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スパーキー・アンダーソン - Wikipedia

スパーキー・アンダーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

スパーキー・アンダーソンGeorge Lee "Sparky" Anderson , 1934年2月22日 - )はアメリカメジャーリーグで活躍し、アメリカ野球殿堂入りした元監督。(選手としては二塁手。右投右打。) アメリカ合衆国サウスダコタ州ブリッジウォーター(英語版:Bridgewater)出身。 ナ・リーグシンシナティ・レッズ)、ア・リーグデトロイト・タイガース)両方でワールドシリーズを制した最初の監督となった。

目次

[編集] ビッグ・レッド・マシーン

1955年ブルックリン(現在はロサンゼルス)・ドジャースのマイナーチームで選手としてのキャリアをスタート。 1959年フィラデルフィア・フィリーズでメジャーデビューし、その年はレギュラー二塁手として152試合に出場するが、打率.218、本塁打0に終わる。 その後もマイナーで プレイを続けるが、メジャー昇格のチャンスはなく、選手としてのメジャー歴は1959年一年限りであった。 1964年よりマイナーの監督になり、1968年にはレッズのマイナー組織に監督として移籍。1970年にはサンディエゴ・パドレスのコーチとなる。 翌1970年にレッズの監督に就任した。

就任一年目にいきなり102勝をあげてリーグ優勝を果たすが、ワールドシリーズでは当時最強を誇ったボルチモア・オリオールズに敗れる。 二年後の1972年にもリーグ優勝するが、1972年のワールドシリーズではディック・ウィリアムズ監督のオークランド・アスレチックスに敗退。アスレチックスはその年から三連覇を果たすこととなる。 1973年には地区優勝を果たすがプレイオフでニューヨーク・メッツに敗れ、1974年には地区でドジャースの2位に終わった。

そして迎えた1975年、シーズン108勝をあげ、リーグチャンピオンシップでもピッツバーグ・パイレーツに3勝無敗でボストン・レッドソックスとのワールドシリーズにコマを進める。 シリーズは熱戦が続き、3勝2敗と王手をかけた第6戦は延長戦にもつれ込み、12回にレッドソックスの捕手カールトン・フィスクにサヨナラ本塁打が出て最終戦に持ち込まれた。 この時、フィスクがポール際の打球に「入れ」とばかりに腕を振りながら一塁に走る姿はメジャー史上に残るシーンと言われた。 続く第7戦も接戦となったが、同点の9回表にレッズが1点を奪い、ワールド・チャンピオンに輝いた。 翌1976年もシーズン102勝をあげて地区優勝。リーグ優勝を果たしてワールドシリーズでもニューヨーク・ヤンキースに4連勝して二年連続のワールドチャンピオンとなった。

当時のレッズはピート・ローズジョー・モーガンジョニー・ベンチジョージ・フォスタートニー・ペレスデーブ・コンセプシオンといったスター選手を揃え、「Big Red Machineビッグ・レッド・マシーン)」の異名をとる最強チームであった。

1977年1978年は2年連続で2位に終わる。1978年にはレッズが単独チームとして来日。各地で強さを見せつけて帰国したが、帰国直後に突如解任された。


[編集] デトロイト・タイガース

レッズの監督を電撃解任されて約半年後、1979年6月14日にデトロイト・タイガースの監督に就任。 タイガースをコンデンター(優勝争いをできるチーム)にし、1983年はオリオールズに次ぐ地区2位と順調に力をつけた。

そして1984年、シーズン最初の40試合で35勝(メジャー記録)をあげ、104勝58敗で地区優勝を飾る。 プレイオフでもカンザスシティ・ロイヤルズに3戦全勝してリーグ優勝。 ワールドシリーズでもサンディエゴ・パドレスを4勝1敗で下し、両リーグでのワールドチャンピオンに輝いた(後述)。 この年、自身初の年間最優秀監督賞を受賞。当時の主力は、この年MVPサイ・ヤング賞を同時受賞した守護神ウィリー・ヘルナンデスやエースジャック・モリス、四番・捕手のランス・パリッシュ、二塁手ルー・ウィテカーと遊撃手アラン・トラメルのキーストン・コンビ、右翼手カーク・ギブソン、ベテランの強打者ダリル・エバンスら、エバンス以外は1950年代半ば生まれの年齢的には中堅選手であった。

1987年にも終盤の猛追で最後にトロント・ブルージェイズをかわして地区優勝を果たすが、プレイオフでミネソタ・ツインズに敗退。この年2度目の最優秀監督賞を受賞。 1988年にはメジャーリーグオールスターの監督として来日して、指揮をとる。 1989年には負けが込んで体調を崩し、1か月あまり休養。しかし2年かけてチームを立て直し、1991年には打率がリーグ最下位、三振がメジャー全体の1位、投手成績のほとんどがメジャーで下から数えた方が早いというチームで、ブルージェイズに次ぐ2位と健闘。 セシル・フィルダーミッキー・テトルトンロブ・ディアーといった三振の多い強打者のなせる技であったが、地区優勝まであと1歩と迫った。 その後、ペナントを手にすることなく1995年限りで監督を引退。

2000年アメリカ野球殿堂入り、2007年カナダ野球殿堂入りを果たす。レッズ時代の背番号「10」は永久欠番となっている。タイガースでの背番号「11」も、アンダーソンの引退後つける選手がなく、近い将来正式に永久欠番となる可能性がある。

[編集] 受賞歴・記録

[編集] 選手としての打撃成績

  • 出場152試合 打率.218(477打数104安打)本塁打0 打点34 盗塁6

[編集] 監督としての年度別成績

年度 チーム 地区 年齢 試合 勝利 敗戦 勝率 順位/
チーム数
備考
1970年 CIN NL WEST 36 162 102 60 .630 1 / 6 リーグ優勝
1971年 CIN NL WEST 37 162 79 83 .488 5 / 6  
1972年 CIN NL WEST 38 154 95 59 .617 1 / 6 リーグ優勝
1973年 CIN NL WEST 39 162 99 63 .611 1 / 6 地区優勝
1974年 CIN NL WEST 40 163 98 64 .605 2 / 6  
1975年 CIN NL WEST 41 162 108 54 .667 1 / 6 ワールドチャンピオン
1976年 CIN NL WEST 42 162 102 60 .630 1 / 6 ワールドチャンピオン
1977年 CIN NL WEST 43 162 88 74 .543 2 /6  
1978年 CIN NL WEST 44 161 92 69 .571 2 / 6 11月に解任
1979年 DET AL EAST 45 106 56 50 .528 5 / 7 6月14日就任。順位は最終順位。
1980年 DET AL EAST 46 163 84 78 .519 5 / 7  
1981年 DET AL EAST 47 109 60 49 .550 ストライキ
1982年 DET AL EAST 48 162 83 79 .512 4 / 7  
1983年 DET AL EAST 49 162 92 70 .568 2 / 7  
1984年 DET AL EAST 50 162 104 58 .642 1 / 7 ワールドチャンピオン
1985年 DET AL EAST 51 161 84 77 .522 3 / 7  
1986年 DET AL EAST 52 162 87 75 .537 3 / 7  
1987年 DET AL EAST 53 162 98 64 .605 1 / 7 地区優勝
1988年 DET AL EAST 54 162 88 74 .543 2 / 7  
1989年 DET AL EAST 55 162 59 103 .364 7 / 7 途中休養
1990年 DET AL EAST 56 162 79 83 .488 3 / 7  
1991年 DET AL EAST 57 162 84 78 .519 2 / 7  
1992年 DET AL EAST 58 162 75 87 .463 6 / 7  
1993年 DET AL EAST 59 162 85 77 .525 4 / 7  
1994年 DET AL CENTRAL 60 115 53 62 .461 5 / 5 ストライキ
1995年 DET AL CENTRAL 61 144 60 84 .417 4 / 5 ストライキ
通算 26年     4030 2194 1834 .545    

※1981年はストライキのため前後期2シーズン制となり、前期は4位、後期は2位。

[編集] エピソード

  • レッズ監督就任のとき、アンダーソンはあまりにも知名度がなかったため、マスコミから「Sparky,Who?(スパーキーって誰?)」と記事に書かれたことがある。
  • 1984年のワールドシリーズの対戦相手・パドレスの監督は、1972年・73年にアスレチックスの監督としてワールドシリーズを制し、しかも1972年にはアンダーソン自身が敗れた相手のディック・ウィリアムスであった。どちらが勝っても史上初の両リーグでのワールド・チャンピオン監督となるところであった。
  • 2006年にはセントルイス・カージナルスの監督トニー・ラルーサがアスレチックス時代の1989年と合わせて史上2人目の両リーグでのワールドチャンピオン監督となったが、この時も相手タイガースの監督ジム・リーランド1997年フロリダ・マーリンズでワールドチャンピオンになっており、どちらが勝っても史上2人目となるところであった。
  • お気に入りのルーキーを、マスコミへのリップサービスを兼ねてべた褒めしたが、褒められたルーキーは決まって大成しないというジンクスがあった。例えば1980年代半ばには、クリス・ピッターロを「今後10年は私のレギュラー」と、バーバロ・ガーベイ(英語版:Bárbaro Garbey)を「ロベルト・クレメンテの再来」と持ち上げたが、前者はメジャー三年間でわずか53試合の出場に終わり、後者もやはり三年間で、放った安打は167に終わった。

[編集] 出典・外部リンク

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