キリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キリスト教(キリストきょう、基督教)は、ナザレのイエスを救世主イエス・キリスト(メシア)と信じ、『旧約聖書』に加えて、イエスや使徒たちの言行を記した『新約聖書』を基準とし、隣人愛・愛(アガペー)を説く伝統的世界宗教である[1]。世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い[2]。
目次 |
[編集] 教派と信徒数
[編集] 教派
詳細はキリスト教諸教派の一覧を参照
キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている[3]。
[編集] 信徒数
世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、1993年の集計で約21億人(うち、カトリック10億人、プロテスタント諸派計5億人、正教会2.4億人、その他教派2.75億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。例えばフランスでは9割以上が信者であるが、積極的に信仰実践しているもの(教えを守る、教会に行く)は7割であるといわれる。
日本国内に限ればキリスト教の信徒数は約200万人程度と言われ、神道約1億600万人あるいは仏教約9,600万人という数字に比すと少数派に留まり、G8の中で非キリスト教国は日本だけである。周辺アジア諸国をみると、韓国は第二次世界大戦後に福音派のリバイバル運動でキリスト教徒の数が急増し、仏教徒25%に対して、プロテスタント20%・カトリック7.4%となっている[4]。フィリピンは、カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている[5]。その一方で、ベトナムは仏教徒が80%[6]であり、中国は公式統計は不明なものの仏教・道教の信徒が多数派とみられ、キリスト教の信徒数は極めて少ないと推定される。韓国・フィリピンを除けばアジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいすれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派である。
20世紀後半以降の日本はクリスマスやバレンタインデーのように年中行事として、或いはキリスト教会での結婚式の選択やキリスト教系ミッションスク-ル人気などの形で純粋な信仰とは別にキリスト教の文化・行事が国民の間に浸透しつつある[7]。
[編集] 様々な分類
また、信仰形態に着目した分類として、次のような区分が用いられることもある。
- 民衆キリスト教 - スペイン、フランス、イタリア、中南米などの田舎で信仰される、カトリックとローマ帝国以前の多神教信仰の習合形
- 土着キリスト教 - 上記「民衆キリスト教」と似ているが、中南米の非白人から信仰されている擬似キリスト教
[編集] 教義
キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。正統教義では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とする[8]。アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
キリスト教の正統教義を最も簡潔に述べているものが信条(信経)である[9][10]。もっとも重要なものとしてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。 信条は教会内に存在した異端を否定するために成立した経緯があり[11]、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。これら信条は現在のキリスト教の主流派のほとんどの教派が共有する[12]。
[編集] 信条
以下に、ニカイア・コンスタンティノポリス信条によるキリスト教の基本教義を示す。
- 神は三位一体である。
- 父は天地の創造主である。
- 子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
- キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
- キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。キリストは自らの死によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
- キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
- 聖霊も神(=人格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子両者から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
- 教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
- 洗礼(バプテスマ)による罪の赦し。神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦す。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。
- 死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体(聖体)と血に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子両者から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
[編集] 異端
上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認する教派(セクト)は、多数派から「異端」と呼ばれることもある(自称することはない)。
多数派が異端視し、排斥する教派には、「神概念を多神論的に解釈する」、「キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない」、「聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とする」、「キリストを被造物とする」[13]、「キリストの十字架(贖罪死)と復活を認めない」、などの特徴がある。また、『聖書』と併用して『モルモン書』を信じるモルモン教(正式名称は末日聖徒イエス・キリスト教会)も、プロテスタントにおいては異端視されているようだ。
モルモン教についてはモルモン教を参照
歴史的には、異端と正統の違いは、視点の違いが含まれていた点にも留意されたい。
[編集] ユダヤ教・イスラム教との関係
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教(イスラーム)は類縁関係を強調されることがある。唯一神信仰を持ち、聖典の一部を共有しているからである。
キリスト教はユダヤ教の一宗派として誕生している。『福音書』や『使徒言行録』に描かれているとおり、ナザレのイエス自身もその弟子達も皆がユダヤ人でユダヤ教徒であり、エルサレム神殿で礼拝を行い、その宣教活動も主にユダヤ人を対象としたものだった。当時のユダヤ教には多くの立場が存在し、神殿祭儀を中心にしていたサドカイ派、禁欲主義のエッセネ派、在俗の律法主義を担ったパリサイ派などが活動しており[14]、イエスの信奉者達の集団もそうした一宗派と見なされた。今日、彼らはパリサイ派のヒレル学派と似た立場にあったと考えられているが、それはキリスト教の特徴とされる博愛と慈愛の強調や、ナザレのイエスが示した律法の尊重はヒレル学派の特徴でもあったからである[15][16]。とはいえ、イエスの死後のかなり早い時期にステファノがエルサレムで論争の末に殺害されたことなど[17]、ユダヤ教主流派とイエス信奉者たちとの軋轢は存在した。正統的なユダヤ教の教義からは、ナザレのイエスという男が神の子であったというイエス信奉者たちの見解は容認しがたいものだったのである。
1世紀頃のローマ帝国内におけるユダヤ人は、全人口の1割程度を占めていたという推定があるほどに、ユダヤ属州外でもユダヤ人は勢力を誇っていた。そして、ユダヤ教の信仰生活に興味を示してユダヤ教に改宗する異邦人も多かっただろうとされている[18]。しかし、こうした異邦人への宣教活動はキリスト教で盛んとなり、ユダヤ教をはるかに上回る異邦人改宗者をキリスト教は獲得することになる[19]。『使徒言行録』に記されたように、キリスト教は改宗者への割礼を強制しなくなり、厳しい食物規制も緩め[20]、それがギリシャ語圏の人間も改宗しやすくさせたものと考えられている[21]。
そしてユダヤ教は神殿崩壊後の1世紀末にヨハナン・ベン・ザッカイの指導の下、神殿中心の体制を放棄して各地のシナゴーグを中心としたコミュニティに重きを置く体制に移行し[22]、世界宗教への指向を放棄して民族主義宗教の中に戻っていった[23][24]。こうしたユダヤ教再編の中で80年代にはキリスト教はユダヤ教から正式に閉め出され[25]、またキリスト教側もユダヤ人からの入信者が激減して異邦人入信者が多数を占めることで、ユダヤ教から離脱していくのである[26]。また、ヘレニズム思想と最終的に折り合うことができなかったユダヤ教とは異なり、キリスト教はそれに成功してローマ・ヘレニズム文化の中で独自の思想を発展させた[27]。しかし、ユダヤ教の聖典はそのままキリスト教にも用いられて『旧約聖書』となり、ユダヤ教の典礼や習慣の多くがそのままキリスト教に引き継がれた。
イスラームはユダヤ教やキリスト教の影響を受けて成立した。イスラームはこの2つの先行宗教を共通の始祖アブラハムを戴くアブラハムの宗教であり、信徒は唯一神から啓示を受けて聖典を授かった啓典の民であるとして、根本的にはイスラームと異ならないものとしていた。イスラームによれば、モーセなどの旧約の預言者も、イエスもアッラーフの預言者なのである[28]。そして、アッラーフはユダヤ人やキリスト教徒に対してそれぞれに『聖書』を与え、アラビア人には『クルアーン』が与えられたのだとしている[29]。
しかし、ムハンマドが口述する『クルアーン』にはユダヤ教とキリスト教に関する誤解が多く含まれており、メディナのユダヤ教徒はこれを嘲笑したという[30][31]。政治的にもユダヤ教とイスラームは対立するようになり、624年にはそれまでエルサレムに向かって行っていた礼拝(キブラ)がメッカに向かって行われ始め、ユダヤ教から独立した宗教を形成していくことになる[32][33]。続いて、イスラームはキリスト教とも対立関係に入り、それ以降に口述された『クルアーン』にはユダヤ教とキリスト教に対する罵倒が頻繁に登場するようになる[34]。
この後の長い歴史の中でキリスト教とイスラーム教とユダヤ教と霊的共有財産を意識しつつも競合関係にある。これらの宗教間競合関係は、現代の世界各地の政治や社会問題にも強い影響を与えている。
[編集] 組織
[編集] 職制
信者は、古代教会に直接連なる教会では、平信徒と聖職者に分かれる。聖職者は、輔祭(助祭)・司祭・主教(司教)の三階級に大別される。大司教、枢機卿、教皇等の区別は、教会の組織的発展の結果、教会行政的必要性から、主教職が細分されたものである。一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、聖職者を設けず、信徒のなかから教職として牧師をおくものが多い。教職の他に教会政治(管理)に長老、監督といった役職を置く事もある。
伝統的な教会においては、女性は聖職者になることができない[35]が、プロテスタントでは女性教職は珍しくない[36]。現代では教派によらず、聖職・教職に就くには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが一般的である。
一部の教派では神に生涯を捧げる信者がいる。これを修道者という。修道者は必ずしも聖職者ではなく、多くは平信徒である。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリックにおいては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリックでは、修道士・修道女はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道者となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来たもののみが修道生活に入る。準備段階、またまれに修道者となった後で、世俗の生活に戻るものもある。
[編集] 教会
一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会員制という。欧米では洗礼記録により、必要に応じて信者であることの証明(洗礼証明書)を受けることが出来る。日本の教会では教会籍という制度で、洗礼による教会員の新規入会、転会、死去などを記録、管理する例が多い[37]。
教会員の多くは、居住地近隣の教会に所属するが、自宅からもっとも近くの教会に属す義務があるわけではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では信者が10人前後の場合もある。
複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。カトリック・正教会・聖公会など監督制教会の場合、教区の中心となるのは、主教(司教)座聖堂である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけで一教派をなすものを単立教会という。単立教会は原理的にプロテスタントである。教義の近い単立教会が連合した協力組織も存在する。
信徒が自分の籍を置いていない教会の礼拝に参加することは、同じ教派の教会でなくても、まったく問題はない。また転居などに伴い、同一教派の教会から他の教会に移籍すること(転会)も必要に応じて行われる。これに対して、所属教派自体を変えることは、場合によっては宗教を変える(改宗)に等しいインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多くは単に転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものも有効と認めるが、他の秘跡については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。
[編集] キリスト教徒の生活
キリスト教徒も参照
本項ではキリスト教徒の生活について解説する[38]。 キリスト教の信者をキリスト教徒またはクリスチャン(ハリスティアニン)という。『使徒行伝』によると、この呼称は1世紀半ばにアンティオキアで初めて用いられた。原義はキリスト支持者というほどの意味である[39]。日本ではかつて「キリシタン」と呼ばれた[40]。
多様化する現代のキリスト教世界において、キリスト教信者の一般的な生活を描くことは、それが細部に及べば及ぶほど、困難である。以下の記述は最大公約数を述べたものであって、これに当てはまらないキリスト教徒も一定数いる。
クリスチャンの範囲については、伝統的には洗礼を受けたもののみを信者とみなしているが、最近では特に自由主義神学といわれるキリスト教徒のなかに、(少数ではあるが)キリストを信じているものは洗礼の有無によらずクリスチャンであると主張するものもいる[41]。またプロテスタントのなかには洗礼を行わない教派もある。
将来的に洗礼を受けることを前提に、教会と交わる者を求道者(きゅうどうしゃ、カトリックおよびプロテスタントの用語)、啓蒙者(正教会の用語) などという。洗礼を受けるための条件やその式次第などは、教派によって異なる。詳しくは、洗礼の項を参照。
信者が行う祈祷行為のうち、司祭や牧師らにより執行される公のものを公祈祷・典礼・奉神礼等という。信者でないものも列席することができるが、聖餐には与ることが出来ないのが一般的である。ほとんどの教派では定期的な公の礼拝を行う。公の礼拝は形式があらかじめ定められていることが一般的である。典型的な形を示すと、祈祷・聖書の朗読・聖体ないし聖餐にかかわる儀式がなされ、また司祭や牧師らによる説教が行われる。ここでの祈祷はしばしば歌唱を伴った聖歌や賛美歌のかたちで行われる。席上、信者からの献金が集められることが普通であるが、献金は義務ではない。聖餐のあと、短い祈りがあり、終了が告げられて礼拝が終わる。礼拝全体の時間は、教派によって異なるが、1時間から2時間ほどである。ほとんどの教派は日曜日を重視し、これを主日と呼んで共同の礼拝を行うが、少数ながら土曜日を公の礼拝の日とする教派も存在する。詳しくは、祈祷・典礼・奉神礼の項を参照。
信者となったものは、それぞれの教派の聖餐に与ることができる。パンとぶどう酒がキリストのまことの肉と血になるという聖体の教義をもつ教派では、これを、ミサ、聖体礼儀と呼ぶ。他教派の類似の儀式に参加を許されるかどうか、また自教派が特定他教派の類似の儀式に参加を許すかどうかは、それぞれの教派によって考え方を異にする。またプロテスタントの教会のなかには、洗礼を受けていないものにも聖餐への参加を許すものがある。
最初期の教会では、ミサ(聖体礼儀)などの礼拝行為への参加、定期的な断食などの義務があった。これと歴史的に連なる伝統的な諸教派では、信者に、年に決まった数以上の聖体拝領・断食・告悔(痛悔)の義務などの信仰実践が教会法によって義務付けられている。その一方で、現代は各教派とも、あまりこうしたことを強調しない傾向がある。それぞれの教派ごとに課せられる信仰実践の義務と恩沢については、秘跡および各教派ごとの記事を参照されたい。
公の礼拝行為のほかに、ほとんどの教派では、私的な祈りを共同で行う会や勉強会などを開いている。こうした会合はあまり大々的に宣伝されることがないが、たいていの場合、信者以外でも参加することが出来る。宿泊を伴うものもある。修道院をもつ教派では、教会のほか、修道院でも修道会に所属しない一般信者を対象にそうした集まりを主宰することがある。
信者は所属する教会を中心に、年齢別・性別の任意団体に加わることができる。児童たちは一般の礼拝と別に開かれる日曜学校(教会学校)に参加して簡単な教義を教えられ[42]、青年会、婦人会や壮年会が分担して施設の清掃・維持・修繕、典礼の補助、教会の運営、他教会との交流行事などを行っている[43]。多くの教会では、こうした団体への参加は義務ではない。
また、教義上の義務ではないが、キリスト教は、隣人や貧者への善行を伝統的に奨励しており[44]、このため病人や旅行者あるいは貧者を対象とするキリスト教関係者の慈善活動は古来より盛んに行われた。現在慈善の意でもっぱら使われる「チャリティー」はラテン語で愛(ギ・アガペー)を意味するカリタスが英語化したものである。このような流れは、現代における社会福祉活動にも少なからず繋がっている。
[編集] 近世までのキリスト教の歴史
詳細はキリスト教の歴史を参照
紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。
ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウスによりローマ帝国の国教とされ、キリスト教以外の他宗教(ミトラ教など)を圧倒するに到った。
キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。ただし教会歴史学者の多くは、第1回から第3回までを「異端の糾弾」として捉えて、第4回と第5回のみを「分裂」としてみている。しかしこの捉え方は、中世以降に多数派となったカトリックや正教会が自己の正統性を主張する観点に立ったもので、わずかな信徒数を残すのみとなったネストリウス派ならびに単性論教会、そして完全に消滅したアリウス派を「異端」として一方的に蔑視しており、中立的な歴史観ではない。
[編集] アリウス派とアタナシウス派
最初(1回目)の分裂は4世紀半ばのアリウス派とアタナシウス派の分裂である。厳格な一神教論(唯一神教)に基づいて創造神である聖父のみ唯一神(イザヤ書43章10節)として神性を認めて被造物キリストの人性を主張したアリウス派は、神学・教義も強固だったうえ、最初のローマ皇帝の入信(コンスタンティヌス1世の受洗)やゲルマン人に多くの信徒を得るなど歴史的な意義も大きかった。しかし、西暦325年の第1ニカイア公会議で三位一体論に基づいたアタナシウス派の聖子キリストの両性(神性・人性)が正統教義とされ、アリウス派は異端とされた。その後もガリア地方などでゲルマン人の信徒を拡大して一時的に教勢は増したものの、やがてローマ教皇下でアタナシウス派が積極的な布教活動に出て、中世までにはゲルマン人がアリウス派からアタナシウス派(中世以降のローマ・カトリック教会)に改宗していったため、今日ではアリウス派の教会・信徒は、もはや消滅している。
[編集] ネストリウス派
2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派の離脱である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。431年のエフェソス公会議でキリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされ、ネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで多くの信徒を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国にも伝道した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア東方教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。
[編集] 非カルケドン派(単性論教会)
3回目の分裂は、東方教会におけるエジプトやシリアの教会といった非カルケドン派(東方諸教会、いわゆる単性論教会)の離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され一つの神性を持つという単性論は、451年のカルケドン公会議で異端とされた。但し、これらの教会は自らの教義を「単性論」とみなす事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明した為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。現在、非カルケドン派諸教会にはアルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会等がある。
[編集] 東西教会の分裂
4回目の分裂は、東西教会の分裂(大シスマ)である[45]。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ全地総主教が相互破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。西方教会側からは分裂の主な要因を政治的・文化的な問題、つまり西ローマ帝国崩壊後に神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国に独立・挑戦したこととみなす傾向が強いが、東方教会側は教皇首位説などについての教義的な要因を主なものと看做す傾向が強い。但し、1054年の「相互破門」は20世紀になって両教会から相互に解かれているが、分裂の解消にまでは至っていない。
詳細は東西教会の分裂を参照
[編集] カトリックとプロテスタント(宗教改革)
5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。
これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア東方教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、非カルケドン派であるエジプトのコプト正教会・その姉妹教会エチオピア正教会・シリアのシリア正教会(ヤコブ派)・コーカサス地方のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。
[編集] キリスト教発展の理由
ユダヤ教内の一分派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度上手く適応していった。
まず、『使徒言行録』の中にも描かれているように、キリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部にいる異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。
当時のヘレニズム・ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、プリュギア起源のアッティス教、ペルシア起源のミトラ教、あるいはギリシア起源のディオニュソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教の要素も取り入れて広がったと考えられている[46]。
キリスト教は皇帝崇拝を拒否したことでローマ帝国内で迫害されたが、こうした競合宗教から抜きん出た発展を遂げて国教化される。これについては、キリスト教化された後の護教論的説明かもしれないが、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることにキリスト教が成功したからだと説明されている[47]。また、いったん公認されていたキリスト教の特権を破棄したことで有名な「背教者」ユリアヌス帝も、キリスト教徒は救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている[48]。
ただし、寡婦・孤児の救済や、戦時下での敵味方の区別なしに負傷者へ医療活動を施すことはむしろ中世のイスラム世界でも見られたもの(サダカ)であり、十字軍の時代に西方キリスト教徒と中東イスラム教徒との接触を経て、西方キリスト教世界にも広がって近代社会でのフィランソロフィー(慈善活動)の基盤へと発展していった。
西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)に関与し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。
しかしながら、西方キリスト世界の学問の水準は、ギリシアを中心とした東ローマ帝国の水準と比較すれば遥かに劣ったものであり、西方教会の支配下で中世のヨーロッパはむしろ暗黒時代にあった。十字軍の時代になってイスラム世界と接触したり、東ローマ帝国滅亡前後にイタリア半島へ亡命したギリシア人と交流することで、アリストテレスをはじめとする古代ギリシアの学問や、当時は最も先進的だった中東地域の科学技術文明(数学、化学、天文学、航海術など)を輸入することができ、これによってヨーロッパはルネッサンスを経て近代化へと歩み出すことが可能になった。
東方においては、キリスト教は中東・アフリカではイスラームに押されて衰退したものの、東ローマ帝国内では正教会が修道院を西方より早く発展させ、修道院は奉神礼を整備・発展させた。また古典文化もマケドニア朝ルネサンス・パレオロゴス朝ルネサンスにみられるように保存され、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。
近代になると、西欧諸国はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの各地を侵略して植民地化を推進し、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事支配力や科学技術力、その他を背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が政教両面での支配が図られた。しかしながら、イスラム教や仏教、ヒンドゥー教など高度に体系化された宗教が浸透していた地域では,キリスト教への改宗は小規模にとどまることが殆どだった。
[編集] 近現代におけるキリスト教の展開
宗教改革後の啓蒙時代に入ると、神による啓示を基礎に置いた従来のキリスト教のあり方に疑問が出されるようになる。人格神を否定する理神論から始まり、啓蒙期以降は神を論じることの無意味さを説いた不可知論、汎神論、あるいは無神論など、それまでのキリスト教神学に収まりきらない思想が展開される。そして、フランス革命などの市民革命によって西ヨーロッパ社会が大きく脱教会化され、民衆のキリスト教離れが進行した。マルクスは「聖書は神聖だが、宗教はアヘン」とする共産主義を標榜し、原始キリスト教と同様の共有を理想に掲げ、キリスト教と競合する社会運動として現れる。キリスト教が社会に対してその影響力を大きく減じていくことになる中で、各宗派がいかに展開してきたかを以下に概観する。
[編集] カトリック教会の展開
カトリックでは宗教改革に対抗する形で組織強化が行われ(対抗改革)、イエズス会やフランシスコ会などが尖兵となって海外宣教などを積極的に展開した。しかし、世俗社会への影響力は近代を通じて確実に減じて行ったのが実情である。ローマ教皇領はナポレオン1世によって没収され、ウィーン会議で復活するものの普仏戦争で縮小し、1861年のイタリア王国の成立で消滅に至る。1929年のラテラノ条約でバチカン市国が成立しているが、これは象徴的な独立国家でしかない。
こうした傾向に危機感を抱き、ローマ教皇への権力集中を唱えるウルトラモンタニズムが勢いを増し、カトリックは反近代指向を強めていった。1846年には啓蒙主義、自由主義、共産主義を排斥するための「誤謬表」(sillabo、シッラボ)を公布し、教皇首位説と教皇不可謬説を公式教義とし、他教派に対して不寛容な態度を取り続けた。さらに第一次世界大戦以降イタリア、ドイツ、スペインなどのファシズムに妥協的または協力的態度を取り、特にスペイン内戦ではフランコ派に協力し、第二次世界大戦ではナチスのユダヤ人虐殺ほかの残虐行為を黙認した。
しかし第二次世界大戦後、カトリック教会内部から大規模な改革の必要が叫ばれ、1960年代に至ってヨハネ23世の元で開会した第2バチカン公会議にで現代に生きるカトリック教会の方向性が定められた。その中ではプロテスタントや東方諸教会との対話であるエキュメニズムに加え、他宗教との対話の必要性も唱えられた。また科学と聖書学の尊重、各国語による典礼実施の推進、現代社会との連帯という方向性を確認した。この改革が規模と内容において16世紀の宗教改革にも匹敵することから、「第二の宗教改革」と呼ばれることもある。ガリレオ・ガリレイの宗教裁判の見直しと撤回(1992年)などに、こうしたカトリック教会の過去の過ちを認めて自ら正すという姿勢が見られるが、スペイン内戦や第二次世界大戦でのファシズムとの協調についての反省は明らかではない.。
現在もカトリック教会は避妊や妊娠中絶を認めず、時代錯誤だと批判されることも多い。また、司祭の独身制の堅持についても批判されている。特に近年の米国において、カトリック聖職者による性的幼児虐待が多数明るみに出たことで、その歪が批判されている。これに応じて西ヨーロッパでの教勢は全く衰弱し、フランス、イタリアでは日曜礼拝に参加する信者や全くの少数派に転落し、かつては強勢を誇ったスペインやアイルランドでも少数派に転落した。
中南米は、スペイン・ポルトガルの植民地であった関係上、カトリック宣教がもっとも成功した地域であり、現在でも信者の比率が大変に高い。この地域では20世紀になって解放の神学と呼ばれる思想が起こった。これはキリスト教社会主義運動の一形態とみられており、民衆の中での社会運動の実践こそが福音そのものであるという立場を取る。その左翼的側面から中傷されることも多く、カトリック内でも拒否反応を示す聖職者も少なくない。対応してかつては全人口の90%以上がカトリックであった世界最大のカトリック国ブラジルでさえ、その比率は75%程度に低下しており、西ヨーロッパほどではないが教権の動揺は明らかである。
またアメリカ合衆国においては、カトリック神父の多くが信者の少年少女や女性を性的に虐待または搾取したことが問題とされている。このような神父が教会によって厳しく処分されることなく、教区司教や大司教がそのような事件を隠蔽していたことが明らかになり、多くの訴訟の結果巨額の賠償を余儀なくされ、ここでも教権は動揺は大きく動揺している。
アジア地域でのカトリック宣教が成功したのは、やはりスペインやポルトガルの植民地であったフィリピンと東チモールであり、その他の地域のカトリック人口はマイナーなものに留まった。例外は大韓民国であり、第2次世界大戦後プロテスタントと共に信徒数が急増している。中国においては1949年に共産党政権が成立すると外国人司教は全て国外に退去し、1951年中国とバチカンは断交した。その後、中国はローマ教皇の任命する司教や司祭を一切認めず、政府公認の中国天主教愛国会のみをカトリック教会として扱うようになり、カトリック信徒を政府のコントロール下においた。だが政府に従わない地下教会が組織化されているとも見られており、この問題については今も中国とローマ教皇庁との間で政治交渉が続いている。
[編集] プロテスタントの展開
プロテスタントではルター派がドイツ北部や北欧に広がり、それとは別にカルヴァンの影響を受けて改革派教会(カルヴァン主義)が大陸で展開した。そしてジョン・ノックスのスコットランドを経由した長老派教会はイギリスやアメリカにも広がった。また、イギリスではイングランド国教会(聖公会)が1534年にカトリックから分離しておりプロテスタントに分類されている。
詳細はアメリカ合衆国の現代キリスト教を参照
またアメリカ合衆国では建国以来、信教の自由を保障したことと移民を広く受け入れてきたことからプロテスタント系諸教派が競い合って、多様なキリスト教信仰が展開している。教派を跨る形で大覚醒(Great Awakening)を代表とする信仰復興運動、再臨運動、異言を伴うペンテコステ運動などが起こり、これが新たな教派を形成し、ヨーロッパなどにも波及した。
さらにマックス・ヴェーバーの有名な学説『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が指摘したように、ピューリタン(主に長老派信徒)の影響が強いイギリスとアメリカで資本主義が驚異的に発展する。そして、それらの富める国力とアメリカで勃興した信仰復興運動を背景にプロテスタントも19世紀頃から海外宣教に積極的に乗り出していくことになる。
20世紀初頭、アメリカ合衆国ではドイツに発した自由主義神学の是非を巡ってプロテスタント教派間で教義論争(メイチェン論争など)が行われ、自由主義神学(リベラリズム)を採用する主流各教派(メインライン)と、聖書の無誤無謬を主張した福音主義(ファンダメンタリズム=根本主義など)とに教派が二分された。しばらくの間メインライン(長老派、ルター派、メソジスト、聖公会)は多数派として政治的主導権を有していたがベトナム戦争が膠着化した1970年代頃のカウンターカルチャー(対抗文化運動)の興勢の中で影響を減じて世俗化し、信者は現在減少傾向にある。
その一方で福音派は、ビリー・グラハムに代表される大衆伝道者などが大規模な伝道集会や聖会、テレビなどのメディアで多くの改宗者を獲得し、第四次大覚醒とも呼ばれている。1980年代以降はキリスト教右派と呼ばれる勢力が政治的な影響力を誇るようになった。彼らの多くは創造論を奉じて進化論を『聖書』と矛盾するものとして退ける。また福音派、キリスト教根本主義、キリスト教右派、ローマ・カトリックは社会問題となっている妊娠中絶に反対している。福音派は大宣教命令から、海外布教とりわけ東欧圏・アジア・アフリカなどでの活動にも熱心である。一方、ペンテコステ派のジム・ベーカーなどに見られるように、大衆伝道者が性的スキャンダルを引き起こす例があった。モラル・マジョリティはレーガン大統領の当選に貢献したが、その態度は2008年の共和党大統領候補McCainから"agent of intolerance"として批判された。またMcCainはこのような伝道者による支持表明を拒絶することを余儀なくされた。
このように福音派を中心とする教派は勢力を拡大しているが、アメリカのプロテスタント総体は衰退傾向にある。また、1960年代の公民権運動の頃から、マルコムXなどアフリカ系市民がイスラームへ改宗する運動も少数派ながらも続いている。アメリカにおける近現代史の詳細についてはアメリカ合衆国の現代キリスト教も参照されたい。
[編集] 正教会の展開
詳細はロシア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会をそれぞれ参照
ここではロシア正教会と、ギリシャも含めたバルカン半島における正教会の、近現代史の一部概要のみを記す[49]。
ピョートル大帝以降のロマノフ朝の西欧型近代化政策により、ロシア正教会は国家の保護に入ると共に国家の強力な統制を受ける事となった。1721年にはモスクワ総主教座が廃止される。このような統制下でも、18世紀後半にはアトス山から正教修道精神の復興が起きた事も影響し、ロシア正教会の修道精神はなお盛んであった。この頃の著名な修道士にサロフの聖セラフィムなどがいる。
西方教会の影響を脱し正教の伝統的な精神を復興する事が企図された、正教聖師父の信仰を伝える書『フィロカリア』が1792年に出版されると、1793年には教会スラヴ語に翻訳され、ロシア正教会の精神的な再生に寄与した[50]。
20世紀になると共産主義革命によってロシア正教は大きな打撃を受け厳しい状況を耐え忍ぶことになった[51]。弾圧の程度は時期により強弱はあったものの、恒常的に教会は強力な弾圧の下にあった。聖堂外で司祭が祭服を着用して儀礼を行う事は許されず、墓地で正教会の司祭が埋葬の祈りを行う事すらも禁じられていた。それでもロシア正教会は一定の存在力を示し続け、1961年には世界教会協議会に加入した。ソ連崩壊後は、急速に勢力を回復している。
オスマン帝国の支配下にあった地域にあった正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、1830年にギリシャが王国として独立した事に伴い、ギリシャ正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁から1850年にアテネ大主教を首座とする独立教会としての地位を承認を得た。オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島地域がナショナリズムの勃興によって独立国家群を形成していくなか、紆余曲折を経つつ、ブルガリア正教会、ルーマニア正教会、セルビア正教会などが独立教会としての組織を整えていく事になった。これらの教会もバルカン半島における共産主義政権のもとで辛酸をなめた事、共産主義政権の崩壊後に復活を遂げつつあることはロシア正教会と同様である[52]。
現在、正教会には9つの総主教座がある。その中ではロシア正教会が最大の信徒数を抱えており、教会に通う信徒数が3000万~4000万人、洗礼を受けた信徒数は約1億人ともされる[53]。このほかの総主教座ではルーマニア正教会の1500万人、セルビア正教会(地域としては旧ユーゴスラビア圏内等)の800万人、ブルガリア正教会の600万人なども抱え[54]、地盤の深さを示している。
[編集] 東方諸教会の展開
エフェソスおよびカルケドン公会議が異端として排斥したいわゆる東方諸教会の信徒数は必ずしも多くない。しかし、いくつかの地域ではその地域での最も信徒数の多いキリスト教教派でありつづけている。地域宗教の色彩が濃い東方諸教会ではあるが、19世紀以降、アメリカ合衆国やオーストラリアといった移民の多い国では、移民によって教会が立てられ、信徒の分布は広がりをみせている。
[編集] エキュメニズムへの取り組み
プロテスタントは、1910年にエディンバラで世界キリスト教会議を開催し、カトリックと正教会の代表に加えて、非キリスト教の諸宗教の代表も招き、教会の対話と一致を協議した。その結果、1948年には世界教会協議会(WCC)が誕生し、エキュメニカル運動(教会一致運動)が推進された[55]。プロテスタント諸教会は洗礼・聖餐・職制(叙階)において一致するために「リマ文書」を作成し、それを用いて諸教会の合同礼拝を行っている。また、各国でプロテスタント諸教派による合同教会(United Church)が誕生している(ただし、その要因は主流派諸教会の信徒数減少による)。
カトリックでは1960年代の第2バチカン公会議において、エキュメニズムへの取り組みを本格化させた。プロテスタント諸派とは相互聖餐(フル・コミュニオン)の関係樹立を目指して、教派別に神学的作業が進められている。1990年代には、ルーテル派とカトリックの間において、16世紀の宗教改革の最大の争点となった「信仰義認」の教義について、現在の両教会の見解の間には本質的相違が存在しないことが確認されているが、全教会規模での相互聖餐には至っていない。また、聖公会とカトリックの間にも、相互倍餐の関係を模索する動きがあるが、秘跡論の違いに加え、カトリックが同性愛者を否定しているのに対し、聖公会が同性愛者および、女性を司祭や主教(司教)に叙階していることが、両教会の完全な合同に対する越えがたい障害となっている。
また、近世以降カトリックは、ローマの首位権を認めることを条件に、東方典礼という形で東方教会の一部を取り込んできた(帰一教会)。しかし20世紀において、将来の一致を目標としつつ、現状においては東方教会のそれぞれの教派を独自性をもつ教会として扱うにいたった。現在のカトリック教会は、すべての東方教会の信徒に、やむをえない場合という留保つきではあるが、聖体拝領を認めている[56]。ただし、こうしたカトリックのいうエキュメニズムはたんに他教派のローマ帰一を最終的な目標とするもの(カトリック・エキュメニズム)であり、相互の教理理解に必ずしも基づかないとの警戒も他教派には存在する。
東方諸教会と、かつての正統教会の後裔であるカトリックと正教会、またプロテスタント教会との間の対話も活発化している。正教会と非カルケドン派教会は第2次大戦後以降、おもに中東地区で対話をすすめ、20世紀末には正教会とシリア正教会が教義についての合意を正式に文書で確認しあうにいたった。その文書では、キリスト論などの教義の違いは神学的相違というよりはむしろその表現の相違であり、根底において教義を共有しあっていることを認めた。ただし教会としての全面的な一致にはいたっていないため、教会の方針としてはフル・コミュニオンには至っていない。
非カルケドン派教会のひとつ、エジプトのコプト正教会は世界教会評議会での熱心な活動で知られ、ことにアフリカ地区での他教会との交流に力をいれている。これは他の教会での礼拝への陪席などを含んでいる。
[編集] 日本とキリスト教
[編集] 歴史
詳細は日本キリスト教史を参照
日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説がある[57][58][59]。
史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀のカトリック教会の司祭、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「キリシタン」、キリスト教宣教師は「バテレン」と呼ばれた。宣教師に対して好意的だった織田信長の政策を踏襲した豊臣秀吉もキリスト教を保護した。1587年にバテレン追放令を発布した後も、キリスト教は事実上黙認されていた[60]。徳川家康が権力の座についた当初もキリスト教に対しては寛容な態度がとられていたが、1614年に禁教令が出され、以後キリスト教徒の探索と迫害が行われた。激しい迫害によってキリスト教は根絶させられたかのように見えたが、長崎などで一部の信徒が地下にもぐり、潜伏キリシタンとして信仰を守り続けた。
禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼暦を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。
隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、水責め・火責めなどの拷問、3400名に及ぶ流刑などが行われた[61]。また他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。欧米諸国からの強い抗議を受けて、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは1873年のことである。
キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリック、プロテスタント、ロシア正教会とも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。
カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッションスクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。
戦前を通じ、キリスト教に対して社会の環境は厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも難しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。プロテスタント諸教派は政府の誘導下に合同教会「日本基督教団」を設立した。日本基督教団は富田満統理を指導者として神社参拝、宮城遥拝を率先して行ったが、それを拒んだ聖職者や信徒のなかには、官憲の追及を受け、逮捕・投獄されるものもおり、取調べによる死者も出ている。
[編集] 現代日本のキリスト教
2004年現在日本の総人口の約1%がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約50万人、プロテスタント諸派が計約50万人、プロテスタントで最も信徒数の多い日本基督教団が約10万人である。正教会(日本ハリストス正教会)は約1万人。尚、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人(ものみの塔)が公称約22万人とされている。通常この2派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含めない場合もある。隣国韓国はクリスチャンが急増しているが、近年の日本は横ばいが続いている。
[編集] カトリック
太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争については沈黙した。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力という点での批判がそれぞれある。
中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。
1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。
カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。
[編集] プロテスタント
プロテスタント(戦時中はその殆どが日本基督教団に合同)もカトリックと同様の立場を取り神社参拝を行ったが、殆ど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれた。そのため、日本基督教団では会堂に神棚を設置し、礼拝前に宮城遥拝を行うなどして保身を図った。また日本基督教団は政府の政策に協力し、アジアのクリスチャンへの弾圧に加担した。しかし、偶像を否定する者や再臨信仰を持つ教会では牧師連行などの弾圧を受けた[62][63]。
殊に、四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)という信仰のスローガンで知られるホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の3派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、1942年11月、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、7名の牧師が殉教した。
救世軍は1940年7月、イギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また、「皇軍以外に『軍』を名乗る組織があるのはけしからん」という理由で敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制された。セブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。
また神社参拝を偶像崇拝として拒否した美濃ミッションら少数のキリスト者は激しい迫害にあった。
戦後は合同教会としての日本基督教団とともに、各教派の教団も再建。救世軍など活動を禁止されていた教派も活動を再開した。連絡組織としてエキュメニカル派では日本キリスト教協議会、カトリックなども包含する日本キリスト教連合会が、福音派では日本福音同盟が結成されている。
政治運動ではなく、さまざまな手段を用いた布教を主たる活動とする教会の台頭も著しい。キリスト者自らがイエス・キリストについての『聖書』の言葉を聞き、イエス・キリストが自らの救い主であることを受け入れ、人生観、人生がいかに変化したかを語る証しによって、キリスト者になる者が一部の教会では増えている。近年、海外のキリスト教の助力により、パワーフォーリビング(2007年に配布開始)やラブソナタなどの大規模な布教が行われている[64]。
[編集] 正教会
詳細は日本ハリストス正教会を参照
発足間もない時代、日本の正教会はニコライ・カサートキンら神品を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれていた。19世紀半ばに函館から始まった日本正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂:ニコライ堂も建設された。しかし1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、日本の正教会は苦しい立場におかれた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルギイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた[66]。
また、関東大震災で東京復活大聖堂(ニコライ堂)も含む東京市内のほとんどの教会が破壊された。資金難の困難な情勢の中でニコライ堂は再建されたが、他の東京市内の教会の殆どは再建されず、東京市内の教会は神田の東京復活大聖堂の教会に再編された[67]。
第二次世界大戦後日ソの外交関係が途絶しアメリカを中心とする連合軍が日本に入ると、日本の正教会はアメリカ合衆国に所在する正教会(アメリカ正教会の前身)の管轄下に一時的におかれた。アメリカから高位聖職者が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジーミル神学校に多数の若い神学生が留学した。その後、1970年に日本教会はモスクワ総主教庁の庇護下で聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄を継続すべきとするグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。紆余曲折があったが、現在では日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好である。
[編集] エキュメニカル派
日本におけるエキュメニカル派の動きとしては、聖職者や学者の間での交流と、信徒を中心とした交流が指摘される。元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、現在はエキュメニカル派の教団として現在でも残っている。
1960年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては『新共同訳聖書』の共同翻訳事業が特筆される。この『新共同訳聖書』においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として『聖書』から除外したもの(『集会の書』『マナセの祈り』など)を「旧約聖書続編」としてまとめている。これは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。
また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。
[編集] キリスト教の文化的影響
[編集] 建築への影響
中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は今も見る者を圧倒する。それらは現在も教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。
さらにキリスト教の教会に由来する共同体概念、とりわけプロテスタントの理念である「見えざる教会(Unsichtbare Kirche)」は、バウハウスなど近代建築にも影響を与えた。ヴァルター・グロピウスはバウハウスの雑誌の表紙に教会を現した自作の版画を沿え、「見えざる教会」がバウハウス運動の理念でもあると語っている。
東欧ではビザンティン建築が独自の発展を遂げたが、近現代に至って新古典主義の影響を西欧から若干受けている。
[編集] 美術への影響
中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、聖人の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期ににはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より古典古代への関心が復活するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえばボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。
対して東方教会では、イコン(聖像)の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、印象派風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。また近世以降はヴィクトル・ヴァスネツォフなどのように、イコンから離れた美術の領域で正教会の題材を用いる藝術家も現れた。
[編集] 音楽への影響
キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが今日の五線譜を用いた記譜法、和声法や対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。
教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる[68]。
作曲家で言えば、16世紀に対位法・ポリフォニーにおいてイタリアのパレストリーナやスペインのヴィクトリアといった大家が現れた。しかしバッハやヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲やレクイエムはベルリオーズやブルックナーをはじめとした数々の作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。また器楽曲では、西方教会ではパイプオルガンが好んで用いられ、各地域で優れた大型のオルガンへの需要を生み出した。ヨーロッパでは16世紀、17世紀に建造されたオルガンが補修を受けながら現在も使われていることが多い。
また20世紀に入るとアメリカのアフリカ系市民の間で歌われていた賛美歌(ゴスペル)が、レイ・チャールズなどの手によってポップ・ミュージックに導入された。一方で、古楽への一般的な関心の高まりをも反映して、グレゴリオ聖歌などの古い宗教曲が意識的に聴かれるようになり、教会旋法の要素を取り入れる作曲家などもみられる。
一方、器楽の使用を原則として禁じた正教会においては、東ローマ帝国地域でビザンチン聖歌が独自の発展を遂げた。正教が伝播したロシアでは、ビザンチン聖歌にロシア固有の要素を取り入れたズナメニ聖歌といわれる無声楽曲が発達した。ビザンチン聖歌もズナメニ聖歌も四線譜もしくは五線譜を用いず、それぞれ「ネウマ」と「クリュキー」と呼ばれる記譜法を保持していた。
18世紀以降になると西方との交流によって、イタリア的要素を取り入れた宗教曲が作られ、19世紀初頭にはロシアでボルトニャンスキーが活躍。チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフといった作曲家達を生み出す土壌となった。正教会聖歌ではラフマニノフの晩祷が有名であり、聖歌を専門にした作曲家ではアルハンゲルスキーが著名であるが、ブルガリアのフリストフやセルビアのフリスティッチ、エストニアのペルトも正教会聖歌を作曲するなど、その発展はロシアに限定されず東欧全域に及んでいる。また、西欧的な要素を取り入れつつも新たな伝統復興を模索する動きが19世紀後半から正教会では行われていたが、共産主義政権の弾圧による研究の中断があったものの、共産主義政権の崩壊後にそうした復興運動は再活性化を見せている[69]。
- 正教会聖歌作曲家の一覧はCategory:正教会聖歌作曲家を参照
[編集] 文学への影響
中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている[70]。
また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、『旧約聖書』の『創世記』、ノアの箱舟、モーセの出エジプト、士師たちの年代記、そして教義の根幹を支える『福音書』の受難物語などは、現代に至るまで文学者たちにインスピレーションを与え続けてきた。ジョン・ミルトンの『失楽園』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば現代日本のライトノベルに至るまで多くの分野に影響は及んでいる。
キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、フランシスコ会の神学を参照しつつキリスト教的世界像を提出するダンテの『神曲』、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済されるゲーテの『ファウスト』、キリストと異端審問官とを対決させたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(「大審問官」の章)などが有名である。
また、アウグスティヌスやイグナティウス・ロヨラなどの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式が西ヨーロッパで成立するにあたり、大きな影響を与えた。
[編集] 哲学への影響
西ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教の秩序のなかでは「哲学は神学の婢(はしため)」(ペトルス・ダミアノ)として哲学は位置づけられていた。
11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内であるにせよ発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトマス・アクィナスの業績は、ことに有名である。すでにイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多くその源を求められるとしても、彼が創り上げた壮大な神学大系は余人の追従を許していない。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論がこの時代に行われている。
15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。
[編集] 科学への影響
迫害を恐れて自説を公表しなかったコペルニクスや、宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイの事例などから、キリスト教(カトリック)は科学に対して抑圧的であったと考えられてきた。特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっているために、多くの科学史家はカトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきたとしてきた。ただし、天動説をはじめに主張したのはエジプトのプトレマイオスやギリシャのアリストテレスであり、聖書には天動説を支持する言葉は一つもない。
これら主流説に対する異説として、科学史家村上陽一郎はヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったとする説を唱える[71]。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもあるとし、それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという説である。科学者達の多くは決して非キリスト教徒ではなく、むしろ熱心な信徒であり「神の御業」を追求したものであった点は指摘されなければならない。渡辺信夫は、近世における科学の発展の背後に「神による啓示の書として自然界と聖書がある」というクリスチャンの意識があって、神をよりよく知るために自然への探求が始まったとする。また東京聖書学院の教授である千代崎秀雄は、その著書の中で、宗教と科学の担当する範囲が違うので衝突するはずがないと主張している。天動説の裁判における混乱については、中世のカトリック教会が神学の解釈を広げ、科学の領域に踏み込んだことが発端であるとしている[72]。
現代科学では、1847年にイギリスの医師ジェームズ・シンプソンの麻酔薬発明が許可されたのは、『聖書』中の「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた」[73]という記述が根拠になった[74]。また、『ネイチャー』が物理学者や数学者など1000人に行ったアンケートでは「神を信じる」との回答が39パーセントであった[75]。
また、修道院が先進技術の発展に貢献した例が多数ある。14世紀・15世紀において戦乱によって農業技術の革新が遅れていたロシアに西欧の輪作技術を導入したのは、ロシア正教会の荒野修道院群であった。カトリック教会・聖アウグスチノ修道会の修道士かつ司祭であり、のちには修道院長も務めたグレゴール・ヨハン・メンデルは、遺伝に関する法則(メンデルの法則)を発見した事で有名である。
[編集] 生活・その他への影響
医療・病院のルーツの多くが修道院にある。旅人を宿泊させる巡礼者を歓待する修道院、巡礼教会をいうホスピス(hospice)が、がんで余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設、ホスピスに転嫁したこと、歓待する(hospitality)が、病院(hospital)の語源でもあることはあまり知られていない。
修道院でリキュール(薬草酒として発達した面もある)が製造されているのもこうした医療行為に由来し、今日でも多くのリキュール・ワイン・ビールといったアルコール類が一部の修道院で醸造されている(ワインはミサ・聖餐式・聖体礼儀用でもある)。これらの酒類の中には有名なブランドとなっているものも珍しく無い。
[編集] キリスト教に基づくとされている習俗
[編集] 典礼暦
詳細は典礼暦を参照
キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い[76]、またそれによって信者の生活を規定するが、一方で各地の習俗と融合した教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説するが、この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在しており、クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、枝の主日/聖枝祭、ペンテコステ、各種の行列、大勢の特定聖人の祝日などの祭日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。
[編集] クリスマス
詳細はクリスマスを参照
神現祭も参照
クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、イエスの誕生日は知られていない。ローマ帝国時代、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。
また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係であり、キリスト教が布教されるにあたって土着の習俗を飲み込んでいったことを物語る。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀に南ドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロースは聖ニコラスの伝説や、イギリスの Father Christmass の伝承などを使ってニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである[77]。
[編集] イースター
詳細は復活祭を参照
復活祭(イースター、復活大祭、パスハ)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつもっとも古く成立した祭のひとつであるが、現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する[78]。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。
[編集] 結婚式
宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘跡(機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、カトリックでは典礼は略式化され、東方教会・正教会では奉神礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教派・教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。プロテスタントにおける結婚は、カトリックの秘跡に相当する聖礼典には含まれない(そのため、聖礼典執行資格のない伝道師など下位教職でもこれを行うことが出来る)。ただし、人生の節目であることに違いはなく、新たに結婚する二人を祝福する[79]。
キリスト教式の結婚式では、「誓いのキス」が必須であると思われることがときにあるが、主要教派の典礼は基本的にそのようなものを含まないことが多い[80]。ただし、正教会では婚配機密の最後にキスをする。
現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっており、結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された「牧師」の下に司式されることが多い。そういった司式者の資格やそうやって行われた結婚式の有効性についての議論も存在する。
[編集] バレンタインデー
詳細はバレンタインデーを参照
西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。これもキリスト教の教義には根拠がなく、もともとはローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であり、それが後になって殉教聖人のバレンタインに結び付けられたのだろうと言われている。
日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へチョコレートを贈る習慣が定着したが、1990年代ごろから他の業界も積極的に販売政策に利用するようになってきている。俳句の季語に取り入れられるほどになじみのある行事となっているが、これもまたキリスト教の教義には根拠がない。
[編集] ハロウィーン
詳細はハロウィーンを参照
ハロウィーンはイングランド・アイルランドおよびその移民の間で行われた民間の祭りであり、直接はキリスト教と全く関係がない。ハロウィーンで出てくる幽霊、精霊、魔女などは明らかに非キリスト教的存在である。この祭りの起源は元々ケルト人のドルイド教の祭だっただろうと推定されているが、カトリックの諸聖人の日(万聖節)と日付の上で結びついており、その前晩である10月31日に行われる。イングランドでは中世以降廃れたが、アイルランドに残っていた習俗が移民を通じてアメリカ合衆国で広まった。近年はヨーロッパや日本でもカボチャのランタン(ジャックランタン、ジャック・オ・ランターン)を飾るなど、一部の習俗が入ってきている。
[編集] 脚註
- ^ 「キリスト教とは、イエス・キリストが宣べ伝えた『神の国』の福音の精神、その救いの到来に関するメッセージを信仰によって受け入れ、それに基づく倫理的実践の総称である」(上智学院新カトリック大事典編纂委員会『新カトリック大事典』第2巻、研究社、1998年、ISBN 9784767490120、「キリスト教」より引用)
- ^ Encyclopedia - Britannica Online Encyclopedia, Worldwide Adherents of All Religions, Mid-2005
- ^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』PHP研究所、2004年、ISBN 9784569634944、125頁
- ^ 日本国政府外務省HP:大韓民国
- ^ 日本国政府外務省HP:フィリピン共和国
- ^ 日本国政府外務省HP:ベトナム社会主義共和国
- ^ これはキリスト教に限らず仏教・神道・儒教も同じで、浸透の色合いとしては仏教・神道に次ぐ。
- ^ 三位一体を教義としないものは正統にあらず、すなわち異端である、ということ。
- ^ 「信条とは根本的には教会の信仰を公に宣言するものである。それはまた、神の啓示に対する教会の応答であり、キリストの救いと栄光の告知である」(上智学院新カトリック大事典編纂委員会『新カトリック大事典』第3巻、研究社、2002年、ISBN 9784767490137、412頁「信条」より引用)
- ^ 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580、631頁「キリスト教教理の主要点に関する簡明で形式化された公的文書」
- ^ 上智学院新カトリック大事典編纂委員会『新カトリック大事典』第3巻、研究社、2002年、ISBN 9784767490137、412頁「信条」
- ^ これを教義としない教派も存在する。
- ^ 聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とし、キリストを被造物とするグループの代表的なものとしてエホバの証人・ものみの塔が挙げられる。
- ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社〈講談社選書メチエ〉、1999年、ISBN 9784062581639、25-33頁
- ^ カレン・アームストロング『神の歴史 ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』高尾利数訳、柏書房、1995年、ISBN 9784760111466、115頁
- ^ 田川建三『イエスという男』第2版増補改訂版、作品社、2004年、ISBN 9784878936814、36頁以降
- ^ 『使徒言行録』6章8節-7章60節
- ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社〈講談社選書メチエ〉、1999年、ISBN 9784062581639、43頁
- ^ 田川建三『キリスト教思想への招待』勁草書房、2004年、ISBN 9784326153756、45頁
- ^ 『使徒言行録』11、15章
- ^ 「(使異邦人に対する食物規定を緩めた)エルサレムでの会合は、異邦人に対するキリスト教伝道の驚くべき成功を確かなものにしたのである」(ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』第2巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年、370頁より引用)
- ^ ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』第3巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年、184-185頁
- ^ ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』第2巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年、291-292頁
- ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社〈講談社選書メチエ〉、1999年、ISBN 9784062581639、149頁
- ^ 高尾利数『キリスト教を知る事典』東京堂出版、1996年、ISBN 9784490104356、46頁
- ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社〈講談社選書メチエ〉、1999年、ISBN 9784062581639、177頁
- ^ カレン・アームストロング『神の歴史 ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』高尾利数訳、柏書房、1995年、ISBN 9784760111466、「ひとりの神」、「異邦人への光」、「三位一体 キリスト教の神」
- ^ アラビア語圏ではアッラーフは語源的にアル・イラーフ(アル=定冠詞、イラーフ=神、God)に由来し、唯一神(英語でいう The God)を指す。従って、アラビア語ではユダヤ教の神もキリスト教の父なる神もアッラーフである。
- ^ ただし、ムハンマドが最後で最大の預言者であり、クルアーンが最後の啓典である。
- ^ カレン・アームストロング『神の歴史 ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』高尾利数訳、柏書房、1995年、ISBN 9784760111466、214頁
- ^ 井筒俊彦『イスラーム生誕』人文書院、1979年、103頁
- ^ ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』第3巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年、90-91頁
- ^ 井筒俊彦『イスラーム生誕』人文書院、1979年、105-107頁
- ^ 井筒俊彦『イスラーム生誕』人文書院、1979年、107-109頁
- ^ 正教会においては女輔祭の制度がギリシャ等で採用されるが、これは上記の輔祭とは区別される。
- ^ J・F・ホワイト『プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開』日本キリスト教団出版局、2005年、ISBN 9784818405646
- ^ 岡村又男『教会役員・リーダーの役割』増補改訂版、いのちのことば社、2003年、ISBN 9784264021476
- ^ 本節に関連する文献としては以下のようなものがある。
正教会 - 高橋保行『キリストの体』1974年 (正教会で入手可能な小冊子)、19-29頁「『キリストの体』である信仰生活」
カトリック - 景山あき子ほか『カトリックの信仰生活がわかる本』女子パウロ会、1999年、ISBN 9784789605045
プロテスタント - 山口昇・熊谷徹監修『新クリスチャン生活百科』いのちのことば社、2007年、ISBN 9784264025313 - ^ 関栄二ほか編『クリスチャン生活事典』教会新報社、1981年
- ^ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056
- ^ 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580、525-530頁
- ^ 金井由信『実を結ぶ教会学校 CS教師ガイドブック』改訂版、ベラカ出版、2007年、ISBN 9784903370040
- ^ 関栄二ほか編『クリスチャン生活事典』教会新報社、1981年
- ^ 『新約聖書』「マタイによる福音書」19章16節など
- ^ ジャン・ダニエルー『キリスト教史 4 中世キリスト教の発展』上智大学中世思想研究所編訳・監修、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、ISBN 9784582761788、249-255頁「西側の見解」、255-258頁「東側の見解・キリスト教社会の東西分裂」など
- ^ ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』第2巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年、205節
- ^ ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』第2巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年、436-438頁、239節
- ^ 田川建三『キリスト教思想への招待』勁草書房、2004年、ISBN 9784326153756、第2章
- ^ 川又一英『イコンの道 ビザンティンからロシアへ』東京書籍、2004年、ISBN 9784487798971
- ^ 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580、305頁
- ^ 高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』教文館、1996年、ISBN 9784764263253
- ^ オリヴィエ・クレマン『東方正教会』冷牟田修二・白石治朗訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1977年、ISBN 9784560056073
- ^ 非カルケドン派の信徒数は1500万人ともされる。
- ^ 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580、307-309頁
- ^ 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580、97頁
- ^ このような措置はプロテスタント教会の信徒にはとられていない。
- ^ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056、「景教」。複数の文献が掲載されており「広隆寺が拠点になっていた」との記述もある。
- ^ 平凡社編『世界大百科事典』第7巻、平凡社、502頁
- ^ 景教の日本への伝播によってイエス・キリストの誕生時の物語も日本にも伝わり、そのイメージを重ねる形で聖徳太子が馬小屋の前で生まれたとされ、その幼名が厩戸皇子となったとする説もあるが、これに関しては想像の域を出ない。
- ^ 秀吉の命令で行われた唯一の迫害行為は1597年に長崎で行われたキリスト教徒二十六人の処刑のみであった。
- ^ 浦上小教区変革史
- ^ 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』新教出版社、1980年
- ^ 日本基督教団鎌倉雪ノ下教会編『主に使えて五十年』キリスト新聞社、1973年
- ^ Christian Today 日本全土に聖霊の風を巻き起こせ 「ラブソナタ2007」開幕間近
- ^ 中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波書店〈岩波新書〉、1996年、ISBN 9784004304586
- ^ 府主教セルギイ『東京復活大聖堂と関東大震災』府主教ダニエル監修、正教時報社、2002年 (ニコライ堂ほか各地正教会で入手可能)
- ^ 牛丸康夫『日本正教史』日本ハリストス正教会教団府主教庁、1978年
- ^ 岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』中央公論新社〈中公新書〉、2005年、ISBN 9784121018168、など
- ^ コンスタンチン・P・コワリョフ『ロシア音楽の原点 ボルトニャンスキーの生涯』ウサミ・ナオキ訳、新読書社、1996年、ISBN 9784788061057、など
- ^ ヤコブス・ア・ウォラギネ『黄金伝説抄』新版、藤代幸一訳、新泉社、1994年、ISBN 9784787794246、訳者解説、など
- ^ 村上陽一郎『科学史からキリスト教をみる』創文社〈長崎純心レクチャーズ〉、2003年、ISBN 9784423301142
- ^ 千代崎秀雄『聖書おもしろ事典』有斐閣〈有斐閣新書〉、1985年、ISBN 9784641090514、「聖書は天動説?」
- ^ 『創世記』2章21節
- ^ 山北宣久『おもしろキリスト教質問箱Q&A77』教文館、2006年、ISBN 9784764264106
- ^ 山北宣久『おもしろキリスト教質問箱Q&A77』教文館、2006年、ISBN 9784764264106
- ^ 高尾利数『キリスト教を知る事典』東京堂出版、1996年、ISBN 9784490104356、260頁
- ^ クロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳、せりか書房〈serica books〉、1995年、ISBN 9784796701952、17-27頁、など
- ^ 高尾利数『キリスト教を知る事典』東京堂出版、1996年、ISBN 9784490104356、258頁
- ^ 徳善義和・百瀬文晃編『カトリックとプロテスタント どこが同じで、どこが違うか』教文館、1998年、ISBN 9784764263482、160-161頁
- ^ 例えば『日本聖公会祈祷書』の「聖婚式」の章には接吻についての記述は一度も出てこない。
[編集] 関連項目
- 用語
- 教派
- 教義
- 一覧
- 資料
- メディア
- 英語版
- en:Christian symbolism - 儀式とシンボルについて
- en:Christian eschatology - 終末論
- en:Christian mythology - 神話
- en:Christian views of women - 女性の立場
[編集] 参考文献
- 上智学院新カトリック大事典編纂委員会『新カトリック大事典』全3巻、研究社、1996年 - 2002年
- 全4巻予定。第1巻 1996年 ISBN 4767490111、第2巻 1998年 ISBN 476749012X、第3巻 2002年 ISBN 4767490138
- 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580
- 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056
- 平凡社編『世界大百科事典』第7巻、平凡社
- 高橋保行『ギリシャ正教』講談社〈講談社学術文庫〉、1980年、ISBN 9784061585003
- ジャン・ダニエルー『キリスト教史』上智大学中世思想研究所編訳・監修、全11巻、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1996年 - 1997年
- ISBN 4582761631、ISBN 4582761682、ISBN 4582761747、ISBN 458276178X、ISBN 4582761836、ISBN 4582761879、ISBN 4582761925、ISBN 4582761968、ISBN 4582761992、ISBN 4582762050、ISBN 4582762093
- ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』全3巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年
- 絶版。2000年にちくま学芸文庫で復刊(全8巻、ISBN 4480340025 ほか)
- 八木谷涼子『知って役立つキリスト教大研究』新潮社〈新潮OH!文庫〉、2001年、ISBN 9784102901335
- 土井かおる『よくわかるキリスト教』PHP研究所、2004年、ISBN 9784569634944
- カレン・アームストロング『神の歴史 ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』高尾利数訳、柏書房、1995年、ISBN 9784760111466
- ヤコブス・ア・ウォラギネ『黄金伝説抄』新版、藤代幸一訳、新泉社、1994年、ISBN 9784787794246
- 岡村又男『教会役員・リーダーの役割』増補改訂版、いのちのことば社、2003年、ISBN 9784264021476
- 景山あき子ほか『カトリックの信仰生活がわかる本』女子パウロ会、1999年、ISBN 9784789605045
- 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社〈講談社選書メチエ〉、1999年、ISBN 9784062581639
- 金井由信『実を結ぶ教会学校 CS教師ガイドブック』改訂版、ベラカ出版、2007年、ISBN 9784903370040
- 川又一英『イコンの道 ビザンティンからロシアへ』東京書籍、2004年、ISBN 9784487798971
- オリヴィエ・クレマン『東方正教会』冷牟田修二・白石治朗訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1977年、ISBN 9784560056073
- 関栄二ほか編『クリスチャン生活事典』教会新報社、1981年
- 山口昇・熊谷徹監修『新クリスチャン生活百科』いのちのことば社、2007年、ISBN 9784264025313
- 高尾利数『キリスト教を知る事典』東京堂出版、1996年、ISBN 9784490104356
- 高橋保行『キリストの体』1974年 (正教会で入手可能な小冊子)
- 高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』教文館、1996年、ISBN 9784764263253
- 田川建三『キリスト教思想への招待』勁草書房、2004年、ISBN 9784326153756
- 田川建三『イエスという男』第2版増補改訂版、作品社、2004年、ISBN 9784878936814
- 千代崎秀雄『聖書おもしろ事典』有斐閣〈有斐閣新書〉、1985年、ISBN 9784641090514
- 徳善義和・百瀬文晃編『カトリックとプロテスタント どこが同じで、どこが違うか』教文館、1998年、ISBN 9784764263482
- 牛丸康夫『日本正教史』日本ハリストス正教会教団府主教庁、1978年
- 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』新教出版社、1980年
- 中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波書店〈岩波新書〉、1996年、ISBN 9784004304586
- 日本基督教団鎌倉雪ノ下教会編『主に使えて五十年』キリスト新聞社、1973年
- 府主教セルギイ『東京復活大聖堂と関東大震災』府主教ダニエル監修、正教時報社、2002年 (ニコライ堂ほか各地正教会で入手可能)
- J・F・ホワイト『プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開』日本キリスト教団出版局、2005年、ISBN 9784818405646
- 山北宣久『おもしろキリスト教質問箱Q&A77』教文館、2006年、ISBN 9784764264106
- 井筒俊彦『イスラーム生誕』人文書院、1979年
- 絶版。2003年に中公文庫BIBLIOで復刊(ISBN 9784122042230)
- 岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』中央公論新社〈中公新書〉、2005年、ISBN 9784121018168
- コンスタンチン・P・コワリョフ『ロシア音楽の原点 ボルトニャンスキーの生涯』ウサミ・ナオキ訳、新読書社、1996年、ISBN 9784788061057
- 村上陽一郎『科学史からキリスト教をみる』創文社〈長崎純心レクチャーズ〉、2003年、ISBN 9784423301142
- クロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳、せりか書房〈serica books〉、1995年、ISBN 9784796701952
[編集] 外部リンク
- キリスト教リンク集 (他のリンク集にリンク可能)
- ポケットキリスト(携帯用サイト)
- オープンディレクトリー:キリスト教 (各国語の同カテゴリへのリンク)