タンパベイ・レイズ
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タンパベイ・レイズ Tampa Bay Rays |
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創設: 1998年 | |
所属リーグ | |
歴代チーム名 | |
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歴代本拠地 | |
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収容人員: 41,315人 | |
獲得タイトル(獲得年) | |
ワールドシリーズ優勝 | なし |
リーグ優勝 | なし |
地区優勝 | なし |
ワイルドカード | なし |
球団組織 | |
オーナー: スチュアート・スターンバーグ | |
GM: アンドリュー・フリードマン | |
監督: ジョー・マドン |
タンパベイ・レイズ(Tampa Bay Rays、略称:TB)は、アメリカメジャーリーグ、アメリカンリーグ東地区に所属するプロ野球チーム。本拠地はフロリダ州セントピーターズバーグのトロピカーナ・フィールド。
目次 |
[編集] 概要
シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照
球団創設は1998年。アリゾナ・ダイヤモンドバックスと共に、球団拡張の一環として誕生した。「デビルレイズ」という名称は、英語で同名のオニイトマキエイ(マンタともいわれる。フロリダ湾には多く棲息する)。2007年オフより、チーム名がタンパベイ・デビルレイズ(Devil Rays)から「Devil」の文字を取り、タンパベイ・レイズ(Rays)と改称された。球団シンボルは、同じく「Ray」だが、これまで同様エイとともに光線も意味するものに変わった。
デビルレイズ時代の10年間の通算成績は645勝972敗(勝率.399)という数字で、2004年に地区4位であった以外はすべてのシーズンで地区最下位であった。勝ち越したシーズンは一度もなく、シーズン70勝に達したのも2004年のみ。ダイヤモンドバックスが創設翌年には早くも地区優勝を成し遂げ、2001年にはワールドチャンピオンにも輝いたのとは対照的であった。
また、観客動員数も伸び悩み、2000年以降の観客動員総数、1試合平均観客数はともにアメリカンリーグの中でワーストを継続している[1](同じくフロリダ州に本拠地を構えるフロリダ・マーリンズも観客動員数で低迷)。これは、チームの成績不振に加え、タンパではニューヨーク・ヤンキースが2月のスプリング・キャンプを近くで行っているため、ヤンキースファンが多いことも影響しているといわれる。
万年最下位が幸いしてか、完全ウェーバー制をとるドラフト会議では毎年のように将来有望な若手選手を優先的に獲得している。そのため、カール・クロフォード、ロッコ・バルデッリ、B.J.アプトン、デルモン・ヤング(2008年からミネソタ・ツインズでプレー)といった有望選手を次々と上位指名し、いずれもチームの中軸として活躍している。他にもドラフト上位選手ながら、他球団では芽が出ず、出場機会を求めてレイズに移籍する選手も多い。
2004年には、2000年のニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブス戦以来、2度目となる日本での開幕戦をおこなっている。対戦相手はヤンキースで、松井秀喜の日本凱旋試合となった。試合は東京ドームで行われ、開幕試合は8対3で勝利したが、続く2試合目では、松井の2安打1本塁打3打点の活躍もあり、1対12で大敗している。
日本人選手では、過去に野茂英雄、森慎二が在籍していた。野茂は2005年にプレーし、同年6月15日には日米通算200勝を成し遂げるが、19試合に登板し、5勝8敗・防御率7.24と低迷したため、シーズン途中に戦力外通告を受け、後に解雇された。森は2005年オフに2年契約を結んだが、右肩の故障でメジャーデビューは適わず、2006年オフに解雇された。2007年には岩村明憲がチームに加入。主に1番打者として出場し、打率.285・7本塁打・34打点を記録した。
[編集] 球団の歴史
[編集] 球団創設前
フロリダ州西海岸のセントピーターズバーグやタンパは、1年を通じて穏やかで温暖な気候なため、古くからメジャーチームのキャンプ地として知られた。まず、1913年にシカゴ・カブスがタンパにキャンプを地を移したといわれ、1922年にはボストン・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)もセントピーターズバーグでキャンプを行うようになった。以来、多くのチームが両都市をキャンプ地として選び、地元に多くの野球ファンを生み出すこととなる(2008年現在、メジャーのキャンプ地があるのはフロリダ州とアリゾナ州のみであり、フロリダ州には17チームがキャンプ地を構え、グレープフルーツリーグと呼ばれるオープン戦が行われている)。
その後、地元にはフロリダ・ステーツリーグと呼ばれるマイナーリーグも存在したが、1980年代にはいると、メジャーチームを誘致しようとする動きが活発となる。1990年にはドーム球場であるフロリダ・サンコースト・ドーム(現在のトロピカーナ・フィールド)が開場。この頃には、1993年からの球団拡張が決定し、地元にメジャーチームが誕生することが期待された。しかし結局は、デンバー(コロラド・ロッキーズ)とマイアミ(フロリダ・マーリンズ)にフランチャイズ権が与えられ、この時は実現することはなかった。1992年には、サンフランシスコ・ジャイアンツのオーナーだったボブ・ルーリが、フロリダに拠点を構えていた投資家グループ(マイク・ピアザの父親であるビンス・ピアザらが代表を務めていた)にチームを売却し、地元セントピーターズバーグに本拠地を移す計画を立てる。しかし、この計画もMLB機構やサンフランシスコ住民の反対によって実施されることはなく、ジャイアンツも現在のオーナーであるピーター・マゴワンに売却され、そのままサンフランシスコに留まることとなった。
最終的に1995年には、再び球団拡張が決定。フランチャイズ権がフェニックス(アリゾナ・ダイヤモンドバックス)と共にセントピーターズバーグにも与えられ、念願のメジャーチームが誕生することとなった。これによって新チームの設営が急がれることとなり、チャック・ラマーが球団社長兼GMに就任。チーム名はタンパベイ・デビルレイズに決定する。これに伴ってフロリダ・サンコースト・ドームも野球専用球場に改修され、それまで同球場を本拠地としていたNHLのタンパベイ・ライトニングやAFLのタンパベイ・ストームもそれぞれ本拠地を移動した。1997年には球場名もネーミングライツを獲得したトロピカーナ社によってトロピカーナ・フィールドに変更。同年にはラリー・ロスチャイルドが初代監督に任命され、同年のエクスパンション・ドラフトによって35人の選手を獲得した。こうしてチームは完成し、あとは1998年のシーズン開幕を待つのみとなった。
[編集] タンパベイ・デビルレイズ(1998年 - 2007年)
1998年3月31日、本拠地トロピカーナフィールドにおいて、対戦相手にデトロイト・タイガースを迎え、チーム初試合を行った。開幕投手はウィルソン・アルバレスが務め、ウェイド・ボッグスがチーム初本塁打を放つなどの活躍をみせたが、試合は6対11で敗れてしまった。しかし、翌日の試合で初勝利をあげると、そのまま白星を重ね、19試合を終えた時点で11勝8敗とまずまずのスタートを切った。しかし、シーズン中盤になると次第に負けが込むようになり、6月30日からは泥沼の11連敗。そのまま最下位でシーズンを過ごすこととなり、最終的に首位ニューヨーク・ヤンキースと51ゲーム差の63勝99敗でシーズンを終えた。そして、これ以降、2003年まで6年連続で最下位のシーズンが続くこととなる。
翌1999年にはホセ・カンセコがチームに加入し、34本塁打・95打点を記録。また、シーズン途中の8月7日には、本拠地トロピカーナ・フィールドで、ボッグスが通算3000本安打を本塁打で記録した。ボッグスは同年限りで引退を表明し、2005年には野球殿堂入り、引退の翌年には背番号である「12」がチームの永久欠番に指定された。2000年には、ビニー・カスティーヤ、グレッグ・ボーンという強打者2人を獲得。カンセコ、カスティーヤ、ボーン、フレッド・マグリフというシーズン35本塁打以上を記録したことのある選手4人が揃った。しかしながら、いずれの選手も期待通りの活躍をみせることはできず、チームも最下位に沈んだままであった。
2001年、シーズンが開幕したばかりの4月11日には、ロスチャイルドに代わりハル・マクレーが監督に就任。この頃にはランディ・ウィン、オーブリー・ハフといった若手選手が台頭し始め、2002年には若干20歳のカール・クロフォードがメジャーデビューを果たした。2003年には、前年までシアトル・マリナーズを率いたルー・ピネラが監督に就任。同年にはロッコ・バルデッリがメジャーデビューし、新人王投票で3位にはいる活躍をみせた。また、クロフォードが55盗塁を記録し、盗塁王を獲得。球団初の個人タイトルをもたらしている。
2004年、70勝91敗ながら地区4位でシーズンを終え、球団史上初めて最下位を脱出した。また、8月11日にはB.J.アプトンが19歳という球団史上最年少でメジャーデビューを果たしている。この年のオフには開幕投手を務めたビクター・ザンブラーノとニューヨーク・メッツのスコット・カズミアーをトレード。カズミアーは翌2005年にメジャーデビューを果たし、10勝9敗・防御率3.77・174奪三振とエース級の働きをみせた。この年には野茂英雄も在籍し、日米通算200勝を達成。また、ホルヘ・カントゥ、ジョニー・ゴームスの2人もブレイクしたが、チームは再び最下位に沈んだ。
2006年には、ピネラが監督を辞任し、ジョー・マドンが監督に就任。しかし、開幕から最下位が続き、終わってみれば61勝101敗と4年ぶりの100敗シーズンとなってしまった。この年のデビルレイズは特にアウェイでその弱さが際立ち(ホーム:41勝40敗、アウェイ:20勝61敗)、これは1961年以降ではメジャーワーストの成績だった。2007年には、ボストン・レッドソックスから移籍したカルロス・ペーニャが46本塁打・121打点と大爆発し、本塁打、打点、四球、出塁率、長打率の球団記録を塗り替えた。他にも、カズミアーが239奪三振を記録し、最多奪三振を獲得。クロフォードもメジャー史上7人目となる5年連続での打率上昇(250打席以上)を記録している。しかし、この年も最下位脱出はならなかった。
[編集] タンパベイ・レイズ(2008年 - )
2007年11月にチームの名称を「タンパベイ・レイズ」に変更するとの発表がなされた。これにともない球団イメージも、これまでのエイ(Devil ray)から、光線(Ray)に変更され、ユニフォームやロゴも一新(ユニフォームの左袖にはこれまで通り、エイの図柄は残る)、チームカラーはこれまでの緑と白からネイビーと薄い青色に変更された(なお、前チームカラーの緑は地元名産のグレープフルーツの葉の緑を表していた。トロピカーナフィールドのネーミングライツを持つ、トロピカーナ社を意識したものと言われる)。
新しいチーム名を発表したスチュアート・スターンバーグオーナーは「(名称やチームカラーなどの変更は)新たなレベルと成功を目指すチームを後押しするはずだ」と述べ、新ユニフォームを披露したカール・クロフォードは「ここからスタートを切るような、初めて学校に行くときのような、すがすがしい気分だ。『気持ちがプレーに出る』と言うから、いいプレーができればいいんだが」と低迷を続けるチームからの脱却を誓っている[2][3]。また、2012年開場を目指し新本拠地の建設計画も発表されている(w:en:Rays Ballpark)。
[編集] 主な選手
[編集] 現役選手
[編集] 殿堂入り選手
- ウェイド・ボッグス(Wade Boggs)
[編集] 永久欠番
- 12 ウェイド・ボッグス(Wade Boggs)
- 42 ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)
[編集] 傘下マイナーチーム
クラス | チーム | 参加リーグ |
---|---|---|
AAA | ダラム・ブルズ(Durham Bulls) | International League |
AA | モンゴメリー・ビスケッツ(Montgomery Biscuits) | Southern League |
A+ | ベロビーチ・デビルレイズ(Vero Beach Devil Rays) | Florida State League |
A | コラムバス・キャットフィッシュ(Columbus Catfish) | South Atlantic League |
A- | ハドソンバレー・レニゲイズ(Hudson Valley Renegades) | New York-Penn League |
Rookie | プリンストン・デビルレイズ(Princeton Devil Rays) | Appalachian League |
[編集] 脚注
- ^ http://www.ballparksofbaseball.com/attendance.htm
- ^ http://mlb.yahoo.co.jp/headlines/?a=8287
- ^ http://mlb.yahoo.co.jp/headlines/?a=8295
[編集] 外部リンク
- タンパベイ・レイズ公式ウェブサイト(英語)
- チームの通算成績と情報 MLB, or ESPN, or Baseball-Reference , or The Baseball Cube
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球団 | 歴史 • 選手 • 成績 |
歴代本拠地 | トロピカーナ・フィールド |
永久欠番 | 12, 42 |
傘下マイナーチーム | ダラム・ブルズ (AAA) • モンゴメリー・ビスケッツ (AA) • ベロビーチ・デビルレイズ (A) • コラムバス・キャットフィッシュ (A) • ハドソンバレー・レニゲイズ (A) • プリンストン・デビルレイズ (Rookie) |