スパーキー・アンダーソン
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スパーキー・アンダーソン(George Lee "Sparky" Anderson , 1934年2月22日 - )はアメリカ・メジャーリーグで活躍し、アメリカ野球殿堂入りした元監督。(選手としては二塁手。右投右打。) アメリカ合衆国サウスダコタ州ブリッジウォーター(英語版:Bridgewater)出身。 ナ・リーグ(シンシナティ・レッズ)、ア・リーグ(デトロイト・タイガース)両方でワールドシリーズを制した最初の監督となった。
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[編集] ビッグ・レッド・マシーン
1955年にブルックリン(現在はロサンゼルス)・ドジャースのマイナーチームで選手としてのキャリアをスタート。 1959年にフィラデルフィア・フィリーズでメジャーデビューし、その年はレギュラー二塁手として152試合に出場するが、打率.218、本塁打0に終わる。 その後もマイナーで プレイを続けるが、メジャー昇格のチャンスはなく、選手としてのメジャー歴は1959年一年限りであった。 1964年よりマイナーの監督になり、1968年にはレッズのマイナー組織に監督として移籍。1970年にはサンディエゴ・パドレスのコーチとなる。 翌1970年にレッズの監督に就任した。
就任一年目にいきなり102勝をあげてリーグ優勝を果たすが、ワールドシリーズでは当時最強を誇ったボルチモア・オリオールズに敗れる。 二年後の1972年にもリーグ優勝するが、1972年のワールドシリーズではディック・ウィリアムズ監督のオークランド・アスレチックスに敗退。アスレチックスはその年から三連覇を果たすこととなる。 1973年には地区優勝を果たすがプレイオフでニューヨーク・メッツに敗れ、1974年には地区でドジャースの2位に終わった。
そして迎えた1975年、シーズン108勝をあげ、リーグチャンピオンシップでもピッツバーグ・パイレーツに3勝無敗でボストン・レッドソックスとのワールドシリーズにコマを進める。 シリーズは熱戦が続き、3勝2敗と王手をかけた第6戦は延長戦にもつれ込み、12回にレッドソックスの捕手カールトン・フィスクにサヨナラ本塁打が出て最終戦に持ち込まれた。 この時、フィスクがポール際の打球に「入れ」とばかりに腕を振りながら一塁に走る姿はメジャー史上に残るシーンと言われた。 続く第7戦も接戦となったが、同点の9回表にレッズが1点を奪い、ワールド・チャンピオンに輝いた。 翌1976年もシーズン102勝をあげて地区優勝。リーグ優勝を果たしてワールドシリーズでもニューヨーク・ヤンキースに4連勝して二年連続のワールドチャンピオンとなった。
当時のレッズはピート・ローズ、ジョー・モーガン、ジョニー・ベンチ、ジョージ・フォスター、トニー・ペレス、デーブ・コンセプシオンといったスター選手を揃え、「Big Red Machine(ビッグ・レッド・マシーン)」の異名をとる最強チームであった。
1977年、1978年は2年連続で2位に終わる。1978年にはレッズが単独チームとして来日。各地で強さを見せつけて帰国したが、帰国直後に突如解任された。
[編集] デトロイト・タイガース
レッズの監督を電撃解任されて約半年後、1979年6月14日にデトロイト・タイガースの監督に就任。 タイガースをコンデンター(優勝争いをできるチーム)にし、1983年はオリオールズに次ぐ地区2位と順調に力をつけた。
そして1984年、シーズン最初の40試合で35勝(メジャー記録)をあげ、104勝58敗で地区優勝を飾る。 プレイオフでもカンザスシティ・ロイヤルズに3戦全勝してリーグ優勝。 ワールドシリーズでもサンディエゴ・パドレスを4勝1敗で下し、両リーグでのワールドチャンピオンに輝いた(後述)。 この年、自身初の年間最優秀監督賞を受賞。当時の主力は、この年MVPとサイ・ヤング賞を同時受賞した守護神ウィリー・ヘルナンデスやエースジャック・モリス、四番・捕手のランス・パリッシュ、二塁手ルー・ウィテカーと遊撃手アラン・トラメルのキーストン・コンビ、右翼手カーク・ギブソン、ベテランの強打者ダリル・エバンスら、エバンス以外は1950年代半ば生まれの年齢的には中堅選手であった。
1987年にも終盤の猛追で最後にトロント・ブルージェイズをかわして地区優勝を果たすが、プレイオフでミネソタ・ツインズに敗退。この年2度目の最優秀監督賞を受賞。 1988年にはメジャーリーグオールスターの監督として来日して、指揮をとる。 1989年には負けが込んで体調を崩し、1か月あまり休養。しかし2年かけてチームを立て直し、1991年には打率がリーグ最下位、三振がメジャー全体の1位、投手成績のほとんどがメジャーで下から数えた方が早いというチームで、ブルージェイズに次ぐ2位と健闘。 セシル・フィルダー、ミッキー・テトルトン、ロブ・ディアーといった三振の多い強打者のなせる技であったが、地区優勝まであと1歩と迫った。 その後、ペナントを手にすることなく1995年限りで監督を引退。
2000年にアメリカ野球殿堂入り、2007年にカナダ野球殿堂入りを果たす。レッズ時代の背番号「10」は永久欠番となっている。タイガースでの背番号「11」も、アンダーソンの引退後つける選手がなく、近い将来正式に永久欠番となる可能性がある。
[編集] 受賞歴・記録
[編集] 選手としての打撃成績
- 出場152試合 打率.218(477打数104安打)本塁打0 打点34 盗塁6
[編集] 監督としての年度別成績
年度 | チーム | 地区 | 年齢 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位/ チーム数 |
備考 |
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1970年 | CIN | NL WEST | 36 | 162 | 102 | 60 | .630 | 1 / 6 | リーグ優勝 |
1971年 | CIN | NL WEST | 37 | 162 | 79 | 83 | .488 | 5 / 6 | |
1972年 | CIN | NL WEST | 38 | 154 | 95 | 59 | .617 | 1 / 6 | リーグ優勝 |
1973年 | CIN | NL WEST | 39 | 162 | 99 | 63 | .611 | 1 / 6 | 地区優勝 |
1974年 | CIN | NL WEST | 40 | 163 | 98 | 64 | .605 | 2 / 6 | |
1975年 | CIN | NL WEST | 41 | 162 | 108 | 54 | .667 | 1 / 6 | ワールドチャンピオン |
1976年 | CIN | NL WEST | 42 | 162 | 102 | 60 | .630 | 1 / 6 | ワールドチャンピオン |
1977年 | CIN | NL WEST | 43 | 162 | 88 | 74 | .543 | 2 /6 | |
1978年 | CIN | NL WEST | 44 | 161 | 92 | 69 | .571 | 2 / 6 | 11月に解任 |
1979年 | DET | AL EAST | 45 | 106 | 56 | 50 | .528 | 5 / 7 | 6月14日就任。順位は最終順位。 |
1980年 | DET | AL EAST | 46 | 163 | 84 | 78 | .519 | 5 / 7 | |
1981年 | DET | AL EAST | 47 | 109 | 60 | 49 | .550 | ※ | ストライキ |
1982年 | DET | AL EAST | 48 | 162 | 83 | 79 | .512 | 4 / 7 | |
1983年 | DET | AL EAST | 49 | 162 | 92 | 70 | .568 | 2 / 7 | |
1984年 | DET | AL EAST | 50 | 162 | 104 | 58 | .642 | 1 / 7 | ワールドチャンピオン |
1985年 | DET | AL EAST | 51 | 161 | 84 | 77 | .522 | 3 / 7 | |
1986年 | DET | AL EAST | 52 | 162 | 87 | 75 | .537 | 3 / 7 | |
1987年 | DET | AL EAST | 53 | 162 | 98 | 64 | .605 | 1 / 7 | 地区優勝 |
1988年 | DET | AL EAST | 54 | 162 | 88 | 74 | .543 | 2 / 7 | |
1989年 | DET | AL EAST | 55 | 162 | 59 | 103 | .364 | 7 / 7 | 途中休養 |
1990年 | DET | AL EAST | 56 | 162 | 79 | 83 | .488 | 3 / 7 | |
1991年 | DET | AL EAST | 57 | 162 | 84 | 78 | .519 | 2 / 7 | |
1992年 | DET | AL EAST | 58 | 162 | 75 | 87 | .463 | 6 / 7 | |
1993年 | DET | AL EAST | 59 | 162 | 85 | 77 | .525 | 4 / 7 | |
1994年 | DET | AL CENTRAL | 60 | 115 | 53 | 62 | .461 | 5 / 5 | ストライキ |
1995年 | DET | AL CENTRAL | 61 | 144 | 60 | 84 | .417 | 4 / 5 | ストライキ |
通算 | 26年 | 4030 | 2194 | 1834 | .545 |
※1981年はストライキのため前後期2シーズン制となり、前期は4位、後期は2位。
[編集] エピソード
- レッズ監督就任のとき、アンダーソンはあまりにも知名度がなかったため、マスコミから「Sparky,Who?(スパーキーって誰?)」と記事に書かれたことがある。
- 1984年のワールドシリーズの対戦相手・パドレスの監督は、1972年・73年にアスレチックスの監督としてワールドシリーズを制し、しかも1972年にはアンダーソン自身が敗れた相手のディック・ウィリアムスであった。どちらが勝っても史上初の両リーグでのワールド・チャンピオン監督となるところであった。
- 2006年にはセントルイス・カージナルスの監督トニー・ラルーサがアスレチックス時代の1989年と合わせて史上2人目の両リーグでのワールドチャンピオン監督となったが、この時も相手タイガースの監督ジム・リーランドも1997年にフロリダ・マーリンズでワールドチャンピオンになっており、どちらが勝っても史上2人目となるところであった。
- お気に入りのルーキーを、マスコミへのリップサービスを兼ねてべた褒めしたが、褒められたルーキーは決まって大成しないというジンクスがあった。例えば1980年代半ばには、クリス・ピッターロを「今後10年は私のレギュラー」と、バーバロ・ガーベイ(英語版:Bárbaro Garbey)を「ロベルト・クレメンテの再来」と持ち上げたが、前者はメジャー三年間でわずか53試合の出場に終わり、後者もやはり三年間で、放った安打は167に終わった。
[編集] 出典・外部リンク
- baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
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5 ジョニー・ベンチ / 8 ジョー・モーガン / 9 ビル・プラマー / 12 ダレル・チャニー / 13 デーブ・コンセプシオン / 14 ピート・ローズ / 15 ジョージ・フォスター / 17 テリー・クラウリー / 20 シーザー・ジェロニモ / 22 ダン・ドリーゼン / 24 トニー・ペレス / 26 メルブ・レッテンマンド / 30 ケン・グリフィー・シニア / 32 フレッド・ノーマン / 33 エド・アームブライスター / 34 ペドロ・ボルボーン / 35 ドン・ガレット / 36 クレイ・キャロル / 37 ウィル・マッケナニー / 38 ゲイリー・ノーラン / 43 ジャック・ビリンガム / 44 パット・ダーシー / 49 ローリー・イーストウィック 監督 スパーキー・アンダーソン |
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5 ジョニー・ベンチ / 8 ジョー・モーガン / 9 ビル・プラマー / 13 デーブ・コンセプシオン / 14 ピート・ローズ / 15 ジョージ・フォスター / 20 シーザー・ジェロニモ / 22 ダン・ドリーゼン / 24 トニー・ペレス / 30 ケン・グリフィー・シニア / 32 フレッド・ノーマン / 34 ペドロ・ボルボーン / 35 ドン・ガレット / 37 ウィル・マッケナニー / 38 ゲイリー・ノーラン / 40 パット・ザックリー / 43 ジャック・ビリンガム / 49 ローリー・イーストウィック 監督 スパーキー・アンダーソン |
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1 ルー・ウィテカー / 3 アラン・トランメル / 8 マーティ・カスティーヨ / 13 ランス・パリッシュ / 14 デーブ・バーグマン / 15 ラスティー・カンツ / 16 トム・ブルッケンス / 17 ビル・シェラー / 20 ハワード・ジョンソン / 21 ウィリー・ヘルナンデス / 23 カーク・ギブソン / 27 バーバロ・ガーベイ / 29 アウレリオ・ロペス / 30 ジョニー・グラッブ / 31 ラリー・ハーンドン / 32 ルパート・ジョーンズ / 34 チェット・レモン / 39 ミルト・ウィルコックス / 40 ダグ・ベア / 41 ダレル・エバンス / 46 ダン・ペトリ / 47 ジャック・モリス 監督 スパーキー・アンダーソン |