳しいが、旧制中学・新制高校時代はケンカにも強く、番長格で高下駄を鳴らして闊歩したり、喧嘩相手を何日も待ち伏せしたりするなど、後のイメージとは正反対のバンカラだった。高校を転校した理由の一つに、イメージからは信じられないような逸話を披露している。
  • 2003年山下大輔横浜ベイスターズ監督に就任した際、目標とする監督として別当薫とともに藤田の名前を挙げている。両者とも、山下にとって慶應義塾大学の先輩にあたる。
  • 2003年、原辰徳が巨人監督をわずか2年で解任されたことに抗議して、広岡達朗と共に読売新聞と報知新聞の購読を打ち切った。
  • 2004年プロ野球再編問題の渦中、プロ野球1リーグ構想、球団削減案に反対を表明した数少ない巨人OBの1人である。また、「このままではよそで育った選手ばかりを当てにしてしまうようになり、自らの手で名選手を育て世に輩出してきた巨人の素晴らしき伝統に傷がついてしまう」「若い選手の育成の妨げになるだけだ」とFA制度逆指名制度の導入にも反対していた。
  • 2005年10月5日堀内恒夫が巨人監督辞任の会見を行った際には、「つらい状況の中よく頑張ってくれた」と労いの言葉を掛け、同年12月4日の巨人OB会総会を堀内が欠席した際にも、「今日はホリが来てないけれど、みんな会ったら慰労してやってくれ。こういうところへ出てこられるムードを作ってやらないといけない」と冒頭でまず堀内を擁護した。
  • 2度目の監督就任の際、「本来ならば王が10年ぐらい監督をやるべきだ」と語っていた。原が2度目の監督を打診された際に相談を受けた時には、「今の巨人の再建は5年かかる」と諭し、元監督として長期的視野に立ったチーム作りを球団に直談判したという。
  • 「我々の時代の野球選手は今よりレベルが高かった」と過去を美化する球界OBが多い中、「今とは全然レベルが違う。昔はいい加減だった」と現在と過去の違いを認識した上で語る数少ない球界OBだった。

[編集] 脚注

  1. ^ 大洋コーチ退任後、藤田の名前で『草野球の戦力強化』西東社が出版されたが、文体は報知新聞社の白取晋を髣髴とさせるといったもので、当時の藤田の立場が窺える。
  2. ^ 報知新聞記者だった白取晋によると、当時、藤田を賞賛することはマスメディアの間でタブーとなっていた。
  3. ^ なお、川相は藤田に相当恩義を感じており、藤田の死に際しては当時所属していた中日のキャンプ地の沖縄から休日を利用して帰京し、葬儀に出席している。
  4. ^デイリースポーツ』「元巨人監督の藤田元司氏が死去

[編集] 著書

  • 『草野球の戦力強化』西東社、1978年5月、ISBN未確認
  • 『我慢の管理学—部下とともに生きる』光文社、1984年1月、ISBN 4334011624
  • 『これが本当のプロ野球だ—巨人前監督の「わが巨人軍、わがプロ野球」』講談社、1984年7月、ISBN 4062011824
  • 『子育て人育てには愛と拳骨を』講談社、1984年10月、ISBN 4062013789
  • 『耐えて、勝つ—プロ野球選手に学ぶ自己管理術』日之出出版、1988年11月、ISBN 4891980672
  • 『6154イニングの決断—人を活かし組織を動かす掌握の管理術』日本文芸社、1990年12月、ISBN 4537022191
  • 『藤田前監督 巨人軍を語る』日本放送出版協会、1993年3月、ISBN 4140800909
  • 『藤田元司の情のリーダー学』ごま書房、1996年5月、ISBN 4341170961
  • 『監督—悪ガキこそ戦力だ』光文社、1997年4月、ISBN 4334005837
  • 『二番打者組織論—チーム、集団のキーマンは、三番でも四番でもない』ひらく、1997年8月、ISBN 4341190202

[編集] 参考文献

  • 『巨人軍 藤田監督の「人材を100%」活用する法』(G番記者グループ著・一季出版・1989年9月) ISBN 4900451339
  • 『巨人軍監督列伝―王の苦悩、藤田の成功。』(大下英治著・PHP研究所・1990年7月) ISBN 4569528295
  • 『ドンを越えた男―「巨人軍監督」藤田元司・しんぼうに辛抱のリーダーシップ』(松下茂典著・ダイヤモンド社・1990年9月)ISBN 4478360162

[編集] 演じた声優

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキニュース
ウィキニュースに関連記事があります。
先代:
秋山登
セ・リーグ新人王
1957年
次代:
長嶋茂雄
先代:
与那嶺要
セ・リーグMVP
1958年1959年
次代:
秋山登
先代:
金田正一
セ・リーグ最多勝投手
1959年
次代:
堀本律雄
先代:
長嶋茂雄(1975年 - 1980年
読売ジャイアンツ監督
1981年 - 1983年
次代:
王貞治1984年 - 1988年
先代:
古葉竹識
門田博光
正力松太郎賞
1981年
1989年
次代:
広岡達朗
森祇晶
先代:
王貞治(1984年 - 1988年)
読売ジャイアンツ監督
(1989年 - 1992年)
次代:
長嶋茂雄(1993年 - 2001年
※カッコ内は監督在任期間。
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