サイモン・ヴィーゼンタール
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サイモン(独語読み:ジーモン)・ヴィーゼンタール(Simon Wiesenthal、1908年12月31日 - 2005年9月20日)はナチスの戦犯追及で知られるオーストリア人ユダヤ教徒である。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
ヴィーゼンタールは、現在ウクライナの一部となった元オーストリア・ハンガリー帝国領のガリツィア地方のブチャチに生まれた。当時、彼の名前は Szymon Wiesenthal(シモン・ヴィーゼンタール)と綴られている。地元のリヴィウ工科大学に進学を希望したが、ユダヤ人入学枠の制限から入学できず、プラハ工科大学に進んだ。
[編集] ホロコースト
第二次世界大戦前は建築家を志していたが、第二次世界大戦が始まるとナチス党率いるドイツのユダヤ人迫害政策によって強制収容所に収容された。その後、ヴィーゼンタールは夫人を始めとする家族を失った他、親族のうち計89人がホロコーストの犠牲となった。しかし自身は1945年5月のアメリカ軍によるマウトハウゼン強制収容所解放まで生き残った。
[編集] ナチ戦犯の追及
戦後、ヴィーゼンタールとウィーンに本拠を置くユダヤ人迫害記録センターは、戦時中ドイツに協力的であったバチカンやフランシスコ会などの協力の下に、世界中に逃亡したナチス戦犯の捜索に動き出し、1962年にはイスラエルの情報機関モサドに情報提供してアルゼンチンに潜伏中のアドルフ・アイヒマン逮捕に寄与した。ヴィーゼンタールはアンネ・フランクを強制収容所に送り込んだゲシュタポのカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーの逮捕にも協力した。
また、ヴィーゼンタールは1970年代にオーストリアでブルーノ・クライスキーが内閣を組閣する際、数人の大臣が過去にナチス党員だったことを指摘した。これに対してクライスキーは、彼自身がユダヤ人だったにも拘らず、ヴィーゼンタールを「身内の悪口を言う人」として非難した。
ヴィーゼンタールは1977年に、サイモン・ウィーゼンタール・センターをアメリカ合衆国・ロサンゼルスに設立した。これはホロコーストの記憶を風化させないための、またナチス戦犯追及のための機関であったはずであるが、現在はユダヤ人差別、ユダヤ陰謀論にも介入や圧力を行っていることから、「言葉狩り」のための機関に成り下がっているという意見もある。
ヴィーゼンタールの業績については生前から通説や彼自身の主張について疑問を呈する意見も多く、今後の研究が待たれる。
[編集] 引退
2003年4月にヴィーゼンタールは引退を発表した。『私は生き残った全ての戦犯を見つけだした。もし生き残っている者がいれば、彼らは年を取りすぎて今裁判を受けることは出来ないだろう。私の仕事は終わった』と語った。ヴィーゼンタールによれば、まだ生きているただ一人のオーストリア人戦犯はアイヒマンの片腕だったアロイス・ブルナー(1912年生まれ)で、シリアに隠れていると言われている。
その後2004年2月にイギリス政府は「人間性のための一生の奉仕」に対してという名目で、ヴィーゼンタールに名誉ナイトの称号を与えることを決定した。
[編集] 死去
2005年にヴィーゼンタールはウィーンの自宅で老衰で死去した。96歳であった。生涯で約1100人のナチス戦犯の逮捕に貢献したといわれている。ヴィーゼンタールの訃報を聞いたイスラエルのモシェ・カツァブ大統領は、ヴィーゼンタールを「この世代の最も偉大な闘士」と呼んで称えた。
[編集] 小説
アイラ・レヴィンの小説『ブラジルから来た少年』の登場人物の『エズラ・リーベルマン』は、ヴィーゼンタールがモデルとなっている。また、フレデリック・フォーサイスの小説『オデッサ・ファイル』でもドイツ人ジャーナリストに情報を与える役で登場している。
[編集] 著作
- 『ナチ犯罪人を追う』、時事通信社、1998年、ISBN 4-7887-9809-3