ハンス・フランク
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ハンス・ミヒャエル・フランク(Hans Michael Frank, 1900年5月23日 - 1946年10月16日)は、ナチ党の法律家およびナチス・ドイツの高官。ドイツ軍占領下にあるポーランドの総督を務め、「ポーランドの屠殺者」と呼ばれる。ニュルンベルク裁判で裁かれ処刑された。
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[編集] 生涯
[編集] ナチスの法律家
カールスルーエの中流カトリック教徒の家庭に生まれる。ギムナジウム卒業後の1918年に陸軍に入隊するが、前線に出ることはなかった。ミュンヘン大学在学中にナチの前身となる右翼団体トゥーレ協会に参加。キール大学やウィーン大学でも法律を学ぶ。義勇部隊で貢献し1919年にドイツ労働者党に加わり1923年にはSA隊員となった。ミュンヘン一揆に参加するが失敗し、イタリアに逃亡。翌年審理が停止されるとドイツに戻り、キール大学で法学博士号を取得。同年タイピストの女性と結婚し、五児をもうけた。1926年には国家司法試験に合格。弁護士資格を取得した後はヒトラーの個人的な法律アドバイザーとなる。
1927年にはナチス党員となるが、南チロルをめぐる姿勢でヒトラーに同意せず離党。しかしすぐに復帰している。1928年に国家社会主義法律家協会を設立。1933年までに2400の裁判でナチスとその党員の弁護を務め(うちヒトラー個人の裁判は40)、ヒトラーから党法務部の部長に任命された。1931年にはヒトラーのユダヤ人出自説を否定する特命を受けている。1930年には帝国議員に当選。1933年にはバイエルン州の法務大臣となる。さらに1933年から国家社会主義法学者協会会長およびドイツ法律アカデミー議長を務めた。各州にあった司法権は特別委員となったフランクにより中央集権化され、完全にナチスの下に置かれた。
早くも1933年にはラジオ演説でオーストリアとドイツの統合を主張して、オーストリア首相ドルフスの抗議を受けている。さらにはウィーンに乗り込んでナチスの宣伝を行ったため、国外追放処分された。1934年の「長いナイフの夜」の際は、エルンスト・レームらの法的手続きを経ない処刑を批判したとのちに主張しているが、これはフランクがのちになって言い出した虚偽である。同年、ヒトラー内閣の無任所相に任命される。その他イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニと個人的信頼関係を樹立し(フランクはイタリア語に堪能で、駐伊大使への起用も検討された)、個人的に反目していたヒトラーとムッソリーニの橋渡し役となり、独伊同盟実現やオーストリア併合に寄与した。
[編集] ポーランド総督
1939年9月26日、ヒトラーにより占領国ポーランドの総督に任命され当時39歳で赴任した。その当時のポーランドは東部領域はソビエト連邦が占領、西部領域はドイツに統合されて残された部分が中央の総督府領と呼ばれる地域だった。そこの彼の統治下には、ワルシャワも含めてポーランド全領土の4分の1、人口1200万人が置かれ、彼はSS・治安警察と密接に協力して国民の再教育、浄化に励もうとした(絶滅収容所は総督府領内にあった)。
フランクは、統治した地域を4つに分けて食料や物資の収奪を行い、ポーランド知識人の粛清も企てていた。また、ドイツ語を公用語とするように布告し、ユダヤ人のゲットーに壁をめぐらして閉じこめ(1942年12月までに、ポーランドのユダヤ人は85%までが強制収容所送り)、ユダヤ人・ポーランド人の財産を没収、ワルシャワ大学を閉鎖し、国宝級の美術品を接収している[1]。自分の執務室を豪華に飾り、ヨーゼフ・ゲッベルスに「フランクは統治(regieren)しているのではない、君臨(herrschen)している」と評された。ポーランドの労働者は強制的にドイツに送られ、戦争遂行のために使役された。またカトリック教会をナチの支配下に置くため弾圧。これにより数千人のポーランド人司祭が逮捕され、850人がダッハウ強制収容所で死亡した。フランクの統治下でポーランドの知識人の3割が殺害された。
しかし1942年になって、治安権限を強める親衛隊を批判して(自分の監督下にある)司法の独立を主張する演説を繰り返したため、ヒトラーの不興を買い、ポーランド総督府領外での演説を禁止されるに至った。失脚を悟ったフランクは総督辞任を二度申し出たが、ヒトラーにより却下されている。
[編集] 逮捕と処刑
1945年1月、ソ連軍がポーランドに迫ってくると彼はレンブラント、ダ・ヴィンチ、ルーベンスなどの美術品を持って専用列車で脱出する。1945年5月4日、バイエルンでアメリカ軍によって逮捕され、ミーズバッハの刑務所に送られたがアメリカ兵にリンチにあった(刑務所の入り口に入ろうとする彼を2列に並んだアメリカ兵が殴り続けた)。5月6日に獄中でナイフで自殺を図ったが失敗している。
ニュルンベルク裁判で、250万人のポーランド人、ユダヤ人を虐殺した責任について起訴された。自分に不利な証拠(ポーランド総督当時の執務日記)を山ほど法廷に提供し、法廷を「神意に基づく世界の法廷」と称え「ヒトラーの罪、ドイツの罪」と主張した。有罪となり1946年10月1日に死刑判決を受け16日に絞首刑が執行された。
回想録である「死に直面して」(未邦訳)を遺している。1987年に息子ニクラスは長年の調査や回想に基づいて父親の生涯を綴った評伝「Der Vater (父)」を出版したが、父親がポーランド行った犯罪行為を赤裸々に描いて話題となった。
[編集] 関連項目
[編集] 関連作品
- 『ヒトラーの子供たち』 ジェラルド・L・ポスナー(著) ほるぷ出版
- ナチ幹部の子供たちのインタビューであり、その中にハンス・フランクの子供たちも含まれている。
- Niklas Frank: Der Vater – Eine Abrechnung, mit einem Vorwort von Ralph Giordano. Bertelsmann Verlag, München 1987, ISBN 3-570-02352-4
[編集] 註
- ^ このため同じく美術品狩りを行ったヘルマン・ゲーリングと競合関係にあった。またフランクは芸術・文化の愛好家で、ピアノ演奏やオペラ鑑賞を好み、ニーチェの哲学に通じ、リヒャルト・シュトラウス、ゲアハルト・ハウプトマン、エリーザベト・シュヴァルツコップ、ヴィニフレート・ヴァーグナー、ハンス・プフィッツナーなどの芸術家を後援した。