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国家社会主義ドイツ労働者党 - Wikipedia

国家社会主義ドイツ労働者党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナチズム
  

国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)とは一般にナチ党ナチス党として知られるドイツ政党1920年に結成され、アドルフ・ヒトラーが指導者として率い、1933年に政権を奪取したが、1945年のドイツ敗戦にともない解消した。

目次

[編集] 党の歴史

[編集] 結成

1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会」(Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden) がドイツのブレーメンで結成される。錠前師であり自称詩人であったアントン・ドレクスラーは同党の支部を1918年3月7日にバイエルン州ミュンヘンで結成した。1919年1月5日にドレクスラーは ゴットフリート・フェーダー(Gottfried Feder)、ディートリヒ・エッカートカール・ハラーらと共に同支部を「ドイツ労働者党」(DAP)に改名する。

結党時は第一次世界大戦での敗北に伴うドイツ帝国の解体と赤色革命に騒然とする世相に乗じた、わずか40人ほどの泡沫政党に過ぎなかった。母体であった「トゥーレ協会」の会員に、後に理論的指導者として活躍するアルフレート・ローゼンベルクディートリヒ・エッカートや、ルドルフ・ヘス等がおり、協会の異教的神秘主義反ユダヤ主義はナチ党の思想に大きな影響を与えた。

[編集] ヒトラーの入党

軍の情報関係の仕事をしていたアドルフ・ヒトラーは1919年9月12日の集会に参加し、数日後に入党した。彼はたちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは自分が七番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は555番であり(番号は501番から始まる。)、実際は党幹部中の七番目の幹部であった。ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義などを訴える25カ条綱領を作成した。綱領は反資本主義・社会主義色が濃かった。

またヒトラーは党章の募集を発案して、歯科医フリードリヒ・クローンが、義勇軍「エアハルト旅団」(de)(「コンスル」の前身)が使用していた鉤十字を下地にデザインしたものに修正を加えたものが党章・党旗として制定された。同じ頃、週刊紙『ミュンヒェナー・ベオバハター』を買い取り、党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』を創刊している。ヒトラーが著書「わが闘争」で「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ。」と公言している様にナチ党は左翼の影響が多く見られる。最近の地域史研究では、ナチ党はプロパガンダや組織を左翼勢力から取り入れていたことがわかっている[1]。例えば、有名な党歌『旗を高く掲げよ』は共産主義者のヴィリ・ブレーデルの詩の焼き直しであることが今日において判明している。しかし、原則に拘らない一連の手法により、ナチ党は泡沫政党から大衆政党へと急成長を遂げていくことになる。集会で入場料を取り、会場で寄付金を集めるというヒトラーのアイディアは成功し、国防軍や富裕層からの資金援助も受け入れ、党の財政を潤した。

党の設立初期にヒトラーは改名を主張したが、ルドルフ・ユング(Rudolph Jung)がオーストリアの Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei の命名パターンに従うことを要求した。「ドイツ労働者党」は1920年2月24日にミュンヘンビアホールで開かれた党大会に2000人を集め、綱領を発表し、党名を最終的に "Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei" にした。

  • 通称の由来:「ナチ: Nazi)」とは、当時の対抗勢力がナチ党員に付けた蔑称であった。ドイツ社会民主党員は同じように Sozialisten を短縮してゾチ (Sozi) と蔑称されていた。ナチス (Nazis) は複数形である。ナチスの呼称は日本で戦前から使用されている(後述の「文献」参照)。現在は英米でも Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツでは現在は、Nazi よりも Nationalsozialismus の略号である NS を接頭語に例えば、NS-Deutschland のように造語される。
  • 正式党名の訳語:「国民社会主義ドイツ労働者党」、「民族社会主義ドイツ労働者党」とも訳される。マルクス経済学の研究者岩田弘は後者の呼称がナチスの主張に即しているとの意見を発表している。各国語では下記の通り翻訳されている。
    • 英語:National-Socialist German Workers Party
    • 中国語:民族社會主義德意志工人黨 あるいは 國家社會主義德意志勞工黨
    • 韓国語(漢字表記):民族社會主義獨逸勞動者黨

[編集] 権力獲得闘争

ヒトラーはエルンスト・レーム大尉やディートリヒ・エッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大し、1921年7月29日に開かれた幹部会議では指導権を認められて党首となる。また同年8月、レームの設立した党内組織の「体育スポーツ局」(Sportabteilung)は10月には「突撃隊」と改称し、左翼勢力との市街戦の主力となっていく。

[編集] ミュンヘン一揆

1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯ルール地方を占領した。ナチスは右翼と共にフランス占領軍に対するテロを展開し、シュラゲター(Albert Leo Schlageter)がフランス軍により虐殺され、それをナチスが喧伝し、市民の間で英雄視される。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、更に勢力を拡大する。9月には国粋主義的な政党が連合して「ドイツ闘争連盟」が組織され、ヒトラーも指導者の一人になった。このころナチ党は党員数3万5千人で、バイエルン州では有数の政党になっていた。もともとバイエルン州は伝統的に反ベルリンの空気があったが、不穏な空気は1923年9月のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、国粋主義的政党は反ベルリン・反ワイマール共和国を唱えて11月9日、市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000~3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。この「ミュンヘン一揆」はバイエルン州政府によって鎮圧され、首謀者ヒトラーを初め、党員らは投獄され、投獄を免れた党員も国外逃亡を余儀なくされる。ナチスも危険政党として非合法化され、一時解散することになるが、反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、いくつかのダミー団体が活動を続けた。

党内左派の中心人物のグレゴール・シュトラッサーは党首ヒトラーより先に出獄し、主にドイツ北部と西部において元党員を組織した。後にナチ党のプロパガンダを担当するヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃に彼の秘書として党活動を始めている。当時のゲッベルスは「日和見主義者のヒトラー氏の除名」を提案するなど自他共に認める左派であった。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と訴え、合法的な政権交代を求めて既存勢力(産業界、軍部、貴族階級)との融和を図り、準国営化を唱えたヒトラーとの間に溝を深めてゆく。

[編集] 党勢の拡大

1923年から24年にかけて急激に、天文学的なインフレになり、多くの国民が失業するなど、政権が混乱していた中、 1925年にヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国、ナチ党が再結成される。再結成後のナチ党は選挙運動に徹する。同年、「突撃隊」の下部組織として、ヒトラー警護のために「親衛隊」が結成される。1929年、突撃隊上級大佐のハインリヒ・ヒムラーが第4代の親衛隊全国指導者に選ばれる。

「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と主張していたゲッベルスの行ったプロパガンダ活動の多くは政敵の共産党を模倣したものであり、戸別訪問、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈なネガティブ・キャンペーンラジオを利用した政見放送、航空機を利用した遊説旅行、「ドイツ社会民主党」防衛隊を真似した旗を掲げ厳格な統制に従う「突撃隊」の街頭行進、町の壁を埋め尽くすポスター等強烈なビジュアルインパクトを与える内容であった。

1927年には首都ベルリンで新聞『アングリフ(攻撃)』を発刊した。新聞は他の新聞や共産党などの他の政党を大きな活字で口汚く罵るもので、攻撃された新聞が反論の記事を書けば書くほど、ナチスの宣伝になってしまう効果もあったため、わざと讒言で他紙を「釣る」ことすらあった。また、時にはテロに訴えることもあった。1930年2月23日、党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員ヘラーに暗殺されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。

[編集] ナチス党内閣成立

巧みな選挙戦術で1932年、二回の選挙でナチ党は第一党の座についたが、全584議席中196議席に過ぎず、単独過半数にも及ばなかったのであって、決してヒトラーに全面的な国民の支持があったのではなかった。同年11月の選挙ではナチ党は34議席を失っており、共産党は11議席を増やしている。首都ベルリンは元々「赤いベルリン」と呼ばれていた共産主義の牙城だっただけに、共産党が第一党となっている。このため、シュライヒャー首相はナチ党の組織局長シュトラッサーの入閣を餌にナチ党の切り崩しを図る。ヒトラーの政権獲得は一時危ぶまれたが、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は側近らの説得を受けてヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日ヒトラーを首班としたナチス党内閣が発足した。

[編集] アメリカの親ナチス勢力による工業再建支援

1920年代から30年代のドイツの経済復興にはアメリカ資本の強力なナチス支援があった。これがアメリカで対独参戦を望まない政論が優勢であった理由である。

  • ヘンリー・フォードは個人的にナチスに献金した最初の外国人であった。その後ドイツでの生産を拡大し1942年時点ではドイツ軍のトラックの3分の2がフォード製であった。
  • ロックフェラーのスタンダード石油は、IGファルベンと全面的な提携関係にあった。IGファルベンは、合成ゴム、プラスチック、火薬、爆薬、毒ガス、航空用ガソリンの最大の供給会社に成長したが、シュローダー財閥と並びナチスの最大のスポンサーであった。
  • アルコアとIGファルベンは協定を結び、マグネシウム製造に関する国際特許を独占した。
  • 米系カナダ企業のインターナショナル・ニッケルとフランスのカレドニッケルのニッケル市場国際独占協定に、IGファルベンもアメリカの勧誘で参加し、3社で世界市場を分割した。
  • ゼネラル・モータは海外生産の50%以上をドイツで行っていた。
  • チェース・マンハッタンとJPモルガンはアメリカ企業の対ドイツ投資の窓口であり、フランス占領後もフランス支店で、ユダヤ人資産没収を含むナチスのための業務を秘密裏に継続した。(1998年にユダヤ人遺族から訴えられた)
  • ゼネラル・エレクトリックとクッルップ・スチールは、炭化タングステンの価格カルテルを結び国際価格を9倍以上に吊り上げた。
  • ドイツの4大製鉄会社が合併して結成した会社、合同製鋼の設立時の7千万ドルの社債はディロン・リードが引き受けした。
  • ハリマン商会のユニオン銀行(43代ブッシュ大統領の祖父が経営)はナチスの活動資金を、オランダの貿易海運銀行を通じて1942年まで提供し続けた。(1942年アメリカ政府により資産差し押さえ)
  • IBMはナチスに、収容所のユダヤ人のIDパンチカードとその識別装置を提供した。
  • イギリスのシェル石油は、1941年の独ソ開戦までロシアとルーマニアの石油をドイツに提供し続けた。

[編集] ナチス党の得票数の変化

日時 得票数 得票率
1928年5月20日 810,000 2.6%
1930年9月14日 6,410,000 18.3%
1932年7月31日 13,750,000 37.3%
1932年11月6日 11,740,000 33.1%
1933年3月5日 17,280,000 43.9%

[編集] 一党独裁

1933年2月に国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。さらにヒトラーは、1933年3月23日に全権委任法を国会承認させて、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。これはどんな法律も議会の審議を経ないで制定できることを意味する。このようにしてヒトラーは、ヴァイマル憲法によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどを停止、合法的な独裁体制を確立した。1934年6月30日、第二革命を主張する「突撃隊」長レームや左派など党内のヒトラー反対派を一斉に粛清長いナイフの夜事件)、代わって国防軍や資本家との連携を一層深めた。

また、この頃から反ユダヤ的行動が盛んに行われ、1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・「突撃隊」がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した(水晶の夜)。

州政府にもナチ党幹部が国代理官(Reichsstatthalter)として舞い降り、民主主義的な地方自治を停止させた。事実上党が国家を征服し支配した形となる。党の単位である大管区、管区、支部、細胞、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。最小単位の班の構成は40~50 所帯である。鉤十字の党旗を国旗とし、党歌『ホルスト・ヴェッセルの歌』は全国で歌われた。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合に代わる「ドイツ労働戦線」や、下部組織の「歓喜力行団」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々までナチズムによって支配されていた。

党組織は第二次世界大戦では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍の「国民突撃隊」の母体にもなっている。

[編集] 党の構成

1934年の党組織図
1934年の党組織図

[編集] 指導部

党組織は、指導者(Führer)、全国指導者(Reichsleiter)、大管区指導者(Gauleiter)、管区指導者(Kreisleiter)、地区指導者(Ortsgruppenleiter)、細胞指導者(Zellenleiter)、街区指導者(Blockleiter)の階層から成っている。全国指導者には、1933年の政権奪取後に国務大臣を兼務する者が多く含まれていた。

党指導部は、職能別に党務を分担して指導者ヒトラーを補佐する17〜20人の全国指導者 (Reichsleiter)から構成された。右の1934年時点の党組織図では18名が挙げられている。ルドルフ・ヘス指導者代理(副総統や総統代理という訳もある。以下同じ)(Stellvertreter des Führers)、ヘルマン・ゲーリング指導者後継者(総統後継者)、ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝全国指導者(党宣伝部長)、ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者(Reichsführer des SS)、バルドゥール・フォン・シーラッハ青少年全国指導者(Reichsjugendführer)であった。

大管区はナチ党の地方組織としての最大の単位で、そこには大管区指導者(1935年には33人)が置かれた。ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者は宣伝大臣ゲッベルスであり、彼は全国指導者と大管区指導者を兼任していた唯一の人物であった。また、大管区指導者ベルンハルト・ルストは1934年以降、国の文部大臣でもあった。

管区指導者は827人、地区指導者は20,724人、細胞指導者は976人、街区指導者は204,359人を数えた(1935年)。

[編集] 一般党員

ナチ党の一般的な党員は主として田舎や都市部の中流階級から構成されていた。7%は上流階級に属し、7%は農民であった。35%は産業労働者であり、51%は中流階級に所属した。最大の単一職業集団は小学校教師であった。

党が結成された1920年には約2000名の党員数に過ぎなかったが、1933年の政権奪取時に党員数は250万人まで膨れあがっていた。1945年に党が解散した時、公式党員名簿数は合計850万人に上った。

[編集] 軍事組織

1935年には国防軍にも警察にも所属しない軍事組織親衛隊特務部隊が設けられた。ここに志願すれば、義務兵役年限に算入された。1940年には武装親衛隊と改名されて、陸軍海軍空軍に並んで第四の軍隊と認知された。ナチ党の政権奪取前の時代は、国防軍は政治的な影響を恐れ、国防軍の兵士は非政治的であることを要求したため、国防軍に入隊しようとするナチ党員は離党を要求されることがあった[要出典]

[編集] その他の組織

パートタイム的に招集される一般党員のほかに下記の組織に入ることも出来た。

[編集] 党のシンボル

党のシンボルである鉤十字は1920年に採用された。党旗のは「血と大地」を表すとされる。

赤、黒、白の組み合わせは旧ドイツ帝国旗に使用されたもので、現在の国旗に無い白はプロイセンの旗を表している。ヒトラーは、赤は社会的理念、白は国家主義的理念、ハーケンクロイツ(鉤十字)は古代ヒンズーの印を増幅したものである。これはアーリア民族の勝利のために戦う使命を表しているとされた。またナチ党は円や背景のないハーケンクロイツも使用した。

党歌『ホルスト・ヴェッセルの歌』は、正式には『旗を高く掲げよ』という。1930年に当時のナチ党に敵対していた共産主義勢力との武力闘争により命を落とした突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが作詞したものでオペラの曲がつけられ、第二の国歌的に扱われた。

[編集] 第二次世界大戦後

1945年5月にドイツが連合軍に降伏するとナチ党は事実上解散、同年9月10日には党の存在自体が法律によって禁止され、「ニュルンベルク裁判」により「犯罪的な組織」と認定された。ドイツ国内では刑法第86条でナチズムのプロパガンダ及びそれに類する行為が禁じられている。

ナチ党の後継グループに、アメリカにおけるジョージ・リンカーン・ロックウェルが率いた「アメリカ・ナチ党」がある。これは1960年代にその党勢が最高潮に達し、多くの法的機関が党の危険性を警告したが、言論の自由を重視する世論によって、党の解散を免れその存在の継続が認められた。しかし、ジョージ・ロックウェルの死後その会員の大部分と財源の多くを失った。

なお日本では一時期「ナチス犯罪に時効はない」という報道が行われた事があったが、実際にはドイツ刑法においてナチスとは関わりなく「謀殺罪(計画的殺人)」の時効が無いだけで、それ以外のナチス時代の犯罪は全て時効が成立しており「ナチス犯罪に時効はない」は事実として誤りである。

[編集] 文献

  • 四宮恭二(1932年から1934年までナチスの政権奪取を身近に観察した留学生)『ナチス』、政経書院、1934年 
  • 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年
  • Milton Mayer『彼らは自由だと思っていた:元ナチ党員十人の思想と行動』田中浩・金井和子(訳)、未来社、1983年、ISBN 4-624-11068-4
  • Alexander Drozdynski『ヒトラー・ジョーク:ジョークでつづる第三帝国史』関楠生(訳)、河出書房新社、1980年
  • Ian Kershaw『ヒトラー 権力の本質』石田勇治(訳)、白水社、1998年
  • 加瀬俊一(ヒトラーと会談したことのある外交官)『ワイマールの落日』、光人社、1998年 
  • 宮田光雄・柳父圀近(編)、『ナチ・ドイツの政治思想』創文社、2002年、ISBN 4-423-71052-8
  • 佐野誠『近代啓蒙批判とナチズムの病理』創文社、2003年、ISBN 4-423-71057-9

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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