野村弘樹
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野村 弘樹 横浜ベイスターズ No.75 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県広島市南区 |
生年月日 | 1969年6月30日(38歳) |
身長 体重 |
181cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト3位 |
初出場 | 1988年10月2日 |
経歴 | |
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野村 弘樹(のむら ひろき、1969年6月30日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロ野球選手(投手)。横浜ベイスターズ(入団から1992年までは横浜大洋ホエールズ)に所属していた。左投げ左打ち。
大洋時代の末期から横浜で活躍して、1998年の日本一の際にはエースとして活躍した。本名は野村 弘(のむら ひろし)で、登録名を「弘樹」としたのは、入団3年目以後の事である。
目次 |
[編集] 来歴・人物
広島の名門リトル、広島中央リトルで野球を始め、高校はPL学園に野球留学し1987年、桑田泉(パイレーツ・桑田真澄の実弟)、立浪和義(中日)、片岡篤史(元日本ハム-阪神)、橋本清(元巨人-ダイエー)らを揃えた強力チームのエースとして史上4校目の高校野球春夏連覇を達成した。
現役時代は故障に悩まされて33歳の若さで現役を引退したが、典型的な弱小球団であった1990年代前半の大洋→横浜のみに在籍しながら、リーグ最多勝、1998年の日本一時に貢献、通算100勝以上(しかも勝ち越し)という記録を残したことは特筆すべきことであり、球団史を飾るエースの一人である。
球速は速くなく(最高で135㎞/hに届かないこともあり、全盛期で145km/h弱とむしろ遅い部類と言える)、特に優れた変化球を持っていたわけでもないにもかかわらず、通算奪三振記録が998というのも特筆に値する。一部では「遅球王」とも囁かれ、山本昌、小宮山悟、香田勲男、星野伸之と共に「球の遅い一流投手」としても知られた。野村の武器は抜群の制球力とルーキー時代からの卓越した投球術であり、ストレート、スライダー、スローカーブ、シュート、スクリュー、フォーク、SFFなどの多彩な球種を左右に投げ分けることで打者を手玉に取った。とりわけ、スライダーのコントロールは天下一品だったといわれる。
PLでも5番を打っていただけあって、投手でありながら現役時代には6本もの本塁打を放つなど、野手顔負けの打棒の持ち主でもあった。その実績は数字にも表れ、投手でありながらシーズン中盤まで3割近くをキープしていたということもあり、1996年4月の阪神戦では2失点完投、打っては3ラン本塁打(結果3-2)と一人舞台の試合もあった。 実況パワフルプロ野球3では野村のパワーはCに設定されている(通常の投手はF)。
投球フォームは美しく、独特のマウンド捌きと同時に高い評価を得ている。
評論家の高木豊は特に高い評価を与え、1998年の日本シリーズ第1戦前の試合予想において、「(日本シリーズのような大舞台で)野村が負けるということは考えられない」と発言した。また、上述のように「打撃は野手並み」とも言わしめている。また、権藤監督からの信頼も絶大であり、1998年の日本シリーズでは、野村-斎藤-三浦-野村-斎藤-川村-野村と異例の予告先発を掲げた。また、当時右のエースだった斎藤隆に野村の投球術があれば、年間20勝は軽いとも述べている。
[編集] 略歴
- 1987年 - 秋のドラフト3位で大洋に入団。背番号は現役時代を通して21。
- 1988年 - この年の10月2日(対広島戦)、プロ初登板で初完封勝利を挙げた。
- 1990年 - オールスターゲーム初出場。この年、プロ入り初の2桁勝利を挙げた。
- 1991年 - 2年連続2桁となる15勝を挙げ横浜のエースとして地位を確立。
- 1993年 - 17勝で最多勝利獲得。
- 1995年 - シーズン通して腰痛に悩まされ不振に終わる。
- 1996年 - 3年ぶりの2桁勝利。
- 1998年 - 13勝を挙げチームの38年ぶりリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズ開幕投手。
- 1999年 - 左肘手術によりシーズンを棒に振る。
- 2001年 - 8月の巨人戦で生え抜き投手では斉藤明夫以来の14年ぶりの通算100勝達成。(全盛期さながらの好投で1失点完投勝利。完全復活かと思われた。)※100勝達成の可能性は1999年からであったが、左肘故障の影響で持ち越しとなっていた。
- 2002年 - 左肘故障再発(実際は完治していなかった)。現役引退。
- 2003年 - 湘南シーレックスの投手コーチに就任
- 2004年 - ベイスターズの投手コーチに昇格
- 2005年 - 阿波野秀幸の投手コーチ招聘に伴い、横浜投手コーチ退任。
- 2006年 - ニッポン放送・JSPORTS野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家(はっきりとした分かりやすい解説で評価は高い)
- 2007年 - 再び横浜の投手コーチに就任。
[編集] エピソード
- 広島中央リトルで1つ上に阪神・金本知憲、2つ上に元お笑いタレント・山本圭一がいる、しかし金本同様に、2006年7月に起こした山本の反社会的行動による不祥事の件に対してはノーコメントだった。
- 好きな音楽はHM/HR。高校時代はスコーピオンズのコピーバンドを結成し、ギターを担当していた。
- 元々右利きだったが、巨人の星に憧れて左投げに矯正した(現役時代、右投げでも遠投50mだった)。
- 甲子園連覇
PL学園ではエースとして立浪、片岡、橋本らと共に春夏連覇を達成。野村は10試合に登板し6勝0敗を記録。同年のオフには大洋の古葉監督が野村の実家のある広島にスカウト網を張り巡らし、カープとの競合無しでドラフト3位で大洋入団。
- 初登板が初完封勝利
初年度にはオープン戦で15回1/3を投げて、7安打で無失点という高卒ルーキーとは思えない活躍を見せてルーキー大賞を受賞。開幕一軍を勝ち取ったがオープン戦で痛めた腰が完治せず登板が無いまま二軍に降格となった。だが同年10月2日広島戦で初登板のマウンドに立つと、高卒ルーキーとしては史上5人目の初登板初完封勝利を達成した。
翌1989年は開幕からチャンスを貰って33試合に登板し、先発のマウンドにも12回立ったがスタミナ不足から中盤に捕まることが多く、3勝11敗で防御率5.89と期待を裏切った。
1990年6月5日の巨人戦(福島県営あづま球場)。巨人先発の斎藤雅樹は1985年から大洋戦14連勝という大記録を更新中であった。対する大洋からは巨人戦3戦3完投勝利と、巨人キラーとして名を打っていた野村がマウンドに上がった。試合は、野村が巨人打線を2失点に抑えるも、巨人1点リードのまま最終回を迎える展開で、斎藤の15連勝は目前に迫っていた。だが、大洋は9回表に一死二塁のチャンスを作ると、高木豊が斎藤のストレートをライトスタンドに弾き返す逆転2ランを放ち、斎藤の記録をストップさせた。野村は同年、この勝利を含む5勝を巨人から挙げた。
- 乱高下
1990年は11勝6敗、防御率3.50。1991年は15勝8敗、防御率3.16で2年連続2桁勝利。翌1992年は5勝に終わったが、ベイスターズ元年となった1993年には17勝6敗で最多勝に輝き、防御率も2.51とエースと呼ぶにふさわしい成績を残した。が翌年からは故障もあって5勝5敗、4勝7敗と勝ち星が伸びなかった。
- 2年ぶりの完投
1996年4月23日の阪神戦では7回まで2失点に抑えていたが、打線が阪神の舩木聖士の前に抑え込まれて7回表が終わって0対2。7回裏に駒田徳広と谷繁元信の連打でようやく無死一・三塁というチャンスを作ったが、代打川端一彰が三振に倒れて一死になってしまった。続く野村には当然代打と思われたが、「代える気はサラサラなかった」という大矢監督は野村をそのまま打席に送った。そして野村は舩木のストレートをライトスタンドに叩き込む逆転3ランを放った。野村は投げても2年ぶりの完投勝利を挙げ、攻守ともに完全復活をアピールした。
- 大記録ならず
1997年7月1日の中日戦では5回までパーフェクトピッチング。6回一死から鳥越裕介に初ヒットを打たれたが、続く門倉健を併殺打に打ち取って無失点。野村はその後も好投を続けて8回を1安打無四球という完璧なピッチングを見せた。9回は佐々木主浩が3人で片付けて、野村-佐々木で打者27人を準完全試合を達成した。
- 3年連続2桁
1998年8月1日のヤクルト戦、初回にこそ2点失うが、その後はゼロ更新で7回2失点。打っても3安打2打点と活躍し、3年連続6度目の2桁勝利を達成した。ちなみに、2位中日と9月24日に行われた直接対決でも、投げては5安打2四球で1失点完投勝利、打っても2安打を放つという投打に渡る活躍でマジック9を点灯させている。
- 日本シリーズ開幕投手
13勝8敗で防御率3.34と素晴らしい成績を残した野村は、その安定感が認められて日本シリーズ初戦のマウンドを任された。野村は西武打線を5回まで無失点に抑えて期待に応えると、この大舞台でも4回裏に3連打のきっかけになる二塁打、5回裏には駄目押しのきっかけとなる二塁打を放つなど西武を圧倒した。結局、6、7回と2点ずつを失い、7回途中でマウンドを降りるも、チームとして38年ぶりの日本シリーズ勝利投手に輝いた。
- 19年ぶりの顔合わせ
解説者時代の2006年、中京テレビ『SPORTS STADIUM』(スポスタ、中日ドラゴンズ応援番組)の企画で1987年のPL学園甲子園春夏連覇時の同僚・橋本と共に阪神対中日戦が行われる直前の甲子園球場を同じく春夏連覇時の同僚だった阪神・片岡(当時現役)、中日・立浪への取材を兼ねて訪問、思い出の地での昔話に花を咲かせた。なお、この4者が同時に顔を合わせるのは高校卒業以来19年ぶりであった。その後『スポスタ』ではこの流れから立浪・橋本・片岡(2006年限りで引退し解説者となる)の顔合わせによる企画が幾度か放送されているが、野村は2006年暮れに横浜コーチに復帰したため、番組の性質と自身の立場上出演していない。
[編集] 投手成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗北 | セーブ | 投球回 | 被安 打 |
被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三 振 |
自責 点 |
防御率 (順位) |
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1988年 | 大洋 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 15 | 14 | 1 | 3 | 4 | 1 | 0.60 |
1989年 | 33 | 1 | 0 | 1 | 3 | 11 | 0 | 94.2 | 111 | 14 | 36 | 62 | 62 | 5.89 | |
1990年 | 24 | 8 | 0 | 3 | 11 | 6 | 0 | 162 | 140 | 23 | 36 | 114 | 63 | 3.50(9) | |
1991年 | 26 | 6 | 2 | 2 | 15 | 8 | 0 | 182.1 | 163 | 25 | 46 | 113 | 64 | 3.16(7) | |
1992年 | 21 | 1 | 1 | 0 | 5 | 4 | 0 | 93.2 | 118 | 15 | 24 | 75 | 57 | 5.48 | |
1993年 | 横浜 | 28 | 9 | 3 | 0 | 17 | 6 | 0 | 179.1 | 148 | 16 | 43 | 137 | 50 | 2.51(4) |
1994年 | 14 | 1 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | 70.2 | 100 | 16 | 28 | 61 | 50 | 6.37 | |
1995年 | 22 | 1 | 0 | 1 | 4 | 7 | 0 | 56.2 | 58 | 8 | 20 | 48 | 28 | 4.45 | |
1996年 | 25 | 4 | 0 | 1 | 10 | 8 | 0 | 146.1 | 172 | 25 | 36 | 85 | 67 | 4.12(13) | |
1997年 | 25 | 1 | 1 | 0 | 10 | 8 | 0 | 143.1 | 153 | 20 | 47 | 94 | 62 | 3.89(14) | |
1998年 | 28 | 3 | 0 | 1 | 13 | 8 | 0 | 177.2 | 183 | 20 | 31 | 100 | 66 | 3.34(14) | |
1999年 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 31.1 | 49 | 4 | 9 | 13 | 19 | 5.46 | |
2000年 | 29 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 0 | 100.2 | 116 | 15 | 22 | 57 | 49 | 4.38 | |
2001年 | 14 | 2 | 1 | 0 | 4 | 5 | 0 | 75 | 86 | 8 | 19 | 32 | 37 | 4.44 | |
2002年 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 5.1 | 12 | 1 | 4 | 3 | 8 | 13.50 | |
通算成績 | 301 | 38 | 9 | 10 | 101 | 88 | 0 | 1534 | 1623 | 211 | 404 | 998 | 683 | 4.01 |
[編集] 打撃成績
- 通算打率.196 92安打6本塁打1盗塁
[編集] タイトル・表彰
- 最多勝利 1993年(17勝)
- オールスターゲーム出場 3回(1990年、1991年、1993年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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監督 |
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85大矢明彦 |
コーチ |
72弘田澄男(ヘッド兼打撃)|71波留敏夫(打撃)|77斉藤明夫(投手チーフ)|75野村弘樹(投手)| 79水谷新太郎(内野守備)|73青山道雄(外野守備)|82高橋雅裕(走塁)|86中村武志(バッテリー)| 98片平保彦(バッテリー補佐)|87塚原賢治(ストレングス&コンディショニング)|70ジョン・ターニー(S&C) |
湘南シーレックス |
76田代富雄(監督)|78高木由一(チーフ)|80中根仁(打撃)|74吉田篤史(投手)| 83武藤潤一郎(投手)|81万永貴司(内野守備走塁)|90井上純(外野守備走塁)|84秋元宏作(バッテリー)| 93三浦正行(バッテリー)|89谷川哲也(S&Cチーフ)|95平野元章(S&C)|96杉村繁(育成総合) |
投手 |
10ウッド|11山口俊|12吉川輝昭|13那須野巧|14小林太志|15高宮和也|16川村丈夫|17加藤武治| 18三浦大輔|19染田賢作|20木塚敦志|21吉見祐治|22高崎健太郎|24寺原隼人|27山北茂利| 28秦裕二|30土肥義弘|32松家卓弘|34三橋直樹|35牛田成樹|36入来祐作|37岡本直也| 38桑原謙太朗|41小山田保裕|42ヒューズ|43北篤|44石井裕也|45吉原道臣|46田中健二朗|47工藤公康| 48ウィリアムス|54橋本太郎|57真田裕貴|58阿斗里|60佐藤祥万|64マットホワイト|99横山道哉 |
捕手 |
8相川亮二|29新沼慎二|49斉藤俊雄|59黒羽根利規|61武山真吾|62高森勇気 |
内野手 |
3ジェイジェイ|4北川利之|5石井琢朗|7仁志敏久|23藤田一也|25村田修一| 26佐伯貴弘|52石川雄洋|53野中信吾|55呉本成徳|56斉藤秀光|63梶谷隆幸 |
外野手 |
00河野友軌|0小関竜也|1金城龍彦|2内川聖一|6ビグビー|9下窪陽介|31吉村裕基| 33大西宏明|39内藤雄太|40桑原義行|50下園辰哉|51鈴木尚典|65西崎伸洋|67坂本大空也 |
育成選手 |
111関口雄大(外野手)|112杉本昌都(捕手) |
横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ) 1987年ドラフト指名選手 |
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1位:盛田幸妃 / 2位:岡本透 / 3位:野村弘 / 4位:清水義之 / 5位:横谷彰将 / 6位:田辺学 |