戦争犯罪
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戦争犯罪(せんそうはんざい)とは、狭義には戦争に関する法に違反する行為(交戦法規違反)と戦時反逆罪(作戦地・占領地内における非交戦者による利敵行為)を意味し、広義には交戦法規違反に加え平和に対する罪・人道に対する罪を含めた概念を意味する。
具体的には、他国に対して侵略戦争を仕掛けたり、敵兵・捕虜に対して非人道的な扱いをすることなどである。また、民間人に対しての殺戮・追放・逮捕など、紛争や混乱の誘発や報復感情の拡大の原因となる行為と言動も、戦争犯罪であるとされている。
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[編集] 近代における概念の確立
かつて戦争犯罪と定義されていたのは、捕虜の虐待を禁じた「ジュネーブ条約」や、非人道的兵器の使用を禁じた「ハーグ陸戦条約」など、戦時において守られなければならないとされる国際法(戦時国際法)違反行為のみであった。
第一次世界大戦終結後、戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議され、戦勝国であるアメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・日本の連合国側は、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を、国際道義に反したという理由から、当時の連合国五カ国の裁判官による裁判にかけることを決めた。だが中立国であるオランダが亡命していたウィルヘルム2世の引き渡しを拒んだため裁判は行われなかった。[1]また「人道に対する罪」はこの時のパリ講和会議において、敗戦国ドイツに対し初めて罪状として指摘されたとする説もある。
第二次世界大戦の最中、連合国側はドイツの残虐行為を幾度も非難し、戦争終結後には責任者の処罰を求める事を強く警告していた。しかし、この時点ではナチスのホロコーストなどの犯罪行為をそれまでの戦争犯罪の定義の範囲でしか捉えておらず、問題視されていたのも戦時国際法規違反のみであった。
だが、1942年ロンドンで、ベルギー、チェコスロヴァキア、フランス、ギリシャ、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ユーゴスラヴィアの連合国側9ヶ国により、ナチスの特に民間人への残虐行為を通常の戦争犯罪として扱うのみならず、その犯罪行為に責任を持つべき上官や政府指導者の責任まで問うべきだとする宣言が出され、翌1943年10月のアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の各国外相会談によるモスクワ宣言の中で、ナチスの主要戦争犯罪人及びユダヤ民族抹殺計画犯罪人への処罰が言明された。
1945年(昭和20)2月、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦によるヤルタ会談において国際裁判所設置が具体的に言及され、この時点で3国の外相により検討する事のみが協定として成立。その後、度重なる折衝を経て同年6月から戦犯を裁く国際軍事裁判開設のための協議が開催された。同年8月8日ロンドンでアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4カ国代表により、戦犯協定が調印され国際軍事裁判所条例が定められた。
[編集] 定義された戦争犯罪
ヤルタ会談の協定に基づき、1945年6月26日から戦犯を裁く国際軍事裁判開設のための協議が、アメリカ合衆国から最高裁判所判事ロバート・ジャクソン、イギリスから法務長官サー・デイビット・ファイフ、フランスから大審院判事ロベール・ファルコ、ソビエト連邦から最高裁判所副長官ニキチェンコ少将の各国代表によって開始された。8月8日まで本会議だけで16回開催されたが、協議に参加した四カ国の法体系の違いから草案の一語ごとに論争がくり返されるほど、会議の進行は困難を極めた。中でも戦争犯罪の定義については大きく意見が対立し、特にアメリカ合衆国とソビエト連邦の2国間の意見の相違が顕著だった。
ソビエト連邦の草案は、あくまでナチス・ドイツの違法行為を指摘したもので、ナチス戦犯を裁くためにのみ国際軍事裁判所を設置するという意図を示していた。ニキチェンコは「我々の今の仕事は、いかなる時、いかなる事情にもあてはまる法典を起草しようとするものではない」と述べている。
一方アメリカ合衆国側は、ナチスの戦争犯罪を対象にはしていたが、戦争そのものを犯罪とする考えを示していた。ジャクソンは、「侵略戦争の開始は犯罪であり、いかなる政治的または経済的事情もこれを正当化できない」としたルーズベルト大統領の言葉を引用し、「世界の平和に対して行う、いかなる攻撃も、国際的犯罪とみなすということを、ドイツ人たちおよびその他の何人にも知らせたいのである」と述べている。
協議の結果、戦争は道義的に非難されても法律的には許されると考えられていた時代に、終止符をうつものとして国際軍事裁判所の憲章は定められるべきであり、それ故に戦争犯罪の定義を、ある特定の国の犯した行為によってのみ定めるべきでは無いとするジャクソン判事の意見が大幅に採用され、ニュルンベルク裁判ならびに極東国際軍事裁判(東京裁判)で、以下のように戦争犯罪が定義された。
ニュルンベルク裁判における国際軍事裁判所条例第6条
次に揚げる各行為またはそのいずれかは、裁判所の管轄に属する犯罪とし、これについては個人的責任が成立する。
- a項-平和に対する罪
- すなわち、侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与。
- b項-戦争犯罪
- すなわち、戦争の法規または慣例の違反。この違反は、占領地所属あるいは占領地内の一般人民の殺害、虐待、奴隷労働その他の目的のための移送、俘虜または海上における人民の殺害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を含む。ただし、これらは限定されない。
- c項-人道に対する罪
- すなわち、犯行地の国内法の違反であると否とを問わず、裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、あるいはこれに関連して行われた、戦争前あるいは戦争中にすべての一般人民に対して行われた殺害、せん滅、奴隷化、移送及びその他の非人道的行為、もしくは政治的、人種的または宗教的理由にもとづく迫害行為。
極東国際軍事裁判所条例第5条
人並ニ犯罪ニ関スル管轄 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。
- (イ)平和ニ対スル罪
- 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
- (ロ)通例ノ戦争犯罪
- 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
- (ハ)人道ニ対スル罪
- 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。
上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス。
[編集] 国際刑事裁判所の設置
第二次世界大戦における惨禍、特にホロコーストの惨劇をくり返さないとして、国際軍事裁判を行うに至った経緯を踏まえ、戦争抑止の意味からも、武力紛争時に行われた「ジェノサイドの罪」「人道に対する罪」「戦争犯罪」の実行者や共犯者、依頼者、教唆者、煽動者、上官などを、戦争犯罪としてを裁く常設の国際法廷設置が国際連合により提唱されたが、東西冷戦の時代には進展を見なかった。
しかし、冷戦終結後、民族紛争に伴う大量虐殺など「人道に対する罪」を裁く国際犯罪法廷が安全保障理事会決議によって臨時に設置されたこともあり(旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷、ルワンダ国際戦犯法廷)、常設の国際法廷設置議論が見直され、1998年7月にローマで国際刑事裁判所設立のための外交会議が開かれ、国際刑事裁判所規程が採択された。条約の発効に必要な60カ国が批准し、2002年7月から正式に発効、既に設置されている国際司法裁判所と共に2003年からオランダのハーグに設置されている。日本も2007年中に正式に加入する見通しであるが、アメリカ合衆国、中華人民共和国、ロシア連邦などは未加盟であり、その実効性は乏しいともいわれている。
[編集] 戦争犯罪の事例
- カティンの森事件・ヴィーンヌィツャ大虐殺 - 第二次大戦時のソ連による大量虐殺事件
- 第二次世界大戦・太平洋戦争における都市に対する絨毯爆撃
- アメリカの広島・長崎に対する原爆投下による民間人大量殺戮。
- ソ連によるシベリア抑留
- 連合軍による日本兵捕虜に対する虐殺(リンドバーグ日記参照)
- ソ連軍によるドイツ・満州での民間人虐殺、レイプ
- 米韓軍・南ベトナム軍と北ベトナム軍・ベトコン双方によるベトナム戦争中のベトナム人非戦闘員の虐殺、レイプ。
- 韓国軍による朝鮮戦争中の非戦闘員二十万人余りの大虐殺(保導連盟事件)
- 平頂山事件
- 陽高事件
- 中国国民党軍による便衣兵戦術、捕虜と民間人虐殺。(南京事件・済南事件など)
- 通州事件
- 南京大虐殺(1937年12月~38年2月、南京での日本陸軍による中国人大量虐殺事件。真偽の論争在り)
- 日本軍による重慶爆撃
- 日本軍と現地ゲリラによる太平洋戦争中の南方地域での虐殺。
- バターン死の行進
- サンダカン死の行進
- アメリカ軍による日本兵捕虜虐殺
- アメリカ軍による日本本土空襲
- 沖縄戦に於ける日米両軍の民間人虐殺・レイプ
- 従軍慰安婦、ライタイハン、アメラジアン、
- 老斤里事件(1950年7月)
- アブグレイブ刑務所における捕虜虐待(イラク戦争)
- 米英軍のイラクに於ける民間人虐殺、レイプ
[編集] 脚注
- ^ 児島襄『東京裁判(上)』中央公論社、1971年、ISBN 4122009774, 49頁。吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波書店、1992年12月、35頁、ISBN 9784004302575。野村二郎『ナチス裁判』講談社、1993年1月、78頁、ISBN 9784061491328。
[編集] 関連項目
- 紛争 - 民族浄化
- 国際法
- ハーグ陸戦条約(要約)
- ハーグ陸戦法規(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)条約文
- ジュネーブ条約
- 国際刑事裁判所
- 戦争責任
- 極東国際軍事裁判 - 日本の戦争犯罪 - 中国帰還者連絡会
- ニュルンベルク裁判
- アメリカの戦争犯罪
- 原子爆弾
- 戦略爆撃
[編集] 参考文献
- 秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一 監修 『世界戦争犯罪事典』 文藝春秋、2002年8月8日。ISBN 9784163585604
- 日本の戦争犯罪についての軍事裁判に関する質問主意書(参議院議員吉岡吉典提出)および答弁書、1991年(平成3年)10月
- 児島襄『東京裁判 上』 中央公論新社、2007年3月。ISBN 9784122048379
- 児島襄『東京裁判 下』 中央公論新社、2007年3月。ISBN 9784122048386
- 清水正義『東京女学館短期大学紀要』14号、18号、19号。
- 石田勇治『過去の克服―ヒトラー後のドイツ』 白水社、2002年5月。ISBN 9784560028360