クルト・フォン・シュライヒャー
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クルト・フォン・シュライヒャー Kurt von Schleicher |
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任期: | 1932年12月3日 – 1933年1月28日 |
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出生: | 1882年4月4日 ドイツ帝国・ ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル |
死去: | 1934年6月30日(殺害) ドイツ国・ノイバーべルスベルク (ポツダム近郊) |
政党: | なし |
配偶: | エリザベート・フォン・ヘニング |
クルト・フォン・シュライヒャー(Kurt Ferdinand Friederich Hermann von Schleicher, 1882年4月4日 - 1934年6月30日)は、ドイツの軍人、政治家。ヴァイマル共和国最後の首相。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 軍人
ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに陸軍士官の息子として生まれる。1896年‐1900年、陸軍士官学校に学ぶ。1900年3月、少尉に任官し近衛第3歩兵連隊第5中隊に配属される。そこで同僚のオスカー・フォン・ヒンデンブルクと親しくなるが、彼はのちにヴァイマル共和国大統領となるパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥の息子だった。その他この部隊ではエーリッヒ・フォン・マンシュタインとも知り合った。1906年、同連隊の軽歩兵大隊に配属。1909年に中尉に昇進し陸軍大学で学ぶ。卒業後の1913年に参謀本部に配属され、自身の希望によりヴィルヘルム・グレーナー中佐の鉄道部に配置された。そこでのちに因縁の関係となるフランツ・フォン・パーペンと知り合った。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、大尉として兵站部に所属。1917年に短期間第237歩兵師団参謀に転出した他は、大戦をそこで過ごした。1918年7月に少佐に昇進。ドイツ革命の際は、軍部とドイツ社会民主党(SPD)主導の臨時政府との協力に賛成した。上官のグレーナー参謀次長とSPD党首のフリードリヒ・エーベルトやオットー・ヴェルスとの間の電話連絡をとりもって両者の協約を成立させ、二人を反乱兵の手から救い出した。この協約は暫定政府の安定をもたらすとともに、軍部に「国家内国家」ともいえる独立性を与えることになった。
[編集] 軍の実力者
戦後は兵務局長(参謀総長)ハンス・フォン・ゼークトの側近となり、息子オスカーを通じてヒンデンブルク大統領の個人的信頼も得ていたシュライヒャーは、ドイツ国防軍でその勢力を強めた。1929年に国防次官に就任。1931年、従兄弟の未亡人でフォン・ヘニング将軍の娘エリザベートと結婚した。1932年、ハインリヒ・ブリューニング首相が世界大恐慌の善後処理のために経済政策を手をつけようとすると、社会主義的としてこれに反対。台頭するナチスの突撃隊禁止令をめぐって上司のグレーナー国防相に抵抗して辞職に追い込み、ブリューニング内閣に打撃を与えた。
ヒンデンブルク大統領の支持も失って苦境に陥ったブリューニング内閣は退陣し、シュライヒャーは後任の首相に古い知己のパーペンを推挙した。パーペン内閣で国防大臣に就任し、同年8月にナチスの党首アドルフ・ヒトラーに副首相ポストを提示して与党に引き入れようとするが、拒絶された。SPDのオットー・ブラウンが首班を務めるプロイセン州政府を武力で解散させて政府支配下に置くことには成功したものの、パーペンの政治能力に疑問を持つようになる。11月の総選挙では相変わらずナチスが第一党で与党は敗北。パーペンは議会を停止するべく軍部を使ったクーデターを計画するが、軍部を握るシュライヒャーが頷かず、結果としてパーペン失脚に一役買った。
[編集] 首相就任
パーペン失脚後、シュライヒャーはナチスとの提携を図るがまたも失敗。パーペンの再指名も浮上する中、ヒンデンブルクの指名により12月3日に首相に就任した。パーペンは旧友シュライヒャーの仕打ちを忘れなかった。首相となったシュライヒャーはグレゴール・シュトラッサーらナチス左派を政権に引き入れる工作を行う。この工作は両者の行き違いから不調に終わり、更にシュトラッサーがナチスから除名状態に追い込まれてしまうなど失敗した。軍部からの資金援助や新聞による援護にもかかわらずシュライヒャー政権は国民の支持を受けなかった。右翼からは「赤い将軍」と蔑称され、左翼からはプロイセン州政府打倒の経緯から反動主義者と見られていた。
一方シュライヒャーに失脚させられたパーペンがヒトラーに接近し、両者は1933年1月に二度極秘会談をもった。1月22日の会談にはシュライヒャーの旧友オスカー・フォン・ヒンデンブルクや銀行家、さらに大統領府長官オットー・マイスナーも加わり、オスカーとマイスナーの説得でヒンデンブルク大統領はヒトラーへの嫌悪を和らげた。これに国家人民党も加わる形でシュライヒャー包囲網が形成され、ついに1月28日、ヒンデンブルク大統領と会見したシュライヒャーは辞職を申し出て、ヒトラーを後継首相にするようヒンデンブルクに勧めた。ヒンデンブルクは「将軍、祖国に尽くした君の尽力に感謝する。では神のお力でこれからどうなるのか見てみようじゃないか」と答えた。こうしてヒトラーが首相に就任し、ヴァイマル共和国の命運は決した。
[編集] 粛清
翌1934年6月30日、シュライヒャーは長いナイフの夜でシュトラッサーらと共に粛清される。彼は現役の陸軍将帥であり、しかも自宅で親衛隊員に殺害されたとき、夫人も巻き添えになっているにもかかわらず、国防軍はナチスに何の抗議もしなかった。事件の唯一の目撃者だった家政婦は翌年不審な溺死を遂げ、公式には自殺と発表された。
国防軍に影響力を保持していたシュライヒャーはナチスにとって危険な存在であり、またナチスの分裂を試みた彼をヒトラーは決して許さなかったのである。ナチス党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」は2年後に「1933年1月29日のシュライヒャーによるクーデター計画」という記事を掲載し、シュライヒャー粛清を正当化した。
[編集] 外部リンク
- ドイツ歴史博物館経歴紹介(ドイツ語)
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