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村山実 - Wikipedia

村山実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村山 実
基本情報
国籍 日本
出身地 兵庫県尼崎市
生年月日 1936年12月10日
没年月日 1998年8月22日(満61歳没)
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1958年
初出場 1959年4月14日
最終出場 1973年3月21日(引退試合)
経歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1993年
選出方法 競技者表彰
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

村山 実(むらやま みのる、1936年12月10日 - 1998年8月22日)は、兵庫県神戸市北区生まれ、尼崎市出身のプロ野球選手投手)・プロ野球監督野球解説者1963年の一時期「村山 昌史(むらやま まさし)」に改名。

ザトペック投法」から投げ込むフォークボールを武器に活躍し、2代目「ミスタータイガース」と呼ばれる。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] プロ入り前

住友工業高校から大学野球を目指し、立教大学のセレクションを受けるが、身長が低いことを理由に落とされる。結局関西大学に進学。のちに阪急・オリックス日本ハム監督となる上田利治とバッテリーを組み、2年生のときには全日本大学野球選手権大会に出場し、全試合完投で優勝に貢献する。この優勝は西日本の大学としては初の快挙であった。

1958年阪神電鉄に入社し、出向の形で阪神タイガースに入団した。読売ジャイアンツからは阪神の4倍の契約金を積まれたが、関西で生まれ育ったからと拒否したと言われる。しかし、本人の著書によると大学時代に肩を故障していたこともあり、いつ壊れるかわからない肩を不安に思ったまま、マウンドでの全力投球ができないからと電鉄に入社し、出向の形をとってくれた阪神にお世話になることにしたそうである。

ちなみに、首席入学の上田と違って大学での成績は芳しくなかったようである。卒業試験の時、問題がちんぷんかんぷんで答案用紙には何も書こうとせず、だまって腕組みをしているだけだった。すでに阪神と契約をすませており、教授からは名前を書くだけでいいからそれで卒業にしてやる、といわれて名前だけ書いてなんとか卒業することができたという。

[編集] プロ時代

プロ初登板は1959年3月2日阪神甲子園球場での巨人戦(オープン戦)。初代ミスタータイガース・藤村富美男の引退試合の日でもあった。当初は前日の予定も雨天中止のため月曜日の試合となったにもかかわらず、3万人の観衆を集め華々しく行われた。このとき村山は2回を投げ打者7人と対し、被安打1、無失点に抑えた。

公式戦初登板は同年4月14日国鉄戦。初先発でもあった。ただ、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客はたったの34人しかいなかったというが、公式記録では3千人。ちなみに、国鉄の先発は金田正一。結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封という鮮烈デビューであった。

同年6月25日天覧試合では、巨人の長嶋茂雄にレフトポール際へのサヨナラホームランを打たれた(この時はリリーフで登板)。微妙な判定であったため、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言っている。以来、村山vs長嶋のライバル関係ができあがった。

闘志むき出しで全身を使ったダイナミックなピッチングは「ザトペック投法」と呼ばれた。なお、村山のウィニングショットはフォークボールである。オーバースロースリークォーターサイドスローで投げ分けられるフォークは空振りを量産した。村山は小柄であったが、手は大きく手首から中指の先端まで約22センチあった。

現役時代、キャッチボール中に隣から飛んできたボールを反射的に右手で払いのけてしまい、右手首を傷める。この時に手首に負担がかからないフォークの投げ方を新たに開発したと述懐している。三宅秀史は同じようなケースで目を負傷し、連続試合出場が途切れている。

1962年1964年のリーグ優勝に貢献。1962年にはMVPを獲得した。1967年頃より右腕の血行障害に悩まされ、エースの座を江夏豊に譲る。1969年は兼任投手コーチ。1970年選手兼任監督に就任。同年200勝達成、この年記録したシーズン防御率0.98は規定投球回数以上での戦後唯一の0点台記録

1972年シーズン限りで現役引退、監督退任(この年は4月21日から金田正泰ヘッドコーチに監督を委ねた)。背番号11は阪神の永久欠番となった。

通算222勝は大卒の投手としてはチームの大先輩・若林忠志以降、最多勝記録である(阪神の投手勝利数の記録でも若林に次ぐ2位)。通算防御率2.09はセリーグ記録でもある。1973年3月の引退試合(巨人とのオープン戦)では、王貞治高田繁らをフォークボールで三振に切って取る(長嶋は発熱の為大阪入りせず)。村山登板の際には江夏の音頭で投手陣が作った騎馬に乗ってラッキーゾーン(当時ブルペンはラッキーゾーンにあった)から登場、満場の拍手に迎えられた。捕手の田淵幸一に「今日は涙で見えないから全部フォークでいく」と言い、その通り実行した。「ムラさんまだまだイケルよ!今日のフォークは最高だった」と告げるとまた涙でむせ返った。この試合では女優の浪花千栄子(同年12月死去)があいさつし、「村山はん、ほんまにあんた、ようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに」とねぎらいの言葉を贈った。

[編集] 引退後

1973年~1987年日本テレビ(系列局・よみうりテレビも兼任)の野球解説者となる。1988年1989年に再び阪神監督になり、自身の永久欠番の11をつける。

大野久和田豊中野佐資の若手選手3人を「少年隊」と命名して売り出し、話題を作るが成績は6位・5位と低迷した。この3人を相手に、キャンプで打撃投手を自ら買って出たほどの入れ込みようだったが、この無茶がたたって股関節を痛めてしまい、人工関節手術を受けることになってしまった。

在任中、ドラフト会議で立命館大学古田敦也捕手(元ヤクルト監督)の獲得を球団に進言したものの、眼鏡をかけているという理由で拒否されたことを、のちにテレビ番組で話している。

1989年6月25日、甲子園での阪神対巨人戦、岡田彰布ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放ち阪神が勝利するが、天覧試合からちょうど30年目の日で、同じ左翼ポール際への一発でスコアも5-4と裏返しとなり、しかもこの時の巨人監督が天覧試合完投勝利した藤田元司であったことから、岡田が村山監督の仇討ちを果たした形となった。村山の執念なのか、試合後「天覧試合と同じ日? そりぁうれしい、気分が全然違うよ」とコメントした。1989年オフ退任。

1990年からは朝日放送の野球解説者となる。1993年野球殿堂入り。現役時代から実業家の資質に長けており、村山自身、芦屋市のマンションを購入して自分自身の会社の本社にしたというエピソードは有名である。その自宅マンションは、阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活をしていた。1998年8月22日、直腸ガンのため死去。享年63(満61歳没)。葬儀の際に村山の棺を乗せた霊柩車は、参列した大勢のファンの「六甲おろし」の大合唱に送られて斎場を後にした。なお、出身校の尼崎産業高校には、2004年に銅像が建てられた。

エースとは投げる後姿で野手に語りかける物という持論を持っており、黒木知宏ロッテ)らのエース観において多大なる影響を与えている。

[編集] エピソード

  • 1963年8月11日の巨人戦で、リリーフに登板したが球審(国友正一)の「ボール」の判定に涙を浮かべて激しく抗議し、暴言を吐いたとして退場処分になった。このとき村山は最初の打者(池沢義行)との対戦中であり、「1人の打者との対戦が終わるまで投手は交代できない」という野球規則の例外記録となった。なお、村山は前日の同一カードでは8回までノーヒットというピッチングをしており、それを破られたのはこの日対戦していたのと同じ池沢だった。
  • 1500奪三振、2000奪三振(1969年8月1日)は長嶋茂雄から奪っている。これは本人がほかの打者はわざと打たせて取り、長嶋のときだけは三振を意図的に狙って取ったためである。
  • 初めて購入した自宅の電話番号が「3279」、つまり3(長嶋)に泣く、ということだったが、当時電話を引くのだけでも大変だった時代のためしばらくはこの電話番号を使っていた。
  • 1959年5月21日の巨人戦で、相手をノーヒットに抑え完投しながら味方の失策などで失点を許す“ノーヒットありラン”を記録している。試合は3-2で勝ち、完投して勝利投手となった。
  • MVPに選ばれた1962年11月17日日米野球デトロイト・タイガース戦、後楽園球場)で8回2死までノーヒット・ノーランに抑える快投を披露。終盤に2安打を喫し、快挙は逃したが無四球・9奪三振の完封勝利を収めた。日米野球で日本人投手が完封勝利を収めたのは史上初であった。
  • 愚直なまでのまっすぐな性格が災いして、多くの誤解を生んだ。経営者として数多くの社員を統制し、業績も上げた。
  • 吉田義男小山正明との球団を二分する確執は有名だが、様々な噂が「確執」を膨らませたもので、言われるほど険悪ではなかったと関係者の多くは証言している。
  • ほぼ同時期に活躍した小山正明は「10-0」でも「10-9」でも勝ちは勝ちというドライな性格だったが、村山の場合は「10-0」で9回2死ランナー無しでも、全力投球するスタイルを貫いた。
  • 例えば、小山は大量点でリードしていても、鬼の形相で投げ続ける村山に「適当に力抜かないとパンクしてしまうぞ」と声をかけたという。しかし村山は「力抜くとキャッチャーまでとどかないような気がする」と答えたところ、小山は「なんだあいつ、かっこつけやがって」と思っていたそうである。だが、村山の葬儀の際、小山は「頭に白いもの(白髪)が目立ち、この年になって村さんの言葉がようやくわかるようになった」と述べている。
  • その小山が解説をつとめていたゲームで、阪神の井川慶が好投していたが、味方の打線によって大量リードの援護を受けた直後に連打を浴びて失点した。実況のアナウンサーがどんな投手でも大量リードのときに手を抜いてしまうようなことがあるかという問いに「それはあります。一人を除いて。」と話し、さらに誰ですかと聞かれた。小山は、ただ一言「村山」と答えた。
  • 監督在任時に主力選手であった真弓明信が、故郷の福岡ダイエーホークスにトレードが決まりかけていたが、自身の首を賭けて全力で阻止したことでも知られる。
  • 永久欠番の栄誉を終生誇りにしていた。サインを求められ応じた際は必ず「阪神タイガース永久欠番」と添えていた。

[編集] 年度別投手成績

  • 表中の太字はリーグ最多。1970年~1972年は兼任監督。
年度 チーム 登板 完投 完封 無四
勝利 敗北 投球回 被安打 被本
塁打
与四
死球
奪三振 自責点 防御率(順位)
1959年 阪神 54 19 7 2 18 10 295.1 165 15 61 294 39 1.19(1)
1960年 36 7 1 0 8 15 167.2 116 12 51 153 47 2.52
1961年 48 18 3 1 24 13 293 238 16 69 221 74 2.27(6)
1962年 57 23 6 7 25 14 366.1 261 17 60 265 49 1.20(1)
1963年 28 10 2 0 11 10 158.1 126 16 49 121 49 2.77
1964年 46 17 5 2 22 18 255 227 27 85 159 94 3.32(17)
1965年 39 26 11 4 25 13 307.2 221 17 56 205 67 1.96(2)
1966年 38 24 8 9 24 9 290.1 194 16 56 207 50 1.55(2)
1967年 30 9 3 2 13 9 180.1 141 20 43 126 56 2.80(14)
1968年 32 14 1 0 15 8 198 169 13 46 152 60 2.73(7)
1969年 35 11 1 2 12 14 214.2 180 19 45 160 48 2.01(2)
1970年 25 7 5 1 14 3 156 85 7 37 118 17 0.98(1)
1971年 19 4 2 1 7 5 83 70 6 18 45 25 2.71
1972年 22 3 0 1 4 6 84.2 78 8 20 45 34 3.60
通算成績 509 192 55 32 222 147 3050.1 2271 209 696 2271 709 2.09

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 本塁打 打率 防御率 年齢 球団
1970年 2位 130 77 49 4 .611 2 110 .245 2.36 34歳 阪神
1971年 5位 130 57 64 9 .471 12.5 101 .220 2.76 35歳
1972年 2位 130 71 56 3 .559 3.5 125 .239 3.00 36歳
1988年 6位 130 51 77 2 .398 29.5 82 .248 3.82 52歳
1989年 5位 130 54 75 1 .419 30.5 135 .257 4.15 53歳
通算 650 310 321 19 .491  

※1970年から1996年までは130試合制

[編集] 背番号

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
金田正一
沢村賞
1959年
次代:
堀本律雄
先代:
金田正一
セ・リーグ最優秀防御率
1959年
次代:
秋山登
先代:
長嶋茂雄
セ・リーグMVP
1962年
次代:
長嶋茂雄
先代:
権藤博
セ・リーグ最優秀防御率
1962年
次代:
柿本実
先代:
ジーン・バッキー
沢村賞
1965年,1966年
(1966年は堀内恒夫と同時受賞)
次代:
小川健太郎
先代:
G.バッキー
セ・リーグ最多勝投手
1965年1966年
次代:
小川健太郎
先代:
金田正一
セ・リーグ最多奪三振
1965年~1966年
次代:
江夏豊
先代:
後藤次男1969年
阪神タイガース監督
1970年1972年
次代:
金田正泰1973年1974年
先代:
江夏豊
セ・リーグ最優秀防御率
1970年
次代:
藤本和宏
先代:
吉田義男
1985年1987年
阪神タイガース
監督
1988年1989年
次代:
中村勝広
1990年1995年途中)
※カッコ内は監督在任期間。
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