2月革命 (1917年)
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2月革命(2がつかくめい;ロシア語:Февральская революция)は、第一次世界大戦中のロシアで1917年に発生した革命運動である。ロマノフ王朝による帝政が崩壊し、数年間の革命と内戦を経てソヴィエト連邦の設立につながった。
この当時のロシアでは、現在一般的に用いられているグレゴリオ暦とは異なるユリウス暦が採用されており、暦上13日の遅れが存在する。この時の革命はグレゴリオ暦によると3月革命となるが、以下では2月革命に統一する。日付についても旧暦を用いている。
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[編集] 背景
サラエボ事件をきっかけに1914年に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパの大国を巻き込み各国の総力戦へと突入していた。セルビアとの相互条約によりオーストリアとドイツに宣戦布告したロシア帝国はオーストリア方面での緒戦に勝利したものの、対ドイツ戦では1914年のタンネンベルクの戦いおよび翌年のゴルリッツの戦いを始めとして敗北が続き、国内では長く苦しい戦時生活に対する不満の念が高まっていた。ツァーリに対する農民の尊敬は変わる事がなかったが、ラスプーチンが影響力を保持するドイツ出身のアレクサンドラ皇后へは表立った中傷がおこなわれるなど、国内の不安定要因が見え隠れしていた。
[編集] 革命の勃発
国際婦人デーであった1917年2月23日(グレゴリオ暦3月8日)、ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で、食料配給の改善を求めるデモが行われた。このデモは数万人規模にまで拡大したものの、始めのうちは穏健なものであり、首都の治安を担当するハバーロフ将軍も警官隊と騎兵隊の投入で十分であろうと考えていた。しかしデモの規模は更に拡大し、市内の労働者の大半が参加するようになった。首相のニコライ・ゴリツィンは事態の収束をあきらめ、前線のニコライ2世に辞任を申し出たが、ツァーリはこれを拒否し、ハバーロフに対してデモを鎮圧するよう命令した。26日、市内中心部のネフスキー大通りのデモに警官隊が発砲、市民に多数の死傷者がでた。
この事件に対し、パブロフスキー連隊に所属する兵の一部が反乱を開始した。市内に駐留する他の連隊では反乱兵の鎮圧と、労働者側への参加で混乱していた。ドゥーマ議長ミハイル・ロジャンコは大本営にいる皇帝に向け、首都が無秩序状態にあること、速やかに新たな内閣を組織し、民衆の不満を静めるよう要請した。この連絡を受けたニコライ2世はイヴァーノフ将軍に対し数個連隊を首都へと差し向け反乱を鎮圧するように命じた。
翌日になると他の連隊の帰趨も決定されていた。ボリンスキー連隊では兵士が下士官を射殺し、街へ逃走し初めた。夕方までにさらに他の連隊が反乱に加わり、反乱兵の規模は数万人に達していた。トロツキーのロシア革命史によると、蜂起に参加しなかったのは、その暇がなかった部隊だけであった、とある。反乱兵と労働者は内務省、軍司令部、警備隊司令部、警察、兵器庫などを襲撃し、武器を手に入れていた。ハバーロフ将軍は海軍本部の建物に篭城を試みたが、兵の脱走は止まらず、部隊はすぐに解散した。27日にはモスクワで、3月初めには他の都市でも革命が始まり、軍の部隊もそれに同調しつつあった。
[編集] ソヴィエトの結成
国会の解散を皇帝に命じられた議長ロジャンコは、これらの混乱を見て国会議員12名からなる臨時委員会を設置した。皇帝への忠誠にも関わらず、ロジャンコは翌日早朝委員会をもって政権を掌握するこを決定し、各部署の接収を開始した。
この頃、メンシェヴィキに所属する議員や労働者代表などにより、1905年と同様なソヴィエトの結成が呼びかけられていた。同日夜の会議でメンシェヴィキのニコライ・チヘイゼが議長に、当時革命派議員の有力者と目されていた社会革命党の国会議員ケレンスキーを副議長にしてペテルブルクのソヴィエトが結成された。同時に選出された執行委員15人の内急進的な革命を唱えるボリシェヴィキは2名のみであった。