トゥーレ協会
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トゥーレ協会 (トゥーレきょうかい、Thule-Gesellschaft)は、1918年にミュンヘンで結成された秘密結社[1]。
極端な民族主義・反ユダヤ主義を標榜して第一次世界大戦後のバイエルン州で勢力を拡大してレーテ共和国(Räterepubliken)打倒に大きな力を及ぼし、また国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の母体の一つともなった。
トゥーレ協会は1918年1月に右翼政治結社・ゲルマン騎士団の委託を受けたルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフにより、騎士団の非公式バイエルン支部として設立された。正式名称を「トゥーレ協会・ドイツ性のための騎士団」といい、スワスチカ(ハーケンクロイツ)と剣をシンボルマークとした秘密結社であった。表向きの協会の目的はゲルマン古代の研究であったが、実際にはゲルマン騎士団員グイド・フォン・リストによって神智学を元に提唱されたアーリア主義を範として、民族主義と結びついた異教的神秘主義・人種思想・反ヴァイマル共和国的扇動、反ユダヤ的プロパガンダを広めることだった。
協会自体の会員数は1918年の時点でミュンヘンに250人、上部組織であるゲルマン騎士団のバイエルン州全体の会員数を合わせても1500人と比較的少人数であったが精神的影響力は大きく、民族主義団体の連合体「全ドイツ同盟」とも密接な関係を保っており、他の多くの国粋主義団体の母体となった。1918年7月フランツ・エーア社から大衆的新聞ミュンヒェナー・ベオバハター(ミュンヒェン観察者)を買い取り、ゼボッテンドルフが主筆となった。この新聞は1919年8月9日から全国版を発行するほどになり、名前も『フェルキッシャー・ベオバハター』(Völkischer Beobachter、「民族観察者」の意)と改めている。また、ゼボッテンドルフの弟で会員のヴァルターシュピールは自らの所有するミュンヒェンの有名ホテル「フィーア・ヤーレスツァイテン」を協会に提供し、ここが協会の活動拠点となった。
1918年11月7日のレーテ共和国宣言に際してトゥーレ協会は、ゼボッテンドルフを代表として共和国の打倒を目指す「闘争同盟」の中心となった。7人の会員がこの闘争中に共産主義者によって暗殺されたが、「フィーア・ヤーレスツァイテン」には武器が集積されてクルト・アイスナー暗殺に利用され、フライコール(義勇軍)と並んでレーテ共和国打倒に大きな役割を果たした。またヒトラーも、会員にはならなかったが1920年にこのホテルを訪れている。
レーテ共和国打倒後も協会は反ヴァイマル共和国的な思想の宣伝に努め、多くの民族主義団体設立を援助した。ナチ党の前身であるドイツ労働者党とドイツ社会党を設立したアントン・ドレクスラーとカール・ハラー、ミュンヘン大学講師で地政学者のカール・ハウスホーファーもトゥーレ協会の会員であった。また、ルドルフ・ヘス、アルフレート・ローゼンベルク、ディートリヒ・エッカート、ハンス・フランクなどの、後にナチ党で重要な役割を果たすことになる党員たちもトゥーレ協会に属していた。ナチ党の勢力が小さいうちはその拡大に与って大いに力があったが、党勢拡大以降トゥーレ協会の影響力は低下し、1937年フリーメーソンおよびその類似団体の活動が禁止された時にトゥーレ協会とゲルマン騎士団は解散した。