フランス革命
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フランス革命(フランスかくめい, 仏:Révolution française, 1789年7月14日 - 1794年7月27日:革命暦2年テルミドール9日)は、フランスで起きた革命。
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[編集] 概要
当時、フランスでは啓蒙思想家であるルソーやヴォルテールにより、平等や社会契約説が流布され、それに国民が共感したことで、当時の社会体制(アンシャン・レジーム)に対する反発が鬱積した。ブルボン朝政府、特に国王ルイ16世はこれを緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との乖離を埋めることはできなかった。
1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱が発生し、第三身分による国民議会(憲法制定国民議会)が発足、革命の進展とともに王政と封建制度は崩壊した。
革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちはこれに干渉して、反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発した。フランス国内でも、カトリック教会制度の破壊などキリスト教の迫害、ルイ16世の処刑をはじめとするギロチンの嵐、ヴァンデの反乱を始めとする内乱、ジャコバン派による恐怖政治、繰り返されるクーデター、そしてそれに伴う大量殺戮などによって混乱を極めた。革命は1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清によって転換点を迎えたが、不安定な状況は1799年のブリュメールのクーデター、あるいは1801年にフランス政府がローマ教皇とコンコルダートを結んで和解するまで継続した。
こうした混乱に決着がついたのは、フランスがアメリカの民主政治に学んだ[要出典]第三共和政からで、革命勃発より80数年を要した。
フランス革命が掲げた自由・平等・同胞愛の近代市民主義の諸原理は、その後市民社会や民主主義の土台となった。一方で、理性を絶対視し、理性に基づけばあらゆる社会の改造や暴力も正当化しうるとした点で、その後の共産主義、社会主義、全体主義の母体ともなった。
また、教会への略奪や破壊などのキリスト教の弾圧・迫害と「理性」の神の信仰や「最高存在の祭典」などから、宗教戦争としての側面もあったといえる。
なお、左派の中では、直接的に行動をおこしたのは民衆でこそあれ主に革命を主導したのは当時育成されつつあった中間層などいわゆるブルジョア階級であり、そういう意味でロシア革命などその後の共産主義革命と異なる「ブルジョア革命」ではないかという研究がなされ、左派からも否定的に見られることがある。
今日、日本を含む世界中の多くの国家がフランス革命時に掲げられた理念を取り入れているが、各国の歴史や伝統に照らして穏やかなものとなっている。他にも民法、メートル法など、フランス革命が生み出した制度や思想で、世界史上に大きな影響を残したものもある。
[編集] 革命前夜
[編集] 時代背景
18世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。プロイセンやロシアでも、絶対君主制の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとした啓蒙専制君主が現れた。
しかしフランスでは18世紀後半に至っても、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていた。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。
一方でアンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家を中心に高まっていた。自由と平等を謳ったアメリカ独立宣言もアンシャン・レジーム批判に大きな影響を与えた。
[編集] 全国三部会の召集
1780年代、フランスでは45億ルーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来の対外戦争の出費、アメリカ独立戦争への援助、宮廷の浪費である。当時の国家財政の歳入は5億ルーブルであり、歳入の9倍の赤字を抱えていた事になる。そこで当時の国王ルイ16世はテュルゴーを財務長官に任命し、財政改革を行おうとした。第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、テュルゴーは貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。しかし貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま財務長官を辞任する。
ルイ16世は次にネッケルを財務長官に任命し、第三身分の支持を取りつけ特権身分に対抗する為、1788年7月に全国三部会(各身分の代表から構成される身分制議会)の開催を約束した。翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、ヴェルサイユで開会式が行われた。国王は三部会を主導しての問題解決を目論んでいた。しかし重税に苦しむ第三身分の鬱積はすでに頂点に達しており、複雑化・多様化した国内事情ゆえ、従来の身分制では問題を解決できなかった。
三部会が始まるとすぐに議決方法で議論が紛糾した。特権階級である第一、第二身分はほぼ同じ意見を持っており、各身分に1票とする方法を主張した(第一・二身分1+1:第三身分1)。これに対し第三身分は議員1人に1票を主張した。第三身分の議員の人数が最も多いからである(一説に、第一・二身分308+290:第三身分594。このままでは第三身分のほうが若干少ないが、第一・二身分の中にはラファイエットのように第三身分に味方する者もいた)。議決方法をめぐる討議は40日間も堂々巡りを続けた。
[編集] 球戯場の誓い
詳細は球戯場の誓いを参照
議論が進まない事に愛想をつかした第三身分の代表達は、三部会に見切りをつけ、自分達だけの議会「国民議会」を発足させる。そしてヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集り、憲法を制定する事と国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しない事を誓った(球戯場の誓い・テニスコートの誓い)。ただし、ミラボーや一部の議員の中には、国王の承認なしに議会をフランスの代表とする事に懸念を示す者もいた。
第一身分、第二身分代表中にも、アンシャン・レジームに無理がある事を理解している者がおり、そうした者たちも国民議会に参加した。国民議会との軋轢を避けたいルイ16世は、国民議会を正式な議会として承認し、王の説得により他の第一身分・第二身分の議員も合流した。承認を得た国民議会は憲法制定国民議会と改称して憲法制定に着手する。内心では議会を承服しかねるルイ16世ではあったが、事態を収拾し、改革の芽を残すには止むを得ない手段であった。しかし特権貴族や王族はこれに反対し、第三身分に圧力をかけるため、軍隊をヴェルサイユとパリに集結させる事を国王に強要した。
[編集] 革命勃発
[編集] バスティーユ襲撃
国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7月11日に国民に人気のあったネッケルが罷免された。これに怒った民衆は、1789年7月14日、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃した。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。
これらの動きを受け、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を宣言し、8月26日に人権宣言を採択した。この時点ではまだ国王が主権者であったので、法律の制定には国王の承認が必要であった。しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を拒絶し、これらの宣言を承認しなかった。王妃マリー・アントワネットが、第三身分を侮蔑していたのを始め、国王の周囲は強硬派で占められていたのである。
政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめると、10月5日、パリの数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求する。一部は暴徒と化したため、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女等に連れられてパリのテュイルリー宮殿に家族と共に移り住む。これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになる。
この時期の革命は、穏健なミラボー、ラファイエットら立憲君主制派によって指導されていた。市民軍は自由主義貴族のラファイエットを総司令官に任命し、1790年、彼の提案により三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となった。
[編集] ヴァレンヌ事件
ヴァレンヌ事件を参照
革命勃発により、貴族や聖職者など特権階級の多くが国外へ亡命を始めていた。1791年、国王と民衆との仲介者であったミラボーが死ぬと、過激化する革命を嫌ったルイ16世は、マリー・アントワネットの愛人であるスウェーデン貴族フェルセンの助けを借り、王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようと企てた。
6月20日、ルイ16世一家はパリを脱出するが、国境の手前のヴァレンヌで国民に見つかり、6月25日にパリへ連れ戻される。この事件はフランス国民に衝撃を与え、同時にルイ16世の反革命思考が暴露される。革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンとがピルニッツ宣言を発表し(8月27日)、ルイ16世の地位を保証しないと戦争をしかけると脅したので、ルイ16世は国王に留まることとなった。しかし、それまでは比較的多数を占めていた国王擁護の国民からの支持を失う。
9月、正式に憲法が制定された(1791年憲法)。この憲法は君主制のもとで、平民であっても一定以上の税金を納めたものには選挙権を認めた。10月になると最初の選挙が行われ、新しい議会「立法議会」が成立した。立法議会では、立憲君主制を守ろうとする穏健勢力のフイヤン派と、国王なしの共和制を主張するジロンド派の2派が力を持った。ジロンド派は裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民(ブルジョワジー)を支持層としていた。
[編集] 革命戦争と8月10日事件
フランス革命戦争を参照
ピルニッツ宣言や王党派亡命貴族(エミグレ:移民という意味)による扇動活動は、革命政府に対する重大な脅迫であると受け止められた。ジロンド派内閣は革命維持のため対外戦争に踏み切る。1792年4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発した。しかしフランス軍の士官達は貴族階級であるので革命政府に協力的ではなく、フランス軍は各地で戦いに敗れた。マリー・アントワネットは敵方にフランス軍の作戦を漏らしていたとも伝えられる。
プロイセン軍が国境を越えてフランス領内に侵入すると政府は祖国の危機を全土に訴え、それに応じてフランス各地で組織された義勇兵達がパリに集結した。このときマルセイユの義勇兵が歌っていた歌『ラ・マルセイエーズ』は後のフランス国歌となった。パリ市民と義勇兵は、フランス軍が負ける原因は戦争に非協力的なルイ16世にあると考え、8月10日にテュイルリー宮殿を攻撃し、王権を停止して国王一家を全員タンプル塔に幽閉した(8月10日事件)。
その後、ダントンの演説をきっかけに、9月2日から反革命派狩りが行なわれ、数日間にわたる虐殺が行なわれた(九月虐殺)。
フランス軍はヴァルミーの戦い(9月20日)を期に反攻に転じ、敵軍を国境外まで押し戻した。この過程で、義勇兵に参加した多くの下層民階級(サン・キュロット)の政治的発言権が急速に増大した。サン・キュロットは急進的政策を掲げるジャコバン派を支持し、革命は極左化していった。ジャコバン派には、ロベスピエール、マラー、ダントン等が所属していた。
このときの革命戦争の開始にともなうアシニアAssignat紙幣(教会の土地などを担保とした不換紙幣)の増発(額面の57%に急落)は、のちに1794年の最高価格令廃止とともに発生した急激なインフレーションの一因となった。
[編集] 共和政の成立
9月、1年前に制定された憲法である「1791年憲法」に基づいていた立法議会が廃止された。そして財産や納税額によらず全ての男子に選挙権が与えられる普通選挙が制度化され、選挙によって新しい議会「国民公会」の議員が選ばれた。9月21日、国民公会は、王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言した。これにより「1791年憲法」はわずか1年で廃止された。
共和政府はルイ16世を革命裁判にかけた。国王が戦争の際にフランス政府と国民を裏切っていた証拠が数多く提出され、国民公会は賛成387対反対360の僅差でルイ16世の死刑を議決した。なお、死刑猶予票は26票あり、これを引くと361票となり、ルイ16世の死刑採決はかなり際どかったと言える。1793年1月21日、2万人の市民が見守る中、ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑された。10月にマリー・アントワネットも、後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中を引き回された末に処刑された。
国王に死刑票を投じた議員たちは、「国王殺し」として後に報復を受けることになる。彼らは、後の復古王政において、権力の座に復帰した王党派から仇敵として白色テロの標的とされるのである。
[編集] ジャコバン独裁
恐怖政治を参照
ルイ16世の処刑はヨーロッパ各国を震撼させ、イギリス、スペイン、サルデーニャ王国なども反革命に立たせることになった。イギリスを中心に第一次対仏大同盟が結成され、各国の軍がフランス国境を越えた。革命政府は「30万人募兵」を布告するが、これへの反発からヴァンデの反乱が発生し、王党派と結びついて拡大した。テロリズムも続発し、国内情勢は不安定になっていた。
これらの危機に加えて、ジロンド派が下層市民の食糧危機に対して何ら政策を講じない事を宣言すると、下層市民の怒りが爆発する。6月2日、下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放し、ロベスピエールが権力を掌握した。
ジャコバン派は独裁政治を開始する。公安委員会・保安委員会・革命裁判所などの機関を通して恐怖政治を実行し、反対派を次々とギロチン台に送った。さらにロベスピエールは、エベール派とダントン派を粛清して、農民に対する土地の無償分配など自己の理想とする独立小生産者による共和政の樹立を目指した。法律による保護や人身の自由、所有の権利をうたった「人権宣言」は、空文にすぎなかった。ジャコバン派は、8月23日に「国家総動員」を布告して徴兵制度を実施し軍備を整え、諸外国の干渉戦争への反撃に成功した。
[編集] テルミドール9日
テルミドールのクーデターを参照
すでに参政権を得た下層市民、無償で土地を得た農民の保守化、さらにはインフレによる生活圧迫、また恐怖政治によって自らの生命をも脅かされていた反ロベスピエール派は、密かにその打倒を計画する。1794年7月27日(フランス革命暦テルミドール9日)午前11時、国民公会に側近のサン=ジュストを伴って出席したロベスピエールは、議長デルボワや議員タリアン、ビョーヴァレンヌらによって糾弾される。
場内から「暴君を倒せ」と野次が上がる中、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求し、午後3時、ロベスピエール、クートン、サン=ジュスト、ル・バ、オーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエールの弟)らを逮捕する決議が通過した。翌28日、ロベスピエールら22人はギロチンで処刑された。
[編集] その後
ロベスピエール一派の粛清によって革命は転換点を迎えた。過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。1795年10月26日、国民公会が解散されて総裁政府が成立。そして1799年、ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立し独裁権を掌握した。
革命によって生まれたフランス第一共和政は、ナポレオンによるフランス第一帝政の開始によって10年余りの短命に終わった。さらに、ナポレオンの失脚後には革命によって崩壊したブルボン王朝が復活した(フランス復古王政)。
[編集] 革命思想・制度
[編集] キリスト教との関係
革命派には無神論者や「理性主義」者が多く、その信奉する教義・主義に既存の宗教の存在が邪魔なため、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められた。
エベールらは「理性」を神聖視し、これを神として「理性の祭典」を挙行した。ロベスピエールは、キリスト教に代わる崇拝の対象が必要と考え、「最高存在の祭典」を開催した。しかし、ロベスピエールが処刑され、一度きりに終わり定着しなかった。
その後もカトリック教会への迫害はしばらく続いたものの、1801年にナポレオンがローマ教皇とコンコルダートを結んで和解した。
なお、このような経緯を経たが、「革命は宗教を否定するものではない」とする主張もある。
[編集] 革命暦
暦法として当時から採用されていたグレゴリオ暦は1582年にローマ教皇によって制定されたものである。革命政府は、グレゴリオ暦は既存宗教(カトリック)との繋がりが深く、不合理であると考え、1793年にこれに代わるフランス革命暦を制定した。しかし革命暦は秋分を年始とするほか、10日周期の週や、1日を10時間、1時間を100分とする時間の単位など十進法を用いて合理性を追求しており、これまでの生活習慣と大きく異なるものであった。このため革命暦は不評で、ナポレオンが即位した後の1805年に廃止され、グレゴリオ暦が復活して今日に至っている。
[編集] メートル法
当時のフランスでは度量衡の不統一が大きな問題となっていた。世界で共通に使える統一された単位制度として1791年にメートル法が定められた。メートル法は定着までには時間を要したが、今日では国際単位系として世界における標準的な単位系となっている。
[編集] 貴族制について
日本において誤解として多いものに「大革命によって貴族が根絶された」というものがある。貴族達の中にも革命側に加わったものや一旦は亡命したもののナポレオン時代以後にフランスに復帰した貴族も多い。革命前の栄華こそ戻ることは無かったものの、19世紀中頃以後は彼らの多くは地主や資本家への転進を図り、今日でもフランス各界においてその子孫達は活躍している。ド・ゴールやジスカール・デスタン、ド・ビルパンは、革命以前からの貴族の家柄の出身である。
[編集] 評価
アンシャン・レジームは、この時代のヨーロッパでは特に逸脱した体制ではなかった。フランスのみならず、スペイン、ロシア、北欧、ネーデルラント、オーストリアなどでは、アンシャン・レジームは依然として存在していた。フランスが最初に体制転覆にまで至ったのは、フランス文化の昇華によってヴォルテールやルソーを輩出したことと、国民が煽動に乗ったことに大きな原因があり、王宮の浪費による財政破綻によって国民の不満が頂点に達していたから、というのは必ずしも真実とはいえない。革命直前の大蔵大臣ネッケルは、革命後に「国庫は節約すれば建て直すことも可能であった」と述べている。実際に耐え難い経済的困窮が生じたのは革命後であり、当時のGDPを正確に計る手段は存在しないが、数年のうちに財政収入が1/3減少したことから、フランスのGDPは革命前の1/3が急速に失われたと推測される。「国の財政難の状況から貴族も税金も払うべき」と主張し、国の財政難を救うために始まった革命が、革命末期には「どのようなことを手段を用いても革命を守るべき」と、革命そのものを目的とするようになった。つまり革命が手段から目的に変わってしまったことで当初の目的が失われる結果となった。
革命の結果、あくまで特権を守ろうとしていた特権階級は結局、全ての特権を失うことになったが、同時に、革命に狂奔したフランス国民もまた革命の結果、皮肉にも社会の安定と慣習による保護を剥奪されるに至った。ユートピアを求めた革命により、社会が崩壊し独裁に陥ることを、当時イギリスの国会議員であったエドマンド・バークは「フランス革命の省察」において警告し、現実はその通りとなった。
フランス革命の影響を受けて、オランダにおいてもオラニエ=ナッサウ家の専制政治に不満が高まり、フランス革命戦争期にオラニエ家がオランダから追放された事も、革命の激化に拍車をかけた。フランス革命はこうしたヨーロッパの古い体制や思想を破壊する役割を果たし、ヨーロッパ史のみならず世界史を揺るがす程の大事件であったといえる。
フランス革命は、フランス本国において当初は高い評価がなされてきたが、研究が進むにつれ否定的な意見も増加している。特に後の共産主義独裁の原形とも言うべき恐怖政治については賛否両論がある。また近年、ルイ16世の再研究と再評価が行われるようになった。ルイ16世は、財政のみにとどまらず様々な分野で改革を試み、国家の立て直しを計ってきたのであり、ルイ16世の失政のみが革命の原因であるとする意見には疑問が大きい。また、ルイ16世を啓蒙専制君主として位置づける見方もあり、ルイ16世は革命が始る前までは暗君ではなかったという説もある。 現在の欧米でのフランス革命の評価は、おおむね単なる「人民叛乱」との位置づけとなっているようである。[要出典]1989年のフランス革命200年記念式典はフランス国家主催の盛大な催しであったにもかかわらず、アメリカをはじめとする主要国は元首クラスを式典に派遣していない。
同年の先進国首脳会議における演説の中で、イギリス保守党のサッチャー首相はフランス革命について次のように述べた「人権はフランス革命から始まったのではありません。……(それは)ユダヤ教とキリスト教の混合に本当は由来しているのです。……(私たちイギリス人には)1688年に、王を制して議会がその意志を発揮した静かな革命がありました。……それはフランスのような革命ではありませんでした。……自由、平等、同胞愛、これらは義務と務めを忘れたものだと思います。そしてもちろん、同胞愛は長い間、顧みられませんでした」
かつてフランス革命を肯定的に記述する研究者はマルクス主義者が多く、その著作はマルクス史観で描写されることが多かったが、マルクス主義が衰退した現在においてはそうした傾向は影をひそめている。またロシア革命とボリシェヴィキ独裁による恐怖政治、カンボジアにおけるポル・ポトとクメール・ルージュによる大量虐殺、北朝鮮の恐怖政治など、共産主義政権による独裁体制はフランス革命における恐怖政治を発祥にしていること、テロリズムの語源がフランス革命のテロル(恐怖/体制による恐怖政治のこと)であることなどから、今日では歴史家のみならず哲学者などの多くの知識人でフランス革命に否定的な態度をとるものも多い。
[編集] フランス革命を扱った作品
- 小説
- 『二都物語』(チャールズ・ディケンズ)
- 『九十三年』(ヴィクトル・ユーゴー)
- 『神々は渇く』(アナトール・フランス)
- 『1789年 - フランス革命序論』(ジョルジュ・ルフェーブル)
- 『王妃マリー・アントワネット』(遠藤周作)
- 『紅はこべ』(バロネス・オルツィ)
- 漫画
- テレビアニメ
- 『ラ・セーヌの星』
- オペラ
- その他
- 『シュヴァリエ 〜Le Chevalier D'Eon〜』(漫画・小説・テレビアニメのメディアミックス作品)
[編集] 関連項目
- フランス革命群像(革命期に活躍した人物に関してここに収める)
- フランス革命の年表
- フランス革命戦争
- アメリカ大陸諸国の独立年表
- フランス7月革命
- フランス2月革命
- フランス革命の省察
- ナポレオン・ボナパルト