捕虜
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捕虜(ほりょ, Prisoner of war, POW)とは一般的に、戦争に関連して交戦相手国によって捕縛され管理下におかれた軍人又は軍属であることの証明書を持つ交戦者資格を有する者である。ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、俘虜(ふりょ)という訳語を用いている。
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[編集] 近代国際法確立前
近代国際法が確立する前まで、かつては捕虜は捕らえた国が自由に処分しうるものであった。
捕虜は、それを勢力下に入れた勢力によって随意に扱いを受け、奴隷にされたり殺されたりした。中世ヨーロッパでは相手国や領主に対し捕虜と引き換えに身代金を要求する事がよく行われた。ただし李陵(前漢の将軍)など敵方から名誉ある扱いを受ける例もあった。これは奴隷でも学のある者が重用されることがあったのと同様の現象と言える。
[編集] イスラーム
イスラーム法において、戦争捕虜は死刑か奴隷化、身代金や味方の捕虜と引き換えの解放、恩赦の4つの選択肢があり、ムハンマド自身もこれらの手段を適宜用いた。ただし後代になって法学派によって捕虜の取り扱いに関して、上記4つのうちのいくつかを否定する意見が出された。
たとえばシャーフィイー学派の法学者のマーワルディーが自著において述べるところ[1]によれば、当学派の祖シャーフィイーの説では、イマームまたはその代理としてジハードの指揮を任された人物は、異教徒の捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金の支払いもしくはムスリムの捕虜との交換による釈放、4)身代金無しで釈放の恩恵を与えるか、4つの選択肢を任意で行える、としている。もしこの時イスラームに改宗した場合、死罪は課せられず、他の3つの選択肢から選ばれる。
マーリク学派の祖マーリク・イブン・アナスの説では、同じく捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金では無くムスリムの捕虜との交換、の3つの内から選ばねばならず、恩赦は認められない、としている。
ハナフィー学派の祖アブー・ハニーファの説では、殺害するか奴隷にするか2つに1つのみである、といい恩赦も身代金との交換も認められない、としている。
マーワルディーは自著において「しかしながら」としてコーラン(クルアーン)の恩赦と身代金について、「それから後は、情けを掛けて釈放してやるなり、身代金を取るなりして、戦いがその荷物をしっかり下ろしてしまうまで待つが良い」(第47章 5 [4]節)という記述を引用し、ムハンマドのハディースをいくつか引用してマーリクとアブー・ハニーファの論を否んでいる。
また女性の捕虜に対しては、イスラーム戦士への戦利品として分配され、強姦されることが存在した。ブハーリーのハディース集「真正集」には、ムハンマド在世中のヤマン遠征において、アリー・イブン=アビー・ターリブが別の教友であるブライダ・イブン・アル=フサイブが(強姦の)権利を持っていた女性捕虜を横取りして強姦したため、争いになったことが伝えられている[2]。
[編集] 捕虜の保護
近代国際法が確立されるにつれ、捕虜は保護されるべきものであると考えられるようになった。そのため、1899年の陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦条約)以降、各種条約によって明文を以て保護されるようようになった。
1949年8月12日のジュネーヴ諸条約(4つある)及び1977年の第一追加議定書によって、戦時における軍隊の傷病者、捕虜、民間人、外国人の身分、取扱いなどが定められている。この第三条約により、ハーグ陸戦条約の捕虜規定で保護される当事国の正規の軍隊構成員とその一部をなす民兵隊・義勇隊に加え、当該国の「その他の」民兵隊、義勇隊(組織的抵抗運動を含む)の構成員で、一定の条件(a,指揮者の存在、b,特殊標章の装着、c,公然たる武器の携行、d,戦争の法規の遵守)を満たすものにも捕虜資格を認めた。
1977年の第一追加議定書ではさらに民族解放戦争等のゲリラ戦を考慮し資格の拡大をはかった。旧来の正規兵、不正規兵(条件付捕虜資格者)の区別を排除し、責任ある指揮者の下にある「すべての組織された軍隊、集団および団体」を一律に紛争当事国の軍隊とし、かつこの構成員として敵対行為に参加する者で、その者が敵の権力内に陥ったときは捕虜となることを新たに定めたのである。
なおテロリスト等は国際法上交戦者とはされず、捕虜にはなり得ない。最近では正規軍とテロリスト等が交戦する非対称戦争が注目されている。むやみに捕縛者を犯罪者扱いすれば国内外からの非難を浴びかねないこともあり人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている。
交戦者資格を持たない文民は第4条約で保護されているが、戦闘行為を行い捕縛・拘束された場合は、捕虜ではなく通常の刑法犯として扱われるのが原則である。 裁判は現地部隊で行われる略式裁判(特別軍事法廷)も含まれ、しばしばその場で処刑される。
第3条約は、捕虜の抑留は原則として「捕虜収容所」(俘虜収容所)において行うことを予定している。
ジュネーヴ条約は次の4つの条約および二つの追加議定書から構成されている。
- 第1条約
- 「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第2条約
- 「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第3条約
- 「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第4条約
- 「戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
- 第1追加議定書
- 「1949年8月12日のジュネーブ条約に追加される国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書」
- 第2追加議定書
[編集] 捕虜の虐待
近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは戦争犯罪とされるに至ったが、捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。
第2次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった(ドイツ人への報復など)。更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した(カティンの森事件)。
第二次世界大戦では、西部戦線におけるマルメディ虐殺事件などが知られている。
[編集] 捕虜に関する条約
- 陸戦ノ法規慣例ニ關スル条約(ハーグ陸戦条約):1899年締結、1907年改定。日本は、1911年11月6日批准、1912年1月13日に公布。
- 俘虜の待遇に関する条約:1929年7月27日締結。
- 捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)
[編集] 日本
[編集] 敵に投降すること
近代的軍隊においては、捕虜になること自体は違法な行為ではないものとされる。もっとも、自ら進んで敵軍に向け逃げ去り捕虜になることは「奔敵」とされ厳罰を受けることが通常である。
例えば、日本陸軍で適用された陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では、
- 第40条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵二降リ又ハ要塞ヲ敵二委シタルトキハ死刑二処ス
- 第41条 司令官野戦ノ時二在リテ隊兵ヲ率イ敵二降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮二処ス
- 第77条 敵二奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮二処ス
と定めて、濫りに投降することを制限していた。
[編集] 日露戦争
近代国家を目指す日本は、日露戦争、第一次世界大戦などで、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。
[編集] 第一次世界大戦
詳細は板東俘虜収容所を参照
(同収容所のみならず同大戦中のドイツ兵捕虜の取扱いについて詳述されている。)
[編集] 第二次世界大戦
日本軍兵士自身の投降については戦陣訓により厳しく戒められるようになった。その原因は敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れた事と言われる。捕虜となれば本人や家族が厳しく糾弾されるため兵士は戦死よりも捕虜になることを恐れ、しばしば自決や万歳突撃の動機となった。この事から日本軍は終戦まで一度も組織的投降を行わず、個人の投降者も稀であった。この事はとても異質であるため海外から見た日本軍のイメージに大きな影響をあたえている。
捕虜とした連合国兵士の扱いについては戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。その原因は捕虜への考え方の違いもさることながら日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかったことがあげられる。戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に取り扱ったとされた軍人等が連合国の軍事法廷で裁かれ、処刑される者が多かった。代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。その他、憲兵にも戦犯とされた者が多かった。
太平洋戦争中の日本軍による捕虜虐待事件として、戦後に連合国の軍事法廷によって裁かれたバターン死の行進事件については、行為当時の日本軍と米軍との間で大きな認識の相違があった。日本軍側としては、同事件は捕虜虐待を意図したものではなく、捕虜を護送していた日本兵自身も米軍捕虜よりも更に重装備を負いながら徒歩で同行しており、日本軍として捕虜の保護になしうる限りの最善を尽くしていてやむを得なかったと考えていたという見解もある[3][4]。ただしサンダカン死の行進では捕虜に対する食料や水の支給を停止し、その上歩くのもやっとな病人達を260kmもの道程のジャングル内の移動を強制したりして、明確に捕虜を抹殺しようとしていたと考えていたという見解もある[5]。
1945年(昭和20年)9月2日に調印された降伏文書では「下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ」とあり、俘虜の取扱いは日本と連合国との間で重要な事項とされた。そのため、1945年(昭和20年)12月1日に発足した第一復員省にも大臣官房俘虜調査部(初代部長は坪島文雄中将)が置かれた。
- 第二次世界大戦主要国別捕虜数
ドイツ | 9,451,000人 |
フランス | 5,893,000人 |
イタリア | 4,906,000人 |
イギリス | 1,811,000人 |
ポーランド | 780,000人 |
ユーゴスラビア | 682,000人 |
ベルギー | 590,000人 |
フランス植民地 | 525,000人 |
オーストラリア | 480,000人 |
アメリカ合衆国 | 477,000人 |
オランダ | 289,000人 |
ソビエト連邦 | 215,000人 |
日本 | 208,000人 |
[編集] 第二次世界大戦後
日本国憲法第9条は自衛権を放棄していないという政府見解はあったものの、人道に関する国際条約(いわゆるジュネーヴ4条約)の国内法制については、有事法制研究においても所管省庁が明確でない法令(第3分類)とされており、自衛隊法第76条の規定により防衛出動を命ぜられた自衛隊による捕虜の取扱い等を具体的に定める法制は未制定であった。
この変則的な状態を解消するため、2004年(平成16年)に行われた一連の事態対処関連法制の整備に際して、「武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律」(平成16年6月18日法律第117号)が制定された。同法はその第1条で「この法律は、武力攻撃事態における捕虜等の拘束、抑留その他の取扱いに関し必要な事項を定めることにより、武力攻撃を排除するために必要な自衛隊の行動が円滑かつ効果的に実施されるようにするとともに、武力攻撃事態において捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(以下「第三条約」という。)その他の捕虜等の取扱いに係る国際人道法の的確な実施を確保することを目的とする。」と謳っている。
その主な内容は、捕虜等の人道的な待遇の確保、捕虜等の生命、身体健康及び名誉に対する侵害又は危難から常に保護すること、その他捕虜等の取扱いに係る国の責務を定めた「総則」、捕虜等の拘束、抑留資格の確認等に関する手続、権限等を規定した「拘束及び抑留資格認定の手続」、「捕虜収容所における抑留及び待遇」、捕虜等の抑留資格認定及び抑留中の懲戒処分に対する不服申立ての審理手続等を規定する「審査請求」、捕虜等の送還等について規定する「抑留の終了」、及び捕虜等の拘束及び抑留業務の目的達成に必要な範囲での自衛官による武器の使用の規定、捕虜等が逃走した場合の再拘束の権限並びにそのために必要な調査等に関する規定を設けた「補則」等からなっている。
また捕虜取扱い法の附則により自衛隊法が改正され、捕虜取扱い法の規定による捕虜等の抑留及び送還その他の事務を行う自衛隊の機関として、武力攻撃事態に際して、臨時に捕虜収容所を設置することができるようになった(自衛隊法第24条第4項、第29条の2第1項)。 この捕虜収容所の所長は、ジュネーヴ第三条約の規定を踏まえ幹部自衛官が任じられる(ジュネーヴ第三条約第39条第1項、自衛隊法第29条の2第2項)。
[編集] 脚注
[編集] 映画
- 『大いなる幻影』、ジャン・ルノワール監督、フランス映画、1937年
- 『第17捕虜収容所』、ビリー・ワイルダー監督、アメリカ映画、1953年、原題:Stalag 17
- 『戦場にかける橋』、デヴィッド・リーン監督、イギリス映画、1957年、第二次世界大戦中の日本軍の俘虜収容所が舞台
- 『大脱走』、ジョン・スタージェス監督、アメリカ映画、1963年、第二時世界大戦中のドイツ軍捕虜収容所が部隊で、その収容所から脱走する英国、米国士官たちが主役
- 『戦場のメリークリスマス』、大島渚監督、日本映画、1983年
- 『バルトの楽園』、日本映画、2006年、第一次世界大戦中の徳島県にあったドイツ軍捕虜の板東俘虜収容所が舞台
[編集] 文献
- 日本人捕虜
- 長谷川伸、昭和31年の第4回菊池寛賞を受賞した 『日本捕虜志』中央公論社、1979年
- 会田雄次、ビルマのイギリス軍の管理する捕虜収容所における学徒兵の体験 『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』中央公論社、1962年、ISBN 4-122000467
- 大岡昇平 『俘虜記』新潮社、1967年、ISBN 4-10-106501-2
- 吉村昭、連合艦隊参謀長福留繁中将が捕虜になった事件に関するノンフィクション 『海軍乙事件』文藝春秋、1976年
- 吹浦忠正 『捕虜の文明史』新潮社、1990年、ISBN 4-10-600387-2
- 秦郁彦、白村江からシベリア抑留まで取り扱った日本人捕虜に関するノンフィクション 『日本人捕虜』上下二巻、原書房、1998年、ISBN 4-562-03071-2
- 日本人捕虜の尋問
- 大庭定男、日本軍の暗号解読や日本人捕虜の尋問のためにイギリス軍が設けた日本語習得の学校 『戦中ロンドン日本語学校』中央公論社、1988年、ISBN 4-12-100868-5
- 山本武利、米英軍の捕虜になった日本兵の尋問の記録 『日本兵捕虜は何をしゃべったか』文藝春秋、2001年、ISBN 4-16-660214-4
- 独ソ戦におけるソ連人の捕虜
- ドイツ人の捕虜
- ハインツ・G・コンザリク、ドイツ人捕虜のあいだで伝説となったドイツ軍医を描いた小説 『スターリングラートの医師 捕虜収容所5110-47』畔上 司(訳)、フジ出版社、1984年
- ジェームズ・バクー、人道主義的な扱いを期待して西側連合国の捕虜となったドイツ人の悲惨な運命 『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所 死のキャンプへの道』申橋 昭(訳)、光人社、1993年
- パウル・カレル他 『捕虜 誰も書かなかった第二次大戦ドイツ人虜囚の末路』学習研究社、フジ出版社版の復刻、2001年
- 棟田博、第一次世界大戦の青島攻略戦で捕虜となったドイツ軍人に関するノンフィクション 『日本人とドイツ人 人間マツエと板東俘虜誌』光人社、1997年、改題復刻版、ISBN 4-7698-2173-5
- 日本軍の捕虜となった英連邦諸国兵士