反ユダヤ主義
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反ユダヤ主義(はんゆだやしゅぎ)はユダヤ人およびユダヤ教に対する差別思想をさす。かつてヨーロッパに流布していた反ユダヤ主義に基づく偏見は、20世紀においてナチズムによるホロコーストという最も極端な形で表れた。
※英語版の対応記事では第二次世界大戦までの反ユダヤ主義を記述し、それ以降は現代の反ユダヤ主義に記述。
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[編集] 反ユダヤ主義の背景
宗教的な差別にはかつて教会がキリスト教はユダヤ教を凌駕するものであると説き旧約聖書に無知な民衆を煽動したこと、民族的な差別には外国人・寄留者という地位であったこと、社会的な差別は近代になって多くの有能な人物や、金融業などとの関連から資本主義を生み出し、逆に社会的地位を向上させていった成功者への嫉妬、意図的なものには、教会や施政者によるスケープゴート化、反ユダヤ主義には無知に基づく偏見・歪曲さらに迷信が多く含まれた。
反ユダヤ主義者の主張には、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、排他的な思想であり、イエス・キリスト殺害の張本人であり、金融業で財を成した」などがある。選民思想とは、「選ばれた民」というだけでなく逆に唯一神を「選んだ民」でもあるが、後者の点だけであれば、キリスト教も同じであるのでキリスト教徒から難じられることも無い。ユダヤ教とユダヤ人は民族主義であると同時に、確かに普遍主義を重視する場合もある、必ずしも常に排他的とも言えない、とする意見もある。つまり、旧約聖書には、ユダヤ民族の他民族に対する最終的勝利を語る部分が少なくない、それらは古代イスラエルの比較的後代のものであるのだとし、「イスラエルの民によって、地上のすべての民が祝福に入る」と考えられる箇所もまた多い、とするのである。しかし、その祝福がイスラエルの民による支配のもとにあってのものではないのかという疑念は残る。キリスト教と比べユダヤ教には、民族性を超えた普遍宗教としての性格は劣るという主張があるが、ユダヤ人というものは「ユダヤ教」の「宗教的共同体の一員」であるという性格を強く有することを考慮に入れる必要がある。
イスラム教圏でもキリスト教国と同様の理由で差別が行われた[1]が、キリスト教圏に比してややユダヤ人の扱いは良好だった。ズィンミーとして厳しい制限付きではあるものの一定の人権を保障された彼等は、時には宮廷などで活躍することさえあった。但しキリスト教圏でもユダヤ人に対し寛大な取り扱いがなされることもあった。
現在のイスラム教圏では、イスラエルの蛮行への反発から再び反ユダヤ主義が頭をもたげているとの主張がある。
[編集] 反ユダヤ主義の歴史
ここでは主に制度的な反ユダヤ教主義を扱う。論争史については一文字下げるで示す。
[編集] 中世
- 1215年 - 第4回ラテラノ公会議
- 1348年 - ジュネーヴにて、翌年にはベルンにて黒死病(ペスト)のスケープゴートとしてユダヤ人迫害が発生[2]
- 1413年 - 1414年 - ベネディクトクス13世、カタルニアのトルトサで69回に亘る会議を開催、ナザレのイエスがメシアであることをユダヤ教徒に説得しようとしたが、失敗
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- のち公開勅書により、キリスト教徒がタルムードを研究することを禁止
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- 1453年 - オスマン帝国軍、コンスタンティノポリス占領。ユダヤ人は多く“新都市”に移住した。ここでは、ムスリムが絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。
[編集] 近世初期
[編集] 18世紀-19世紀(ユダヤ教徒「解放」の時代)
[編集] 啓蒙主義時代
- 1776年 - アメリカ独立宣言
- 1781年 - 神聖ローマ帝国(オーストリア)の啓蒙専制君主ヨーゼフ2世が宗教寛容令を発布して、ルター派、カルヴァン派、東方正教会の住民に公民権上の平等を認めた。同年、ヨーゼフ2世は農奴解放令を発布している。
- 1789年 - フランス人権宣言
- 1796年 - フランスのナポレオン・ボナパルトによるカンポ・フォルミオ条約。この条約後、ゲットーが解体された。
- 1878年 - ベルリン条約(諸宗教の平等規定を含む)
[編集] フランツ・ヨーゼフ1世の親ユダヤ政策
世紀末ウィーンを参照
- フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)の治下でオーストリア・ハンガリー帝国(1867年)が成立したが、プロイセン王国のドイツとサルデーニャ王国のイタリアに破れ、ドイツからしめ出されたかたちとなったうえにロシアとの深刻な対立をかかえていた。内には、弥縫策として成立した二重帝国の複合民族国家としての苦悩があった。ここにおいてオーストリアは、排他的なナショナリズムを掲げることができず、むしろ多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった。二重帝国のなかでドイツ人が占める割合は24%にすぎなかった。10以上の民族をかかえる帝国各地からはウィーンへの移住者があいつぎ、郊外には集合住宅が建設された。皇帝フランツ・ヨーゼフは対ユダヤ人融和策を採り、1860年代の自由主義的な風潮のなかで、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由・平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。時あたかも第二次産業革命にあたっていた。こうして、ウィーンでは、1870年に6.6%だった都市人口に占めるユダヤ人の割合が、1890年には11%にまで増大したといわれる。世紀末ウィーンの文化の担い手には、こうしたユダヤ系の人々が多かった。
[編集] ドレフュス事件
ドレフュス事件を参照
- 1894年、フランスでドレフュス事件が起きている。これは、参謀本部に勤めるユダヤ人大尉だったアルフレッド・ドレフュスに対する冤罪(スパイでっちあげ)事件である。これにより、フランス民衆のあいだに反ユダヤ主義の声がことさらに昂まり、それに衝撃を受けたテーオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家』(1896年)を著してシオニズム運動を起こした。1897年、ヘルツルの主催でバーゼルで開かれた第1回シオニスト会議にはヨーロッパのみならず、ロシア、パレスチナ、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。また、1898年、自然主義文学者エミール・ゾラは「私は弾劾する」と題するドレフュス擁護の論陣を張った。
[編集] ポグロム
- 19世紀後半の東欧ではさかんにポグロム(「破壊」を意味するロシア語)と呼ばれるユダヤ人に対する集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)がなされた。とくにベラルーシ・ウクライナ・モルドバでは、農民やコサックによる一揆の巻き添えとなった。
[編集] ルエーガーとシェーネラー
- ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーは、当時、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーからも強い影響を受けていた。ヒトラーはこの2人を「我が人生の師」と呼んでいる。
[編集] 20世紀前半(ユダヤ教徒受難の時代)
- 制作者はロシア秘密警察とほぼ推定されており、これは、当時ロシア民衆が持っていた不満をロシア皇帝からユダヤ人にそらす意図で作成された本と考えられている。1921年には英『タイムズ』紙の記者により捏造本であることが解明・報道されたが、すでにこの本を読んだ民衆は、内容を信じ込み、よりあからさまにユダヤ人の排斥運動(ポグロム)が起きるようになった。
- 1917年 - ロシア革命が起きる。
- ユダヤ人であったトロツキーはロシア革命で功績がありながら、もし彼がレーニンの後継者になると、まさにシオン賢者の議定書の予言が成就してしまう。このために彼は左遷されたとも言われる(レーニン自身もユダヤ系ではあったが)。また、ロシア革命によりシオン賢者の議定書は類似本を含め世界中に広まる。それにより、「ユダヤ人による世界征服の陰謀」の話は世界的に流行した。
- その後、シオン賢者の議定書は多くの人を引きつけ、アメリカではヘンリー・フォードが、ドイツではヒトラーが熱狂的な信奉者となった。ヒットラーはこの本が偽書であることを指摘されても「偽書かも知れないが、内容は本当だ」と擁護し、自らの反ユダヤ的態度を改めることはなかった。結果的にシオン賢者の議定書はナチス・ドイツに影響を与え、ホロコーストを引き起こすことになる。
[編集] ホロコースト後
- 1953年 - ソ連において「ユダヤ医師団陰謀事件」が発生。多数のユダヤ人が逮捕される。
- 1968年 - アダム・ラパツキ Adam Rapacki 解任
- 1979年 - ヨハネ・パウロ2世、教皇としてはじめて、アウシュヴィッツ強制収容所を訪問
- 1983年4月 - ヨハネ・パウロ2世、教皇として初めてローマの大シナゴーグを訪れる
- 2000年3月 - ミレニアム。ヨハネ・パウロ2世、聖地訪問、嘆きの壁・ヤド・ヴァシェムなどを訪問:「ユダヤ教徒は我々の兄である」キリスト教の歴史におけるユダヤ教徒への対応への反省を公式に発表。
[編集] 初期キリスト教徒・新約聖書に見る反ユダヤ主義
新約聖書に描かれたユダヤ教とユダヤ教徒像には既に偏りがあり、新約聖書に書かれているファリサイ派像は相当に偏っているとする見方がある。「キリスト教は一つの宗教としての独自性を強く打ち出そうとして、イエスの中からユダヤ的色彩を打ち消そうとした」(池田裕)とも言われる。
新約聖書やキリスト教会の伝統的理解では、「当時のファリサイ派は形式主義に陥っており、イエスはその改革運動を起こした(もっと極端な主張では「イエスは形にとらわれる愚かさを窘めた」)」、などということが当然のことのように言われてきた。しかし本当にそうなのか、それはキリスト教徒による「単純化」「一部の誇張」「合理化」ではないのか、今一度、様々な方向から検証し、疑いなおしてみる必要があるという意見もある。
ユダヤ人自体一面的ではなく、ユダヤ人キリスト教徒やヨハネス・プフェッファーコルン(ユダヤ人の反ユダヤ主義者)、西方ユダヤ人の多くの改宗者をはじめキリスト教に縁のあるものもいる。リゲティ・ジェルジはキリスト教的な歌曲を多く作っている。しかしユダヤ教徒の中には新約聖書を読むことはおろか、イエス・キリストの名を口にすることすら憚るものもいる。ユダヤ教からキリスト教への改宗者は、ユダヤ教側から捉えれば「迫害に屈した」「背教者」と見られる場合もある。またユダヤ人の中にも、ナザレのイエスという人物の歴史的意味を「自分達の目から」見直していこうとする考え方もある。
イエスと弟子は革新的ではあったがユダヤ教徒であったばかりでなく、初期キリスト教徒の大半はユダヤ人であって、イエスが主に(地理的制限もあったが)ユダヤ人に向けて宣教したことや、異邦人に布教したのがきっかけで普遍主義的な傾向を強めていったという歴史は見えてこないという意見もある。
[編集] 初期イスラム教徒・コーランに見る反ユダヤ主義
イスラム教徒の伝統的理解でも、ユダヤ教徒は『普遍的な』イスラム教に対し民族主義の枠にはまった『古い』啓示であるとされた。またコーランにはユダヤ人との戦闘の様子なども描写されており、このような衝突を通じてイスラム教徒の間にも反ユダヤ主義が広まった。但しイスラム教ではズィンミー制度を通じて征服したユダヤ人を隷属民として取り扱うことが最初期から固まっており、キリスト教圏に比してやや安定した身分を得られた。
[編集] 人種論としての「アンティセミティズム」の語源
反セム的、反セム主義(Antisemitic, antisemitisch)という語が最初に使われたのはおそらく1860年のユダヤ人学者のモーリッツ・シュタインシュナイダーによる反ユダヤ的偏見という語句においてである。彼はエルネスト・レナンの「(セム語族に属するヘブライ語を使うまたは使っていた人々としての、つまりユダヤ人という意味での)セム人の人種的特性」という考えを特徴付けるものとしてこの語句を用いた。これらの「セム人種」についての、及び彼等がいかに「アーリア人」に劣るかということについての考えは、19世紀後半のヨーロッパに一気に広まった。特にプロシアの国家主義的な歴史家であったハインリッヒ・フォン・トライチケはこの種の人種差別を煽った。
[編集] 反ユダヤ主義の広がり
ユダヤ人の迫害についても時代と地域によって大きな差がある。セファルディムのエリアス・カネッティは、オスマン帝国領であったブルガリアからドイツ語圏に移住して初めてヨーロッパのユダヤ人差別の実態を知り、「驚いた」と述べている。イスラーム教国でもユダヤ人は二等市民として厳しく差別される存在であったが、ヨーロッパに比べれば比較的自由と権利が保障されていた。
南フランスでは歴史的にユダヤ教徒追放はあったものの、フランス革命前まで南フランス文化の一部として、数々の美しいシナゴーグが建設され、また数多くのラビが誕生した。ヴィシー政権下、村ぐるみでユダヤ人を匿(かくま)った歴史も知られるところである。歴史的に見て、南フランス・ラングドックはカタリ派・ワルドー派などイル・ド・フランスの中央政府の政治とは無縁で、ユダヤ教徒を迫害の標的にする必要などなかった、ということが言われる[要出典] 。プロヴァンスの作曲家ダリウス・ミヨーは、自身を「古い歴史を持つ、ユダヤ教徒のフランス人」と改革派のような定義をしている。
インドでは、恐らく植民地時代のポルトガルによる異端審問以外はまったく迫害されたことはなかったであろう。ただエチオピアやイエメンではキリスト教徒・イスラム教徒による弾圧の歴史があった。
このように、歴史的にユダヤ人がそれほど迫害されてこなかったという報告があるのにも関わらず、一時期ユダヤ人迫害が非常に流行するのは、ロシア革命に伴って世界各国に流布された偽書「シオン賢者の議定書」によるところが大きい。世界を陰で操ろうと目論む人々(=ユダヤ人)がいるとする陰謀論は、これを認めるだけで「不愉快な社会的現象を説明」できてしまい、多くの人々を惹きつける。また、世間から隠された事実があるとするオカルト的考えも、人々にそれを知っているという優越感をくすぐる。シオン賢者の議定書は多数の類書があるが、単にお互いに参照を繰り返し話がふくらんでいるだけで、陰謀の直接的証拠は全くない。また、実際にユダヤ人が多く入会していた秘密結社フリーメーソンが陰謀に加担していたのではないかと指摘されることが多い。ナチス・ドイツがユダヤ陰謀論を受け入れ、政権維持や宣伝に積極的に利用したのも、彼らがオカルト的なものを好んでいたからでもある。また、シオン賢者の議定書が作られた当時のロシア宮廷にはラスプーチンをはじめとするオカルト主義者が多数存在していた。
このように反ユダヤ主義的思想は学術的にはあまり褒められたものではないオカルトに類する話から影響を受けていたことが多い。したがって、反ユダヤ主義を論じる時に、オカルトの部分を切り離して論じるのでは真実が見えてこないことが多々ある。
[編集] 遅れたユダヤ学
古代以来ユダヤ教・ユダヤ教徒を研究するのは主にキリスト教徒の学者であった。当然親ユダヤ的な学者も現れたが多くの研究者は常にキリスト教中心主義的な考え方に支配されており、ある一定の偏見が前提にあったといわれ、酷い偏見に満ち溢れていた場合もあった[要出典] 。キリスト教学者による書籍を読むとき偏見がないか注意する必要がある。
ユダヤ学(Jewish studies, yaades)は19世紀にドイツの大学のユダヤ教徒学生から始まったといわれる。ユダヤ学的視点とはキリスト教のみの視点からでもなくかといってユダヤ教側に閉じこもった視点でもないと思われ、第三の(scientific)視点が必要になってくるという人もいる。
キリスト教中心主義的な発想がエスノセントリズムと結びつき、反ユダヤ主義だけではなくオリエンタリズムなどの偏見をもたらしたこと、例えばアルベルト・シュバイツァー博士の活動にも二面性があること(アフリカの先住民の集団改宗)、それらの反動からクロード・レヴィ=ストロースなどの優れたユダヤ系人類学者が生まれたことなどは一考の余地がある。
ただ、解釈・正誤についてはいろいろあると思われるが、「~中心主義」の芽は旧約聖書にもあるのではないかとも思われる。
[編集] 日本人における反ユダヤ主義
1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本兵と接触した白軍兵士には全員「シオン賢者の議定書」を配布されていたことにより、日本兵は反ユダヤ主義の存在を知ることになる。シベリアから帰った久保田栄吉は1919年初めて日本にこの本を紹介した。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げたが、日本に帰ってくると酒井勝軍にこの本を紹介し訳本を出版させたり、また自らも1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。また独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触し、陸海軍のみならず外務省をも巻き込んだ「ユダヤの陰謀」の研究が行われた。しかし、陰謀の発見等の具体的成果をあげられなかった。
彼らは、満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することなどによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。結局河豚計画は失敗するが、数千人のユダヤ人が命を救われたり杉原千畝の活躍などの成果も残すこととなった。また、ゲーム会社のタイトー創業者であるロシア系ユダヤ人ミハエル・コーガンも安江らの影響で日本で活躍の場を求めるようになった。
作家山中峯太郎は少年向け雑誌少年倶楽部に1932年から1年半『大東の鉄人』という小説を連載する。この小説では、ヒーローが戦う相手は日本滅亡を画策するユダヤ人秘密結社シオン同盟とされた。山中は安江の陸軍士官学校における2年先輩であった。また、海野十三や北村小松らもユダヤ人を敵の首領とする子供向け冒険小説を書いている。太宰治もユダヤ陰謀論的内容のことを作品に書いており[要出典]、戦前、反共産主義的思想と結びついてユダヤ陰謀論は一般に広がっていた。
戦後しばらくはユダヤ問題はほとんど動きは無かったが、1986年宇野正美によって「ユダヤが解ると世界が見えてくる」(徳間書店)が出版される。この本は一大ベストセラーとなり、戦後の反ユダヤ主義の動きを決定づけることになった。この本の影響によって、オカルト雑誌「ムー」や多数出版された他の書籍において「ユダヤ人が世界を操っている」などの陰謀を説く言説が流布されていった。これらの日本の書籍は、ユダヤ陰謀論と関連づけられて語られることが多いフリーメーソン、イルミナティ、薔薇十字などの、いわゆる秘密結社と共に扱われることが多い。この動きはその後、マルコポーロ事件を始めとするホロコースト否認論に繋がっていく。
また、1981年に五島勉によって出版された『ノストラダムスの大予言III-1999年の破滅を決定する「最後の秘史」』でもユダヤ陰謀説は展開されており、この本が後年ユダヤ陰謀説の流行する下地を作っていたのではないかとする意見もある。近年では田中宇によるホロコーストへの疑義が知られている。
日本の反ユダヤ主義にはオカルト的な知的遊戯の要素が高い。例えば宇野正美らが本当にユダヤの世界支配を心配するなら、まず何よりユダヤ人の経営者の元、商業的大成功と共に強烈なバッシングも巻き起こし、またその後日本のみならず世界に大きな影響を与えた、日本のゲーム会社のタイトーに言及しなければならないはずだが、それがなく、延々外国の噂話に終始しているのが何よりの証拠である。また宇野正美が、安江らのように日ユ同祖論の本も何冊か出版し、緻密な論理構築よりも興味本位的な話題作りを重視している点もその証拠となる。
[編集] 反ユダヤ主義の誤解
日本に限っては、そもそも日本語における「ユダヤ人」という言葉が誤解を大きくしている部分がある。 英語であれば"Jew"や"Jewish"の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「~民族(人)」や「~教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「民族」では(実際にはそうでないにもかかわらず)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという印象を与えてしまう。 「ユダヤ」という宗教共同体が、共同体意識を持ちながらも2000年近く国家を持たず、定住した各地で独自の文化を育んできた事実がある。またイスラエル国内、「ユダヤ人」同士でも、「ユダヤ人」に関する定義については論争がある。アメリカに暮らすユダヤ人とイスラエルに住むユダヤ人の間でも「ガラス越しのキス」と言われるほどシオニズムなどに対する温度差がある。 日本における「ユダヤ人論」は殊更にユダヤ人の一体性を強調し、あるいは世界中の「ユダヤの共同体」の多様性を全く無視したものとなっている。
[編集] 参考文献
- ^ イスラム世界におけるユダヤ人の恐怖
- ^ 病気の社会史 p85 ISBN 4140011521
- 鈴木董『オスマン帝国』講談社、ISBN 4061490974
- ノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話―シオン賢者の議定書』 ダイナミックセラーズ
- 宇野正美『ユダヤが解ると世界が見えてくる』,『ユダヤが解ると日本が見えてくる』徳間書店
- 立山良司『揺れるユダヤ人国家』文春新書
- ジョーゼフ・W.ベンダースキー著、佐野誠・樋上千寿・関根真保・山田皓一訳『ユダヤ人の脅威―アメリカ軍の反ユダヤ主義』風行社/ ISBN 4938662604 / 2003年8月)
[編集] 関連項目
- ユーストン・マニフェスト
- イスラム恐怖症
- カール・ルエーガー
- アドルフ・ヒトラー
- 世紀末ウィーン
- ズィンミー
- リチャード・コシミズ
- イスラム教と他宗教との関係
- イスラームと反ユダヤ主義
- ナチス党
- パレスチナ問題