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クリーブランド・インディアンス - Wikipedia

クリーブランド・インディアンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クリーブランド・インディアンス
Cleveland Indians
創設: 1901年
所属リーグ

アメリカンリーグ中地区

歴代チーム名
  • クリーブランド・インディアンス (1915年 - )
  • クリーブランド・ナップス (1903年 - 1914年)
  • クリーブランド・ブロンコス (1902年)
  • クリーブランド・ブルース (1901年)
歴代本拠地

収容人員: 43,863人
獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝 (2回) 1920 • 1948
リーグ優勝 (5回) 1920 • 1948 • 1954 • 1995
1997
地区優勝 (7回) 1995 • 1996 • 1997 • 1998
1999 • 2001 • 2007
ワイルドカード なし
球団組織
オーナー: ラリー・ドーラン
GM: マーク・ジャパイロ
監督: エリック・ウェッジ

クリーブランド・インディアンスCleveland Indians、略称:CLE)はオハイオ州クリーブランド市に本拠を置くアメリカメジャーリーグのチーム。アメリカンリーグ中地区に所属。通称「トライブ(Tribe)」とも呼ばれる。実際の英語の発音は「インディアンズ」だが、日本のメディアではなぜか「インディアンス」と表記される。

目次

[編集] 概要

1901年創設。球団創設の頃はナップスと呼ばれ、名の通りナップ・ラジョイが中心となって活躍したチームだった。1915年にインディアンスと改名し、1920年と1948年にワールドシリーズ制覇を果たした。しかし、その後は長い低迷を続け、1954年のリーグ優勝を最後に1994年までワールドシリーズからは遠ざかった。そのため、1989年には映画『メジャーリーグ』のモデル球団になるなど、弱小チームの代名詞として知られた。

1990年代後半になるとマニー・ラミレスジム・トーミといったスター選手を擁し、1995年から1999年まで5年連続で地区優勝を果たすなど、黄金期を築いた。2000年以降、緊縮財政のため上記の主力選手が流失してしまい、厳しい戦いを強いられた。しかし、その主力選手と引き換えに得たグレイディ・サイズモアトラビス・ハフナーといった有望新人を育て、2004年に地区3位、2005年に地区2位、2007年には地区1位と着実に力をつけている。

地元での人気はもちろんこと、映画『メジャーリーグ』の大ヒットにより、メジャーでの知名度は高い。1995年6月12日から2001年4月4日まで、ホームゲームで455試合連続満員御礼という記録を作っている(これを記念して、455番がチームの永久欠番となった。なお、ボストン・レッドソックスも2003年5月15日以来、388試合連続満員御礼を続けており、2008年中に抜かれる可能性は高い)。交流戦ではヤンキースメッツのサブウェイ・シリーズのように、同じオハイオ州のシンシナティ・レッズとのカードが“オハイオ・シリーズ”と呼ばれ地元では人気を集めている。

本拠地であるプログレッシブ・フィールドは、2007年までジェイコブス・フィールドと呼ばれていたが、2008年に自動車保険会社のプログレッシブ社が、16年5800万ドルでネーミングライツを獲得したことでこの名前に変更した。クリーブランドの市街地にあり、タワーシティ・センターと呼ばれる電車やバスのターミナル(クリーブランド・ホプキンス空港からの電車もここに停まる)から徒歩圏内、途中にNBAクリーブランド・キャバリアーズの本拠地クイックン・ローンズ・アリーナがある。

日本人選手では、2004年から2005年まで多田野数人(現プロ野球ー日本ハム投手)が在籍し、2008年から小林雅英が在籍している。

[編集] 球団の歴史

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

[編集] 球団創設前

チームの本拠地であるクリーブランドのプロ野球球団の歴史は、1860年代に創設された『フォレストシティ・ベース・ボール・クラブ』に遡る。このチームは後にセミプロ化し、1871年に創設された全米プロ野球選手協会(ナショナル・アソシエーション)のプロリーグに「クリーブランド・フォレストシティーズ」として2年間参加した。その後ナショナル・リーグには、1879年から1884年までクリーブランド・ブルースというチームが、また1889年から1899年までクリーブランド・スパイダーズというチームが所属して活動した。

ブルースは、通算265勝を挙げたジム・マコーミック選手兼任監督とし、まずまずの成績を誇るチームだった。しかし1884年にユニオン・アソシエーションが創立された際主力選手が移籍、チームは一気に弱体化し、この年限りでチームは解散することとなった。一方のスパイダーズは、メジャー最多の通算511勝を挙げたサイ・ヤングがメジャーデビューした球団として知られる。スパイダーズはヤングをはじめ多くの優秀な選手を揃えたが、なかなか優勝に手が届かなかった。1898年、これに業を煮やしたオーナー達が、同リーグのセントルイス・ブラウンズ(現在のセントルイス・カージナルス)を買収し、パーフェクトズと改名(1年後にカージナルスとなった)、ヤングをはじめとした選手の大半を移籍させた。このあおりを受けたスパイダーズは、1899年を20勝134敗という成績で終え、このシーズンを最後にチームは解散した。

[編集] ナップスとインディアンス

1901年、新たにアメリカン・リーグが創立されると、かつて存在したチームと同名のクリーブランド・ブルースという名前で、同リーグに加盟する。初年度こそ、54勝78敗と負け越し、リーグ7位で終わってしまったが、翌年のシーズン途中には、フィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)からナップ・ラジョイが加入する。ラジョイは期待にそぐわぬ活躍でチームを牽引し、ファンから絶大な人気を誇った。この年には一般公募によって、チーム名もナップスと変わったが、1905年にはラジョイが選手兼任監督に就任し、文字通りラジョイのチームとなった。

ラジョイは1903年、1904年と2年連続で首位打者を獲得し、監督を退いた後の1910年には、タイ・カッブが首位打者を獲得したものの、打率.384で打率1位を記録している(当時の記録では、カッブがラジョイの打率をわずかに上回っていたが、後にカッブの記録の誤りが見つかり、カッブの打率.383となった。しかし公式な首位打者はカッブのまま変更はされなかった)。他にもアディ・ジョスエルマー・フリックといった選手が活躍し、チームは勝ち越しを続けるものの、なかなか優勝には手が届かなかった。

1909年、サイ・ヤングがクリーブランドに復帰し、42歳という高齢にもかかわらず、防御率2.26・19勝15敗という成績を残した。翌1910年には、アスレチックスでくすぶっていたジョー・ジャクソンを獲得。1911年には打率.408を記録し、1912年、1913年と2年連続で最多安打を放った。しかし、この頃にはジョスの急死やヤングの移籍で投手陣が脆弱なものとなり、チームはさらに低迷した。ついに1914年には、51勝102敗と大きく負け越し、ダントツの最下位になってしまった。翌1915年には、ラジョイが古巣のフィラデルフィア・フィリーズに復帰し、1915年のシーズン途中には、ジャクソンがシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことで、57勝95敗と2年連続で大きく負け越した。この年には、チーム名も現在のクリーブランド・インディアンスに変わっている(この名前の由来は1897年から1899年まで、メジャー初のネイティブ・アメリカンのプロ野球選手であり、スパイダーズで活躍したルイス・ソックアレクシスに敬意を表してつけられたといわれる)。

[編集] 初のワールドシリーズ

1920年当時のインディアンスのメンバー
1920年当時のインディアンスのメンバー

1916年、マイナーで過ごしていたスタン・コベレスキとジム・バグビーをメジャーに昇格させ、ボストン・レッドソックスからトリス・スピーカーを獲得した。コベレスキとバグビーはチームの勝ち頭に成長し、スピーカーはこの年、打率.388で首位打者を獲得した。チームもしだいに上昇気流に乗り出し、1919年のシーズン途中にはチームの中心選手だったスピーカーが選手兼任監督に就任する。

迎えた1920年、チームは首位を快走していたが、8月16日のニューヨーク・ヤンキース戦で悲劇が起こる。ヤンキースの投手カール・メイズの投じた球が、当時インディアンスの遊撃手だったレイ・チャップマンの頭部を直撃し、翌日チャップマンが死亡してしまったのである。これはメジャーリーグにおいて、試合中のプレーが原因で死亡した唯一の例となり、その後インディアンズの選手達は喪章をつけてプレーすることとなった。チャップマンが死亡したことで、新人のジョー・シーウェルが代役としてレギュラーに定着し、後にシーウェルはメジャー最高のコンタクトヒッターと呼ばれるまでに成長する。

シーズン終盤、ジョー・ジャクソンらが大審院で証言を行い、前年に起こったブラックソックス事件の話題が再燃する中、インディアンスはヤンキースとホワイトソックスの追撃を振り切り、初のリーグ優勝を飾った。ブルックリン・ロビンス(現在のロサンゼルス・ドジャース)との対戦となったワールドシリーズでは、5勝2敗でこれを下し、初のワールドチャンピオンに輝いた。このシリーズではコベルスキが3試合に登板し、すべての試合で完投勝利を収め、ロビンスに合わせて2点しか与えなかった。また二塁手ビル・ワムズガンスがワールドシリーズでは史上唯一の「無捕殺三重殺」を成功させている。

[編集] フェラーの登場

1920年以降は、ベーブ・ルースを擁したヤンキースが台頭し、インディアンスは優勝から遠ざかることとなった。1920年代中盤には、チームの要であったスピーカーやコベルスキが続けてチームを離れ、代わってチームの中心選手だったシーウェルも、1931年にヤンキースに移籍した。1929年、アール・アベリルが27歳という遅咲きでメジャーデビューする。アベリルはデビュー以来、6年連続で3割を記録し、1936年には打率.378と高打率を記録するなど、好成績を残した。しかしアベリルは優勝とは縁がないままインディアンスを離れることとなった。1930年代に入ると、勝ち越してシーズンは終えるものの、優勝争いにはほとんど絡むことができず、3位や4位が定位置となった。

そんな中、1936年にボブ・フェラーが若干17歳でメジャーデビューする。アイダホ州の農場に生まれ、野球好きの父親からピッチング教わって育ったフェラーの才能をインディアンスが見出したものだった。フェラーは、デビュー戦でいきなり1試合15奪三振を記録すると、次の試合でも17奪三振を記録し、デビュー当初からその才能を遺憾なく発揮した。1938年からは先発レギュラーに定着し、1941年までの4年間で最多奪三振4回、最多勝利3回、最優秀防御率1回を受賞するなど、リーグを代表する投手に成長する。しかし1941年に太平洋戦争が始まると、フェラーは兵役に就き、1945年の終戦までチームを離れることとなった。

[編集] チーム改革

1946年、ビル・ベックがチームのオーナーとなり、数々のチーム改革を実践する。ベックは他にもリグレー・フィールドの外野フェンスのツタを考案するなど、様々なアイデアでチーム改革を行うオーナーとして有名だった。ベックは、それまで併用していたリーグ・パークでの試合を辞め、本拠地球場をミュニシパル・スタジアムに一本化した。また、ミュニシパル・スタジアムの改修にも務め、女性客を取り込むために、託児所を設けて保育士を雇ったり、女性トイレを清潔に保つようにした。こうした努力が実り、万年中位や戦争の影響で観客数が減っていたインディアンスは、飛躍的に観客数を伸ばすこととなった(1948年にはリーグ新記録となる262万人を動員する)。

1942年にはインディアンスの遊撃手だったルー・ブードローが監督兼任を志願し、メジャー最年少となる24歳で選手兼任監督に就任する。ブードローは選手と監督という二束の草鞋を見事に履きこなし、選手としては1944年に首位打者を獲得、監督としてはブードロー・シフトを考案するなど奇抜なアイデアを駆使してチームを率いた。1946年、復帰したフェラーが最多勝と最多奪三振を獲得し、変わらぬ健在ぶりを示すと、野手だったボブ・レモンも投手として4勝を挙げ、その片鱗を見せ始める。また1947年のシーズン途中には、同年にメジャーデビューしていたジャッキー・ロビンソンに続き、ラリー・ドビーが戦後2人目のアフリカ系アメリカ人プレイヤーとしてメジャーデビューするなど、チームの戦力も充実する。

[編集] 2度目のワールドシリーズ

1948年、上記の選手がフル稼働し、シーズン序盤から激しい首位争いを演じた。シーズン途中には、ニグロ・リーグで長年プレーしたサチェル・ペイジが、42歳という史上最高齢新人投手としてメジャーデビューする。ペイジはデビュー戦を完封勝利で飾り、シーズンでは6勝をあげる活躍でチームに貢献した。最終的に96勝58敗でボストン・レッドソックスと同率首位に並び、ワンゲームプレーオフが行われることとなった。この試合では、監督のブードロー自身が2本塁打を含む4打数4安打の活躍をみせ、8対3でレッドソックスを下し、2度目のリーグ優勝を果たした。

続くワールドシリーズでは、ボストン・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)と対戦。このシリーズは、インディアンスのフェラー、レモンに対して、ブレーブスはウォーレン・スパーン、ジョニー・セインという左右のエースを抱えており、それぞれのエース同士の対戦でもあった。第1戦ではフェラーとセインが投げ合い、どちらも7回まで0点に抑える好投をみせたが、結局1対0でセインが投げ勝ち、ブレーブスが勝利を収めた。続く第2戦ではレモンとスパーンが対戦、5回にスパーンが崩れ、4対1でインディアンスが勝利した。第3戦、第4戦とインディアンスが連勝し、第5戦ではブレーブスが一矢報いた。3勝2敗で迎えた第6戦では、レモンが7回まで1点に抑える好投でブレーブスを下し、インディアンスが28年ぶり2度目のワールドチャンピオンに輝いた。

[編集] 長期低迷

1951年にはブードローに代わり、アル・ロペスが監督に就任。この頃には再びヤンキースが黄金期を迎え、インディアンスは優勝から遠ざかることとなった。戦力的にはヤンキースとほとんど遜色なかったが、優勝にはいま一歩及ばず、特に1951年から1953年までは3年連続でヤンキースに次ぐ2位に甘んじてしまった。しかし1954年にはレモンとアーリー・ウィンが23勝をあげて共に最多勝、打撃陣ではドビーが32本塁打・116打点で二冠王、ボビー・アビラが打率.341で首位打者を獲得。主要個人タイトルをインディアンスの選手がほぼ独占する形となり、チームは111勝43敗、勝率.721という圧倒的な成績で、3度目のリーグ優勝を遂げた。しかしワールドシリーズでは、ニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)に4連敗を喫してしまった(このシリーズではウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」と呼ばれる伝説的なプレーもあった)。そしてこれ以降、インディアンスは40年余りに渡ってワールドシリーズに出場することが叶わなくなる。

1960年代に入ると、インディアンスの低迷は一層深刻なものとなった。1960年から1993年までの33年間で3位以上になったのは、1968年のわずか1回のみで、他はすべて4位以下でシーズンを終えた。シーズン途中の監督の解任劇は毎年のように行われ、それでも状況が改善されることはほとんどなかった。1969年には地区制が導入され、インディアンスは東地区に所属することとなったが、チームは弱いままで、むしろ成績は下がる一方だった。1975年にはフランク・ロビンソンが選手兼任監督に就任。アフリカ系アメリカ人初のメジャー監督となったが、結果を残せず、1977年のシーズン途中で監督を解任された。そんなチームの惨状に目をつけたのが、映画『メジャーリーグ』だった。1989年に公開されたこの映画は、後に続編も作られるほど大ヒットし、低迷していたインディアンスの観客数の回復に一役買ったとされる。しかし映画と同様にインディアンスが優勝に近づくには、あと数年は待たなければならなかった。

[編集] 黄金期

チームの黄金期は1990年代後半に訪れる。1991年、マイク・ハーグローヴが監督に就任。そしてこの頃からアルバート・ベルケニー・ロフトンジム・トーミマニー・ラミレスといった若手選手が台頭し始める。1994年に3地区制が導入されると、インディアンスはアメリカンリーグ中地区に移動し、老朽化が進んだミュニシパル・スタジアムからジェイコブス・フィールド(現在のプログレッシブ・フィールド)に本拠地を移す。シーズンではストライキでシーズンが中断されるまで、首位のホワイトソックスに1ゲーム差の2位という好位置をキープした。

翌1995年は開幕から他チームを圧倒し、2位とは30ゲーム差の100勝44敗で地区優勝を遂げる。この年には主砲のベルが50本塁打・126打点の活躍で二冠王を獲得し、リードオフマンのロフトンも54盗塁で盗塁王を獲得するなどの活躍をみせた。ディビジョンシリーズではレッドソックスを3連勝で一蹴すると、続くリーグチャンピオンシップシリーズでは、シアトル・マリナーズを4勝2敗で下し、41年ぶりのリーグ優勝を果たした。奇しくも前回と同じブレーブスとの対戦となったワールドシリーズでは2勝4敗で敗れ、2度目のワールドシリーズ優勝とはならなかった。

1996年は、ベル(48本)、トーミ(38本)、ラミレス(33本)による前年以上の強力なクリーンナップを形成し、99勝62敗と2年連続で地区優勝を遂げたが、ディビジョンシリーズでボルチモア・オリオールズに敗れた。1997年限りでベルが退団すると、代わりにマット・ウィリアムズデービッド・ジャスティスを獲得。ベルの抜けた穴を補って余りある活躍をみせ、3年連続の地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズでは3勝2敗でヤンキースとの激闘を制し、続くリーグチャンピオンシップシリーズではオリオールズを4勝2敗で下してリーグ優勝を決めた。ワールドシリーズではフロリダ・マーリンズとの対戦となり、最終戦の延長までもつれ込む大熱戦となったが、結局第7戦の延長11回にサヨナラ負けを喫し、またしてもワールドシリーズ優勝はならなかった。

1998年、1999年も地区優勝を果たすが、いずれプレーオフで敗れ(1998年はヤンキース、1999年はレッドソックスと対戦)、リーグ優勝はならなかった。なおこの間、本拠地ジェイコブス・フィールドでは満員御礼の試合が続き、1995年6月12日から2001年4月4日まで、「455試合連続入場券売切れ」という記録を作っている。

[編集] 2000年以降

2000年にはハーグローヴに代わり、打撃コーチだったチャーリー・マニエルが監督に就任。2001年には地区優勝を果たす。しかしディビジョンシリーズでは、この年デビューしたイチロー擁するシアトル・マリナーズに敗退。翌2002年には大きく負け越したため、マニエルはシーズン途中で解任された。この頃にはチームの主砲であるラミレス、トーミが相次いで移籍し、彼らに代わる若手選手の育成に力を注ぐこととなった。主力選手が抜けた穴は大きく、2002年からは3年連続で勝率5割を切るシーズンが続いたが、生え抜きのC.C.サバシアビクター・マルティネス、2003年にテキサス・レンジャーズから移籍したトラビス・ハフナーといった若手選手も着実に力を伸ばした。

2005年は上記選手に加え、クリフ・リーグレイディ・サイズモアの活躍もあり、ホワイトソックスと首位争いを繰り広げた。しかし最終的に93勝69敗で地区2位となり、ワイルドカード争いでもレッドソックスに敗れる形となった(この年にはホワイトソックスが88年ぶりとなるワールドシリーズ制覇を成し遂げ、これによって中地区ではインディアンスが最もワールドチャンピオンから遠ざかっているチームとなった)。しかし2006年は78勝84敗と負け越し、優勝争いに加わることなくシーズンを終えている。

2007年は開幕から首位をキープし、シーズン中盤には独走態勢をとった。投手陣ではエースのサバシアと2年目のファウスト・カルモナが共に19勝をあげる活躍をみせ、打撃陣では30本塁打以上を放った選手はいなかったものの、マルティネスを中軸として効果的に得点を重ねた。またシーズン途中に復帰したロフトンも、シーズン終盤に足踏みしたチームの中で大きな存在となった。そして最終的に99勝66敗をあげ、6年ぶりに地区優勝を果たした。しかしリーグチャンピオンシップシリーズではレッドソックスを3勝1敗と追い込むものの、そこから3連敗を喫してしまい、リーグ優勝はならなかった。

[編集] 主な選手

[編集] 現役選手

投手

捕手

内野手

外野手

指名打者

* アクティブロースター外
** 40人ロースター外
2008年6月19日更新   
[公式サイト(英語)より:40人ロースター  選手の移籍・故障情報  予想オーダー]

[編集] 殿堂入り選手

[編集] 永久欠番

[編集] 傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ
AAA バッファロー・バイソンズBuffalo Bisons International League
AA アクロン・エアロズ(Akron Aeros Eastern League
A+ キンストン・インディアンス(Kinston Indians Carolina League
A レイクカウンティ・キャプテンズ(Lake County Captains South Atlantic League
A- マホーニングバレー・スクラッパーズ(Mahoning Valley Scrappers New York-Penn League
Rookie ガルフコースト・インディアンス(Gulf Coast Indians Gulf Coast League

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


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