ファリサイ派
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ファリサイ派(ファリサイ、ヘブライ語:פרושים)は古代イスラエルの第二神殿時代(紀元前536年 - 紀元70年)後期に存在したユダヤ教内グループ。ユダヤ戦争によるエルサレム神殿の崩壊後はユダヤ教の主流派となってゆき、ラビを中心としたユダヤ教を形作っていくことになる。現代のユダヤ教の諸派もほとんどがファリサイ派に由来しているという点においても、歴史的に非常な重要なグループであったと言える。ファリサイ人、パリサイ派、パリサイ人などと表記されることもある。
[編集] 概説
ヘブライ語で「分離する」という言葉に由来するファリサイ派の源流は、元をたどればセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネス時代のヘレニズム強制政策に反発したハシディーム(敬虔派)にまでさかのぼる。ファリサイ派とサドカイ派は同じころ、ハスモン朝時代の一時期に現れたと考えられている。
フラウィウス・ヨセフスは著作の中で、ユダヤ教の四学派の一つとしてファリサイ派を挙げている(他の三つはサドカイ派、エッセネ派、熱心党)。ヨセフスがあえて不適切な「学派」という言葉を用いたのは、ギリシア哲学に親しんでいた当時の地中海世界の読者を想定していたためであった。ユダヤ戦争の終結までは、ファリサイ派も含めユダヤ教において特定のグループが主流派となることはなかった。
発生から神殿の崩壊まで、ファリサイ派は常にサドカイ派と対立していた。対立の理由はいくつかある。
- 階級対立があった。つまり、富裕層の支持が多いサドカイ派と、貧困者に支持者の多いファリサイ派、という構図があった。
- ヘレニズム文化に対して柔軟なサドカイ派と、否定的なファリサイ派の間には、文化的な対立があった。
- 祭司が多かったサドカイ派は神殿によってその権威を笠に着ていたが、ファリサイ派は民衆の中に入ってモーゼの律法の精神を生きるよう説いていた、という違いがあった。
- 聖書やそこから派生した多くの律法の解釈の違いが種々あることも対立の要因となっていた。
端的に言うなら、「神殿による権威主義的なサドカイ派」と「民衆の間にいることを目指した民主的なファリサイ派」と表現することができよう。
神殿の崩壊後、神殿に拠っていたサドカイ派は消滅したため、ファリサイ派がユダヤ教の主流派となっていった。こうして会堂に集まって聖書を読み、祈りを捧げるというファリサイ派のスタイルが、ユダヤ教そのもののスタイルとなっていった。初期キリスト教徒たちとユダヤ教主流派となったファリサイ派との間には確執があったため、福音書に表れるファリサイ派は、サドカイ派と組んでイエス・キリストの揚げ足を取ろうと狙い、殺意を抱く「悪者」として描かれている。