デトロイト・タイガース
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デトロイト・タイガース Detroit Tigers |
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創設: 1901年 | |
所属リーグ | |
歴代チーム名 | |
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歴代本拠地 | |
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収容人員: 41,070人 | |
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獲得タイトル(獲得年) | |
ワールドシリーズ優勝 (4回) | 1935 • 1945 • 1968 • 1984 |
リーグ優勝 (10回) | 1907 • 1908 • 1909 • 1934 1935 • 1940 • 1945 • 1968 1984 • 2006 |
地区優勝 (3回) | 1972 • 1984 • 1987 |
ワイルドカード (1回) | 2006年 |
球団組織 | |
オーナー: マイケル・イリッチ | |
GM: デーブ・ドンブロウスキー | |
監督: ジム・リーランド |
デトロイト・タイガース(Detroit Tigers、略称:DET)は、ミシガン州デトロイト市に本拠を置くアメリカメジャーリーグのチーム。アメリカンリーグ中地区に所属(1997年まで東地区に所属)。なお、英語本来の発音では「タイガーズ」であるが、日本では「阪神タイガース」に引きずられる形でマスコミ報道でも「デトロイト・タイガース」と表記・発音されることが多い。また、デトロイトの本来の発音は、デトロワー(フランス語)→ディトロイトである。
目次 |
[編集] 概要
1901年のアメリカンリーグ発足時に加盟した球団である。球聖タイ・カッブを擁し、1907年からリーグ3年連続優勝を果たすもワールドシリーズ制覇はならず。1935年、ミッキー・カクレーン、ハンク・グリーンバーグなどの活躍で悲願のワールドシリーズ初優勝を果たす。1945年の2度目の世界一を境に低迷期に入るが、1968年はアル・ケーライン、ウィリー・ホートンが中心となり3度目のワールドチャンピオンに輝く。
その後、1979年途中から1995年までスパーキー・アンダーソン監督の長期政権下でワールドチャンピオン(1984年)とリーグ優勝(1987年)が各1回。特に1987年はジャック・モリスをエースにシーズン104勝58敗。2位に15ゲームという大差をつけ、圧倒的な強さを誇った。1990年代前半には元・阪神タイガースのセシル・フィルダーが所属し、ベーブ・ルース以来となる3年連続打点王に輝いている。しかし近年は勝率5割にも届かない低迷期が長く続き、2003年にはア・リーグワースト記録の119敗を喫してしまう。
2001年のデーブ・ドンブロウスキーGMの就任後はイバン・ロドリゲスやマグリオ・オルドニェス、ケニー・ロジャースらの獲得に成功。2006年にジム・リーランド監督が就任すると、開幕から怒涛の快進撃を見せ、19年ぶりのプレーオフ進出を決めた。プレーオフでは、ニューヨーク・ヤンキース、そしてオークランド・アスレチックスを破り、リーグ優勝を果たした。
2007年のチーム打率.287、857打点と打率、打点共にヤンキースに次ぐ両リーグ2位。オルドニェス、ゲーリー・シェフィールドといった強打者を擁し、メジャー屈指の強力打線をもつ。投手陣では2006年に新人王を獲得したジャスティン・バーランダーが絶対的エースとして君臨している。2007年オフにはアトランタ・ブレーブスからエドガー・レンテリア、シカゴ・カブスからジャック・ジョーンズ、 フロリダ・マーリンズからミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスを獲得するなど次々と大型補強を行い、かつてないほど戦力が充実している。
現在の本拠地は、2000年に開場したコメリカ・パーク。入場ゲート前の巨大な虎の像をはじめ、球場の至る所にチームの象徴である虎にちなんだモニュメントが存在する。またNFLデトロイト・ライオンズの本拠地であるフォード・フィールドが隣接している。前本拠地のタイガー・スタジアムは100年余りの歴史を持つ球場であり、移転の際には賛否両論が起こった。
日本人選手では、木田優夫、野茂英雄が所属していた。また1990年代前半には、上記のフィルダーに加え、ロブ・ディアー、ビル・ガリクソン、トニー・バナザードといった日本からの出戻り組が揃って活躍し、アンダーソン監督をして「日本製品はすばらしい!!」と言わしめている。
[編集] 球団の歴史
[編集] 球団創設
前身は1881年から1888年にかけてナショナルリーグに在籍したデトロイト・ウルバリンズという球団。ウルバリンズは1887年にリーグ優勝を遂げ、この年にはアメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズ(現在のセントルイス・カージナルス)との間で『ワールドシリーズ』を行っている(結果は10勝5敗でウルバリンズの勝利)。しかし優勝のための補強が大きな負担となり、翌年リーグ5位と低迷すると1888年限りでリーグを脱退。その後、マイナーリーグであるインターナショナルリーグに籍を移し、1889年と1890年の2年間にわたって活動したが、リーグの消滅と共にチームも解散した。
1894年、デトロイトに新たなチームが創設され、アメリカンリーグの前身となるウェスタンリーグに加盟した。1896年にはベネット・パークが開場し、2000年にコメリカ・パークが開場するまでの104年間に渡って、この地で試合が行われることとなる(1912年、ベネット・パークはネビン・フィールドとして改築)。なお、球団が創設された頃はチーム名が定まっていなかったが、この頃にはタイガースという名前が定着したといわれる。
1901年にアメリカンリーグが創立されると、タイガースも同リーグに加盟する。開幕戦ではミルウォーキー・ブルワーズ(現在のボルチモア・オリオールズ)と対戦し、試合が行われたベネット・パークには1万人もの観客が集まった。試合は9回まで4対13と大量リードされていたが、9回表に一挙10点をあげて逆転し、14対13で劇的な初勝利を飾った。その後シーズンでは74勝61敗をあげ、リーグ3位(8チーム中)に終わっている。しかし1902年から1904年まで3年連続で負け越し、優勝とは縁のない目立たないチームとしてその歴史をスタートさせた。
[編集] タイ・カッブの登場
1905年、チームにタイ・カッブが入団する。タイガース首脳陣が、マイナーリーグの別のチームでめざましい活躍を見せていたカッブに目をつけ、タイガースの投手との間で交換トレードを行ったものだった。なお、カッブは入団の際に、恒例の新人歓迎(新人相手のいたずら)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こしており、早くからその気性の激しさをチームメイトに知られることとなる。初年度こそ41試合の出場に留まり、打率.240と本領を発揮できなかったが、2年目の1906年には98試合の出場で打率.316をと好成績を残した。
1907年にはヒューイー・ジェニングスが選手兼任監督に就任。この頃チームの打線を引っ張っていたのはカッブとサム・クロフォードだった。クロフォードは1903年にシンシナティ・レッズから移籍し、カッブが入団するまでチームの中心打者を担っていた。カッブはこの年、打率.350・119打点・49盗塁を記録し、首位打者、打点王、盗塁王をそれぞれ獲得。クロフォードも負けずに打率.323・81打点・102得点を記録した。投手陣でもビル・ドノヴァンとエド・キリアンがそれぞれ25勝をあげる活躍をみせ、チームも92勝58敗でリーグ初優勝を果たした。初めての出場となったワールドシリーズではシカゴ・カブスと対戦。第1戦では3対1とリードしていたが最終回に追いつかれ、延長12回の末に日没コールドで引き分けとなった。その後はカブス投手陣に完全に押さえ込まれ、4連敗でワールドチャンピオンを逃してしまった。
1908年、カッブが打率.324・108打点で二冠王に輝くと、クロフォードも7本塁打で本塁打王に輝いた。シーズンではクリーブランド・インディアンス、シカゴ・ホワイトソックスとの激しい首位争いを演じたが、最終的に90勝63敗で2年連続のリーグ優勝を果たした。続くワールドシリーズでは再びカブスとの対戦となった。第1戦では去年と同じく6対5とリードしていながら、最終回に一挙5点を奪われ逆転負けを喫し、続く第2戦も敗れた。第3戦で初勝利を飾るものの、第4戦、第5戦でも連敗を喫した。結局1勝4敗でまたしてもワールドチャンピオンを逃し、昨年のリベンジを果たすことはできなかった。
1909年、カッブは打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、史上唯一の四冠王に輝く。この頃にはカッブの勝利への執念は常軌を逸したものとなり、首位を争っていたフィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)との対戦では、盗塁の際にフランク・ベーカーの腕をスパイクで刺したり、エディ・コリンズをスライディングで転ばせるなど、半ば反則まがいのプレーを行った。他チームからのカッブの評判は最悪なものだったが、こうしたカッブの執念が実を結び、チームも98勝54敗でリーグ3連覇を果たした。ワールドシリーズではホーナス・ワグナー擁するピッツバーグ・パイレーツと対戦。両リーグの首位打者同士の対戦として注目を浴びる。シリーズでは交互に勝ち負けを繰り返し、最終戦までもつれ込む大混戦となった。しかし大一番の最終戦でタイガースが完封負けを喫し、3年連続でワールドチャンピオンを逃してしまった。
[編集] 1910年 - 1920年代
1910年以降、チームはリーグ優勝から遠ざかることとなるが、カッブの成績が落ち込むことはなかった。1907年から1915年までの9年連続、1917年から1919年までの3年連続で首位打者を獲得し、通算で12回の首位打者を獲得した(歴代1位)。1911年には打率.420という高打率を記録し、通算打率は.366にのぼる(歴代1位)。なお、1910年にはナップ・ラジョイと首位打者争いを繰り広げ、カッブに首位打者を取らせたくないが為に、他チームがわざとラジョイに安打を打たせるという事件もあった。最終的にカッブが首位打者となったが、後年になってカッブの記録に誤りが見つかり、ラジョイの打率がわずかに上回ったものの、公式の首位打者はカッブのまま変更されなかった。
1915年にはクロフォード(112打点)、ボブ・ヴィーチ(112打点)、カッブ(99打点)によるタイガースの外野陣トリオが打点ランキングを独占し、カッブは当時のメジャー最多記録となる96盗塁を記録した。チームも100勝(54敗)をあげたが、ボストン・レッドソックスがそれを上回る101勝(53敗)をあげたため、リーグ優勝はならなかった。
1921年、長年に渡って監督を務めたジェニングスがチームを離れたため、代わってカッブが選手兼任監督に就任する。この年にはハリー・ハイルマンとカッブが打率1位、2位を独占し、ア・リーグ史上最高となるチーム打率.316を記録した。しかし投手陣が全く奮わず、首位ヤンキースとは27ゲーム差の6位でシーズンを終えた。この頃からベーブ・ルース擁するヤンキースが圧倒的な強さを見せ始め、タイガースもカッブやハイルマンがチームを牽引するものの、優勝には全く手が届かないシーズンが続いた。1926年限りでカッブもチームを離れ、タイガースの低迷は1934年まで続くこととなった。
[編集] 初の世界一
1929年、前年までワシントン・セネタース(現在のミネソタ・ツインズ)を率いていたバッキー・ハリスを監督に招く。しかしハリスでも結果を出すことができず、1933年のシーズン途中でハリスは解任された。
1934年、アスレチックスの捕手だったミッキー・カクレーンが選手兼任監督に就任する。アスレチックスの黄金期を支えたカクレーンは、まず選手の意識改革を行い、強烈なリーダーシップでチームを牽引した。この年にはカクレーン自身の活躍に加え、チャーリー・ゲーリンジャー、ハンク・グリーンバーグ、グース・ゴスリンらも好成績を残し、ルー・ゲーリック擁するヤンキースと首位を争った。最終的にタイガースが101勝53敗をあげてヤンキースをかわし、久々のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズの相手は「ガスハウスギャング」と呼ばれたセントルイス・カージナルスで、3勝2敗と追い込んだものの、そこから2連敗を喫し、ワールドシリーズ優勝は成し得なかった。
1935年も引き続きヤンキースとの一騎打ちとなったが、93勝58敗でリーグ2連覇を果たし、ワールドシリーズではカブスとの3度目の対戦となった。第1戦は完封負けを喫したが、第2戦から第4戦で3連勝をあげた。そして3勝2敗で王手をかけた第6戦、3対3のままで迎えた9回裏に、グスリンがサヨナラヒットを放ち、タイガースが勝利。5度目の挑戦にして初のワールドチャンピオンに輝いた。
1937年5月25日のヤンキース戦で、カクレーンは頭部に死球を受け、それが元で現役を退き、以降は監督専任となった。翌1938年のシーズン途中には成績不振が続いたため、カクレーンは監督を解任された。1940年、アスレチックス、ヤンキースとの三つ巴の争いとなり、最終的にタイガースがそれぞれのチームに1,2ゲーム差をつけてリーグ優勝した。しかしワールドシリーズではシンシナティ・レッズに2勝3敗で敗れている。
[編集] 1940年 - 1950年代
1941年に太平洋戦争が始めると、他のチームと同様、タイガースからも選手の多くが従軍することとなる。そんな中、1944年にはハル・ニューハウザーが29勝(9敗)をあげ、ア・リーグMVPに選出される。戦争が終わった1945年には従軍していたグリーンバーグもチームに復帰し、ニューハウザーは25勝9敗・防御率.1.81・212奪三振とタイトルを独占する活躍をみせ、2年連続でMVPに選出された。チームも88勝65敗で、首位を争ったセネタースをかわし、7度目のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではカブスと対戦。どちらのチームにもいまだ従軍から戻っていない選手が多かったため戦力的には拮抗していたが、ニューハウザー、グリーンバーグの活躍によってタイガースが4勝3敗でカブスを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。
1946年以降チームは徐々に成績を落とし、1952年には50勝104敗でダントツの最下位となってしまう。1953年にはハービー・キーンが209安打を放ち、新人王を獲得。1955年にはアル・ケーラインが打率.340を記録し、史上最年少となる20歳での首位打者を獲得する。その後、ケーラインは22年間に渡ってタイガース一筋でプレーし、"Mr. Tiger"(ミスター・タイガー)と呼ばれた。しかし彼らの活躍の反面、チームは依然として低迷を続けた。この頃のチームの低迷の一因として、アフリカ系アメリカ人選手の入団を拒んだことがあげられる。ジャッキー・ロビンソンをきっかけとして、多くのアフリカ系アメリカ人選手が活躍し、メジャーのレベルを引き上げる中、タイガースはその流れに取り残されることとなった。タイガースにアフリカ系アメリカ人選手が初めて入団したのは1958年のことであり、メジャーでは2番目の遅さだった。1959年にはキーンが首位打者を獲得するが、その年のオフには、本塁打王を獲得していたクリーブランド・インディアンスのロッキー・コラビトとのトレードが行われた。また翌1961年のシーズン途中にはタイガースとインディアンスの監督同士をトレードするというメジャー史上唯一の珍事もあった。
[編集] 1960年代
1961年、シカゴ・ホワイトソックスから移籍したノーム・キャッシュが打率.361を記録し、首位打者を獲得。他にも41本塁打・132打点という活躍ぶりだった(なお、キャッシュはこの年の成績だけが突出しており、引退後に規則違反となるコルクバットの使用を認めている)。この年には、キャッシュをはじめ、ケーライン、コラビトの活躍もあり、チームも101勝(61敗)をあげたが、ヤンキースが109勝53敗という圧倒的な成績だったため、リーグ優勝はならなかった。1966年には当時監督を務めていたチャック・ドレッセンとボブ・スイフトが相次いで病気で亡くなるという事態も起こっている。翌1967年はタイガースを含めた4チームによる史上稀な大混戦が繰り広げられた。最終的にタイガースが最終日のダブルヘッダーで連勝すれば、首位のレッドソックスと1ゲームプレーオフが開かれるところまで持ち込まれたが、2試合目で敗れてしまっため、これはならなかった。
1968年、シーズン序盤にボルチモア・オリオールズから首位を奪うと、そのまま一度も首位をキープしたまま、103勝59敗という成績でリーグ優勝を果たした。原動力は31勝をあげたデニー・マクレーンで、マクレーンは1934年のディジー・ディーン以来となるシーズン30勝以上を記録した。そしてワールドシリーズではボブ・ギブソン、ルー・ブロック擁するセントルイス・カージナルスとの対戦となった。この頃、カージナルスは全盛期を誇っており、ギブソンはワールドシリーズにめっぽう強いことで有名だった。第1戦と第4戦ではマクレーンとギブソンの対決となったが、どちらもギブソンが投げ勝ち、第4戦を終えた時点で1勝3敗と追い込まれてしまった。絶対に負けられない試合となった第5戦、3対2とリードされた5回に、ブロックを二塁においた場面でヒットを打たれ、追加点をとられるピンチとなった。しかし左翼を守っていたウィリー・ホートンが好返球、ブロックを本塁でタッチアウトした。これによって流れがタイガースに傾き、チームはこの試合で逆転勝利を果たす。続く第6戦も連勝し、迎えた第7戦、マウンドに上がったのはギブソンだったが、7回にカージナルス守備陣の乱れから3点を先制し、このままタイガースが逃げ切ってワールドシリーズ優勝を決めた。
[編集] 1970年代
1971年、ビリー・マーチンが監督に就任する。マーチンは前々年にミネソタ・ツインズの監督を務め、チームを地区優勝に導いている。しかしフロントと対立し、1年限りでチームを追われていた。1年目こそ2位に終わったが、翌1972年には2位レッドソックスを0.5ゲーム差でかわし、チームを初の地区優勝に導いた。しかしリーグチャンピオンシップシリーズではオークランド・アスレチックスに2勝3敗で敗れてしまった(アスレチックスはこの年からワールドシリーズ3連覇を成し遂げるなど、黄金期を迎えていた)。1973年のシーズン途中でマーチンは監督を辞任。その後1974年、1975年と連続最下位に終わり、1980年代に入るまで低迷が続いた。1976年にはマーク・フィドリッチが21歳でメジャーデビューし、いきなり19勝をあげ(戦後では新人最多記録)、新人王を獲得した。その風貌がセサミストリートの登場キャラクターであるビッグバードに似ていたため、"The Bird"(ザ・バード)と呼ばれ、ユニークな言動も相まって絶大な人気を誇った。しかしその後は腕の故障のため、4年間で10勝しかできず、1980年限りで引退した。
[編集] スパーキー・アンダーソン
1979年のシーズン途中、スパーキー・アンダーソンを監督に迎える。アンダーソンは「ビッグレッドマシン」・シンシナティ・レッズの監督として知られ、アンダーソンが監督に就任すると、タイガースは次第に勝てるチームへと変貌する。この頃チームにはジャック・モリス、ランス・パリッシュ、アラン・トランメル、ルー・ウィテカー、カーク・ギブソンといった有望な若手選手が多く存在し、アンダーソンの下でめきめきとその才覚を発揮していった。
1984年、チームは開幕から40試合で35勝5敗という驚異的なペースで勝ち星を重ねた。最終的に104勝58敗という圧倒的な成績をあげ、ダントツの1位(2位トロント・ブルージェイズとは15ゲーム差)で地区優勝を果たした。続くリーグチャンピオンシップシリーズでカンザスシティ・ロイヤルズに3連勝。ワールドシリーズではサンディエゴ・パドレスを4勝1敗で下し、4度目のワールドチャンピオンに輝いた。これによってアンダーソンは、両リーグで世界一を経験した史上初の監督となった。この年はモリスがノーヒット・ノーランを含む19勝をあげ、抑えのウィリー・ヘルナンデスが80試合の登板で防御率1.92・32セーブを記録し、MVPとサイ・ヤング賞を獲得した。また、1986年には捕手パリッシュ(22本)、一塁ダリル・エバンス(29本)、二塁ウィテカー(20本)、遊撃トランメル(21本)、三塁ダネル・コールズ(20本)、外野ギブソン(28本)と内野手全員を含む野手6人が20本塁打以上を放っている。この頃のタイガースはまさに往年のビッグレッドマシンを髣髴とさせる陣容を誇った。
1987年のシーズン途中、新人のジョン・スモルツ(スモルツはゲーリンジャーの甥でもあった)との交換トレードでアトランタ・ブレーブスからドイル・アレクサンダーを獲得。アレクサンダーは11試合に先発して、完封3を含む9勝0敗、防御率1.53という驚異的な成績を残した。彼の活躍もあり、チームは逆転で地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでツインズに敗れた。1988年は首位レッドソックスに1ゲーム差の2位に終わったが、翌1989年には59勝103敗と大きく落ち込み、最下位に転落してしまう。1990年、阪神タイガースでプレーしていたセシル・フィルダーを獲得。フィルダーは51本塁打・132打点で二冠王に輝き、同時に1977年のジョージ・フォスター以来となるシーズン50本塁打以上を記録した。その後、ロブ・ディアー、ミッキー・テトルトンを獲得し、1992年には30本塁打トリオ(と同時に130三振トリオでもあった)を形成するが、投手陣が散々だったため、優勝には手が届かなかった。なお、1992年には現在のオーナーであるマイケル・イリッチがチームを買収している。
[編集] 低迷期 (1995年 - 2005年)
1995年限りでアンダーソンが監督を辞任し、バディ・ベルが監督に就任する。しかし就任1年目には53勝109敗でダントツの最下位(首位ヤンキースとは39ゲーム差。4位のブルージェイズにさえ21ゲーム差をつけられた)となってしまう。1998年に3地区制が導入され、タイガースは中地区に所属することとなった。しかし再び最下位に沈み、シーズン途中でベルは解任させられた。代わってラリー・パリッシュが監督に就任するが、彼も結果を残すことができなかった。
2000年にはタイガー・スタジアムからコメリカ・パークに本拠地を移すが、以降チームはますます低迷し、2002年には55勝106敗で再び勝率3割台に落ち込んだ。2003年からアラン・トランメルが監督に就任するが、この年にはア・リーグワーストとなる119敗(43勝)を記録してしまう。事態を重くみたデーブ・ドンブロウスキーGM(2001年から就任。フロリダ・マーリンズがワールドシリーズ制覇を果たした際のGMとして知られる)は、この年のオフから積極的な補強を行った。この年にはイバン・ロドリゲスやカルロス・ギーエン、翌年にはケニー・ロジャースやマグリオ・オルドニェスといった一流選手をかき集め、チームの再建を図った。
[編集] 2006年以降
2005年限りでトランメル監督を解任し、2006年からはジム・リーランドを監督に招く。2006年は上記の助っ人選手に加え、新人王を獲得したジャスティン・バーランダーをはじめとした生え抜きの若手選手も奮起。95勝67敗と12年ぶりに勝ち越し、地区2位ながらワイルドカードを獲得した。ディヴィジョンシリーズではヤンキースを3勝1敗で下すと、続くリーグチャンピオンシップシリーズではアスレチックスに4連勝し、22年ぶりのリーグ優勝を果たした。しかしワールドシリーズではカージナルスと対戦し、こちらは1勝4敗で敗れてしまった。
2007年にはヤンキースからゲイリー・シェフィールドを獲得。2006年のメンバーもほとんど残留し、戦力的には上積みされた。リーグ2連覇に期待がかかったが、いざシーズンが始まってみると故障者が続出し、駒不足となった後半戦からは失速した。結局インディアンスに地区優勝を奪われ、ワイルドカード争いではヤンキースに敗れてしまった。そのためこの年のオフにはブレーブスからエドガー・レンテリア、カブスからジャック・ジョーンズ、そしてマーリンズからミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスを獲得するなど、球団史上最大級の補強を行っている。
[編集] チーム名の由来
アメリカ大陸には虎は棲息しない。このタイガースという名前は、球団発足当時の監督が濃紺地にオレンジ(アメリカでは一般に、虎の色は黒と黄色ではなくこの2色で表現されることが多い)のストライプのストッキングを履いていて、それがトラの縞を連想させたためである。なお、阪神タイガースもこのデトロイトタイガースに由来しており(工業都市つながり)、後に発足するNFLのデトロイト・ライオンズもこの虎と同じくらい強い猛獣から名前が付いている。
最初はミシガン州に生息していた動物からウルバーリンズ(クズリ、イタチ科の肉食動物)という名称だったが、地元新聞の記者が見出しに「タイガース」と書いた、という異説もある。
[編集] 主な選手
[編集] 現役選手
[編集] 殿堂入り選手
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[編集] 永久欠番
- タイ・カッブ(Ty Cobb)
- アーニー・ハーウェル(Ernie Harwell)
- 2 チャーリー・ゲーリンジャー(Charlie Gehringer)
- 5 ハンク・グリーンバーグ(Hank Greenberg)
- 6 アル・ケーライン(Al Kaline)
- 16 ハル・ニューハウザー(Hal Newhouser)
- 23 ウィリー・ホートン(Willie Horton)
- 42 ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)
タイ・カッブは背番号が無い時代の人物のため、欠番扱いとなっている。また、アーニー・ハーウェルは球場アナウンサーとして41年間務めた功績により、欠番と同格に顕彰されている。
[編集] 傘下マイナーチーム
クラス | チーム | 参加リーグ |
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AAA | トレド・マッドヘンズ(Toledo Mud Hens) | International League |
AA | エリー・シーウルブズ(Erie SeaWolves) | Eastern League |
A+ | レイクランド・フライングタイガース(Lakeland Flying Tigers) | Florida State League |
A | ウェストミシガン・ホワイトキャップス(West Michigan Whitecaps) | Midwest League |
A- | オネオンタ・タイガース(Oneonta Tigers) | New York-Penn League |
Rookie | ガルフコースト・タイガース(Gulf Coast Tigers) | Gulf Coast League |
[編集] 外部リンク
- デトロイト・タイガース公式ウェブサイト(英語)
- チームの通算成績と情報 MLB, or ESPN, or Baseball-Reference , or The Baseball Cube
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球団 | 歴史 • 選手 |
歴代本拠地 | ベネット・パーク • タイガー・スタジアム • コメリカ・パーク |
永久欠番 | DET • DET • 2 • 5 • 6 • 16 • 23 • 42 |
ワールドシリーズ優勝 (4) | 1935 • 1945 • 1968 • 1984 |
傘下マイナーチーム | トレド・マッドヘンズ (AAA) • エリー・シーウルブズ (AA) • レイクランド・フライングタイガース (A) • ウェストミシガン・ホワイトキャップス (A) • オネオンタ・タイガース (A) • ガルフコースト・タイガース (Rookie) |