グレゴリオ暦
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グレゴリオ暦(グレゴリオれき)とは1582年にローマ教皇・グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦である。現行の太陽暦として世界各国で用いられる。単に新暦(英語:New Style、略称:N.S.、NS)と呼ばれる場合もある。
1年を365日とし、4年ごとに閏年をおいて366日とする。ただし、400年間に3回ほど閏年とせず平年に戻す。
日本では1872年(明治5年)に採用され、同年12月3日を1873年(明治6年)1月1日とした。
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[編集] 制定の経緯
16世紀後半、当時用いられていたユリウス暦における季節と実際の季節とのずれが顕著になっていた。このため、教会法刷新のために召集されたトリエント公会議(1545年 - 1563年)は教皇に暦法改正の業務を委託した。教皇・グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させて、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、当時の代表的な科学者であった天文学者アロイシウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれた。委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、同年10月4日(木曜日)の翌日を10月15日(金曜日)とすることを定めた。
[編集] 暦の概要
従来用いられたユリウス暦では通常の年(平年)は1年を365日とし、4年ごとに閏年をおいて366日として平均年を365.25日としていた。
- 365(日)×4(年)+1(日)=1461(日)・・・4年間の日数
- 1461(日)÷4(年)=365.25(日)・・・1年間の平均日数
しかし太陽年は約365.2422日であるため、ユリウス暦の方式では1000年ごとに約8日の誤差が生じる。これにより、比較的頻繁に補正することが必要であった。
- 365.25(日)-365.2422(日)=0.0078(日)・・・1年ごとの誤差
- 0.0078(日)×1000(年)=7.8(日)=約8(日)・・・1000年間の累積誤差
これに対して、新たに定められたグレゴリオ暦では平年は1年を365日とし、4年ごとに閏年をおいて366日とするところまではユリウス暦と変わらないものの、さらに調整を加えて平均年を365.2425日とした。この調整とは「西暦紀元(西暦)の年数が100で割り切れて、かつ400では割り切れない年は閏年としない[1]。」というルールを加えることである。これはすなわち400年間に3回、閏年とせずに平年に戻すことを意味した[2]。
- 365(日)×4(年)+1(日)=1461(日)・・・ユリウス暦による4年間の日数
- 1461(日)×100=1461(日)146100・・・ユリウス暦による400年間の日数
- 146100(日)-3(日)=146097(日)・・・グレゴリオ暦における調整を経た400年間の日数
- 146097(日)÷400(年)=365.2425(日)・・・1年間の平均日数
この調整により平均年を365.2425日とし、3300年に約1日の誤差とした。
- 365.2425(日)-365.2422(日)=0.0003(日)・・・1年ごとの誤差
- 0.0003(日)×3300(年)=0.99(日)=約1(日)・・・3300年間の累積誤差
この365.2425日という値を算出したのはコペルニクスである。もっとも、主要な天文学者が各々に算出した1年の長さ(もちろんその中にはコペルニクスも含む)の平均値がとられ、結果としてコペルニクスの値に近くなったという説もある。
平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数はグレゴリオ暦もユリウス暦で用いられていたものと同じである。したがって1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月は31日間、4月、6月、9月、11月は30日間として、2月は平年が28日間、閏年には29日間とした。
[編集] グレゴリオ暦の各国における導入
ユリウス暦と実際の太陽年とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年間ものあいだ顧みられず、宗教的な問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し、新たにグレゴリオ暦を制定した後もローマ教皇による発令だったためか、その導入には各国で大きな隔たりがあった。
ヨーロッパ圏内であってもカトリックの国は比較的早く導入した一方で、そうでない国では導入までに少なくとも100年以上かかった。
特に正教会の地域である東欧ではより長い時間がかかった。コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認した。コンスタンディヌーポリ教会は1923年までグレゴリオ暦を採用せず[3]、今でもエルサレム総主教庁およびロシア正教会はユリウス暦を使用し、また全正教会が復活祭の算出にユリウス暦を使用する[4]。ただし、ロシアでも世俗の領域ではグレゴリオ暦を採用している。従ってユリウス暦12月25日の降誕祭は、ロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。
プロテスタント諸国については、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった理由のひとつに、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったのである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を元に祭日を決めることに問題があることはプロテスタントの宗教家もよく知っていた。このためグレゴリオ暦は非カトリック国にも徐々にだが浸透した。ドイツのプロテスタント諸国は日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良暦と呼ばれた。しかしケプラーはグレゴリオ暦の方がすぐれていることを知っていたため、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、周辺プロテスタント諸国もこれに追随した。
[編集] 日本におけるグレゴリオ暦導入
日本では1872年(明治5年)に、従来の太陽太陰暦を廃して翌1873年から太陽暦を採用することが布告された。この『明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告』では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年(1872年)12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった(明治改暦・明治の改暦)。
この布告は年も押し詰まった明治5年の11月9日に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権を持つ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は例年、10月1日に翌年の暦の販売を始める。改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を受けることになった。一方、太陽暦改暦を唱えていた福沢諭吉は改暦決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に慶應義塾から刊行されたこの書は大いに売れて、6年後に松田道之に充てた福沢の書簡にはこの出来事を回想して忽ち10万部が売れたと記している。
これほど急な新暦導入は当時の政府の財政状況が逼迫していたことによる。大隈重信の回顧録(『大隈伯昔日譚』)によれば、すなわち旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13ヶ月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12ヶ月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかなかいので、11ヶ月分しか給料を支給せずにすませられる。
しかし、施行まで1ヶ月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、この布告には置閏法に不備があった。すなわちグレゴリオ暦の重要な要素である「西暦の年数が100で割り切れ、400で割り切れない年を閏年としない」旨の規定が欠落していたのである。このままでは解釈次第では導入された新しい太陽暦はグレゴリオ暦ではなく、「ユリウス暦と同じ閏年の置き方を採用した日本独自の暦[5]」ともされてしまう。また、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」の文面もおかしく、上記に述べたようにグレゴリオ暦で1日の誤差が蓄積されるには3,300年しか要さない(これは「遠西観象図説」の誤りと考えられる)。
そこで1898年(明治31年)5月11日に改めて(明治31年勅令第90号『閏年ニ關スル件』)を出して、グレゴリオ暦に合わせた閏年に関する調整を定めた。
- 閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)
- 神武天皇卽位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
この勅令では皇紀(神武天皇即位紀元)を用いて閏年と平年とを求めているが、西暦を用いたグレゴリオ暦の採用と大差はない。勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年(西暦1900年、明治33年)が1年半後に迫っていた。
[編集] グレゴリオ暦導入の経緯
- 明治5年10月1日 例年通り、弘暦者(頒暦商社)により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。
- 明治5年11月9日 太政官布告第337号が発布、突如として明治5年は12月2日で終了すると通達される。
- 明治5年11月27日 太政官布達により「当十二月ノ分ハ、朔日・二日・別段給与ヲ賜ハラズ」と、12月分の給与未支給が通告される。
- 明治5年12月2日 天保暦が廃止。
- 明治5年12月3日(旧暦)・明治6年1月1日(新暦) 太陽暦への改暦(明治改暦)。
- 明治6年1月12日 頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。
- 明治8年1月12日 頒暦商社の暦販売権を明治15年まで延長する。
- 明治16年 本暦と略本暦が伊勢神宮より頒布される。
- 明治31年5月11日 明治5年の改暦における置閏法の問題(明治33年がグレゴリオ暦と異なり閏年となる)を修正した勅令第90号が発布される。
[編集] 各国のグレゴリオ暦導入年月日
- 1582年10月15日 - イタリア、スペイン(ポルトガルを含む)、ポーランド王国
- 1582年12月20日 - フランス王国 後に中断(フランス共和暦)
- 1583年1月1日 - ベルギー、オランダの一部地域
- 1583年から1587年まで - ドイツ、スイス、ハンガリーのカトリック諸都市
- 1700年3月1日 - ドイツのプロテスタント諸都市、デンマーク
- 1752年9月14日 - イギリス帝国(後のアメリカ合衆国など当時の植民地全て)
- 1753年3月1日 - スウェーデン
- 1867年10月18日 - アラスカ(日付変更線がアラスカの東側から西側に移動されたため、金曜日が2回連続して繰り返された)
- 1873年(明治6年)1月1日 - 大日本帝国
- 1896年(建陽元年)1月1日 - 李氏朝鮮
- 1912年(民国1年)1月1日 - 中華民国(建国とともに採用、同年2月12日の清朝滅亡とともに国内全域で正式な暦となる)
- 1918年2月14日 - ロシア
- 1923年3月1日 - ギリシャ
[編集] 脚注
- ^ 例えば西暦2000年や西暦2400年は4で割り切れ、100で割り切れ、400で割り切れる。したがって西暦2000年や西暦2400年は閏年となる。これに対して西暦1900年や西暦2100年は4で割り切れ、100で割り切れるものの400では割り切れない。したがって西暦1900年や西暦2100年は平年となる。
- ^ 365.2425日のうち、1日に満たない端数は0.2425。これを分数で表すと400分の97。したがって、400年間に閏日を97日入れれば、1年ごとの平均日数は365.2425日となる。例えば西暦2000年から2399年までの400年間に、4で割り切れるにもかかわらず閏年とならない年は西暦2100年、2200年、2300年の3回。西暦2000年は400で割り切れるため、閏年となる。
- ^ ロシアにおいて1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、当時のロシアで採用されていた暦に従ったためである。ロシアで最も強い影響力を持つロシア正教会は正教会に属する。
- ^ ただしこれはユダヤ教の祭日が決まったあとでキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従うためで、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。
- ^ 日付が12日ずれているため、ユリウス暦そのものではない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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