憲法制定国民議会
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憲法制定国民議会(Assemblée constituante)とは、フランス革命期に全国三部会から離脱した第三身分が中心となって形成された議会。当初は国民議会と称し、まもなく憲法制定国民議会と改称する。中世以来の身分制議会である三部会と異なり、近代議会としての性格を有する。1791年憲法を成立させると議会を解散して憲法に基づく選挙を実施し、立法議会が成立した。
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[編集] 歴史
[編集] 成立過程
全国三部会において、議決方法などをめぐる第三身分(平民)と第一・二身分(聖職者、貴族)との対立が深まった。そのため、第三身分(彼ら自身はコミューンと称した)は、1789年6月17日にアベ・シェイエスのもとで国民議会の成立を宣言した。しかし、下級聖職者らが合流に合意したほかは特権階級の支持をえることができず、国王政府も国民議会の弾圧を図った。これに対して国民議会の勢力は屈服せず、6月20日の「球戯場の誓い」などを通じて徹底抗戦の構えをとった。国民議会と国王政府の深刻な対立を懸念した国王も、国民議会を承認せざるをえなくなり、聖職者の多くと貴族の一部が国民議会に合流した。その後、国王の勧告に従って残りの勢力も国民議会に加わり、混乱は一旦収拾された。7月9日には憲法制定国民議会と改称され、憲法制定の準備を行うことになった。
[編集] フランス革命勃発
7月14日に起こったバスティーユ牢獄への襲撃により革命が勃発し、革命が各地の農村へ波及すると、領主への暴動などが各地で勃発した。この暴動によって、特権身分である貴族・聖職者の多くが亡命し、アンシャン・レジームが崩壊した。この無秩序な武力蜂起は、特権身分の権力どころか国民議会まで否定しかねないものであり、議会はこの事態の収拾に乗り出すことになった。8月11日に示された法令で封建制の廃止を定めて事態を沈静化させたが、領主裁判権をはじめとした人格的支配を否定したのみで、地代廃止などの措置はとられなかった。この封建制廃止とあわせて、8月26日にフランス人権宣言(正しくは「人間及び市民の権利の宣言」)を定められた。これによって、これまでの身分制社会の枠組みが完全に否定され、基本的人権を有し、自由かつ権利において平等な市民によって構成される市民社会の諸原則が確認された。これらの国民議会の決定は、国王政府の認めるところではなかったが、すでにアンシャン・レジームの崩壊によって国王政府の権力は限界に達しており、対抗策を打ち出すことが出来なかった。国王ルイ16世も、王妃や王弟に国王政府の権限を握られており、絶対王政はここに終わったと言える。国民議会は、こうした法令を制定して行くことで、国王政府に代わり国家の主権者としての地位を確立していった。
[編集] 経済・宗教政策
1789年11月、憲法制定国民議会はカトリック教会の財産国有化を定めた。そして、その資金を担保とする形で翌1790年よりアッシニア債券(事実上の紙幣)を発行したが、その信用は極めて低く経済の混乱を引き起こした。法的には、1790年より経済面における自由主義的な諸立法が行われ、1791年にはギルドも廃止されるなど改革の進展がみられた。聖職者に対しては、1790年7月の聖職者市民法によって聖職者の国家への忠誠を求めた。こうした政策はローマ教皇の反感を招き、革命政府とローマ教皇の対立構図を作り出した。
[編集] ヴァレンヌ逃亡事件と憲法制定
6月末にフランス国王一家がオーストリアへ逃亡を図る事件(ヴァレンヌ逃亡事件)が起こり、議会はその対応に追われることになった。革命の急進化を恐れた当時の議会多数派はこれを国王の誘拐事件であると偽ったが、このことが民衆の反発を招き、大規模な反ブルボン家・反議会運動がパリで引き起こされた。これに対して政府は武力鎮圧の挙にでて事態が収拾された。この対応をめぐり、早期に革命を収拾しようとする勢力(フイヤン派)と、より急進的な勢力へと内部での分裂が深化する。こうした中、9月3日にフランス初の憲法(1791年憲法)が可決された。この憲法はまもなく国王ルイ16世によって承認され、9月末に議会は解散された。フイヤン派にとっては、このことは革命の終了を意味していたが、革命はこれからさらに急進化していくことになる。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『世界歴史大系 フランス史2』(山川出版社)
- 『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』(中央公論社)