神聖ローマ皇帝
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神聖ローマ皇帝(ドイツ語:Römischer Kaiser、ラテン語:Romanorum Imperator)は神聖ローマ帝国の君主。また中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者、もしくはその称号。カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張し、特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。
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[編集] 概要
帝国そのものについては神聖ローマ帝国を、歴代の皇帝については神聖ローマ皇帝一覧を参照
神聖ローマ皇帝の皇帝権は、800年のカール大帝の戴冠により西ヨーロッパにおける覇権的君主権として成立し、またキリスト教と密接に結びついた。962年のオットー大帝の戴冠以降は、皇帝権はドイツ王権と不可分なものとなり、中世を通じてヨーロッパの世俗支配権の頂点に君臨した。特にオットー大帝以後13世紀のシュタウフェン朝断絶にいたるまでの、いわゆる「三王朝時代」は皇帝権は教皇権とともに西ヨーロッパのキリスト教世界の権威と権力を二分していた。ただし「神聖ローマ皇帝」という称号が実際に用いられたわけではない。実際に用いられた称号には様々なものがあった。たとえば、カール大帝の称号は「至尊なる尊厳者、神により戴冠されし、偉大にして平和的な、ローマ帝国を統治する皇帝」である。
シュタウフェン朝の断絶以後、ハプスブルク家のルドルフ1世の即位までの「大空位時代」に皇帝権は著しく衰退し、帝国の諸勢力にさまざまな特権を付与し、この時代から普遍的皇帝理念と現実の皇帝の政治権力の間にかなりの乖離が見られるようになった。したがって中世後期以降はその権限の及ぶ範囲はほぼドイツの領域に限られるようになり、さらに皇帝の政策を見ても、帝国や皇帝権の利害よりは自分の家門を強化することを重視するようになった。
中世を通じて国王選挙には、しばしば教皇やのちには外部の王権が介入することがあったが、1356年にカール4世は金印勅書を発して、国王選挙に参与する選帝侯の地位を固定し、その世襲を明確化した上で選挙によって選ばれた国王がただちに皇帝としての権力を得ると定めることで、皇帝権の自律性を高めた。
フリードリヒ3世の緩慢ながらも長い治世[1]とマクシミリアン1世の多産な治世[2]を経て、カール5世が即位する頃には、皇帝権がハプスブルク家によって事実上世襲されることが明確となり、以後帝位は1806年に皇帝が法的に消滅するまで、ハプスブルク家によって独占された。
[編集] 帝権の変遷
[編集] カール大帝の戴冠とオットー大帝による帝権の復活
詳細はカロリング朝、カール大帝、オットー1世 (神聖ローマ皇帝)をそれぞれ参照
800年のカール大帝の戴冠により、フランク人の王権がカトリック教会と結びついた皇帝が出現した。しかしこの皇帝権は、帝国(フランク王国)の分裂とともに10世紀初頭には早くも消滅した。962年のオットー大帝の戴冠によって、ドイツ王権と結びつく形で、ドイツ・イタリア・ブルグントに支配権を及ぼす皇帝権が復活した。この皇帝権はフランス王権に対して支配を及ぼすことはできなかったが、優位を保つことはできた。
[編集] 三王朝時代
詳細はザクセン朝、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝をそれぞれ参照
ザクセン朝(あるいは「オットー朝」)・ザリエル朝・シュタウフェン朝の時代に皇帝権は絶頂を迎え、この時代は「三王朝時代」と呼ばれ特筆されている。ザクセン朝では帝国イタリアに対する皇帝の支配権が確立され、東ローマ帝国に対して西方の皇帝であるドイツのローマ皇帝権が制度として定着することが明確となった。
[編集] 大空位時代
詳細は大空位時代を参照
シュタウフェン朝の断絶後、「大空位時代」の時期に帝国の直轄領および諸権利は著しく減少し、「大空位時代」直後のルドルフ1世も国王位の世襲に失敗したために、以後歴代の国王は主として自身の家門所領に頼ることとなる。したがってルドルフ1世以降の国王および皇帝は、王権あるいは帝権の強化より自身の家門勢力の拡大を政策目標とするようになり、「家門王権(Hausmachtkönigtum)」の時代が始まった。また大空位時代後には、フランス王権に対して優位を維持することはもはやできなくなっていた。
[編集] 帝権と王権
中世においては、「皇帝(imperator, caesar, monarcha)」と「国王(rex)」の間には明確な区別が存在し、したがって「帝権(imperium)」と「王権(regnum)」の間にも基本的な相違が存在した。国王は1部族や複数部族単位の支配者に留まるが、皇帝は世界全体を治める者と考えられていた。行政文書の上でも国王統治年と皇帝統治年は、13世紀までは明確に使い分けられていた。また初期には立法権が皇帝の特権と考えられており、カロリング朝以前ゲルマン人の国王は基本的に立法行為をおこなっていない。カール大帝の「司法改革」も皇帝権を獲得することによって初めて可能であったと考えられる。
[編集] 帝国権標
帝国権標とは、ドイツ国王の帝国支配を正当化する一群の宝物である。帝国権標の所有が正統な国王の有力な根拠となるのは10世紀ごろであると考えられている。のちには帝国権標は帝国と一体の物と考えられるようになり、単に「帝国」とも呼ばれた。その代表的な物は、帝冠[3]、聖槍、帝国十字架、帝国福音書、聖ステファノのブルサなどであり、アーヘン(のちにはフランクフルト・アム・マイン)でおこなわれる戴冠式でこれらの宝物が新しい国王に譲渡された。
[編集] 脚註
- ^ フリードリヒ3世の統治は53年間に及んだ。この間彼の統治は何度も危機を迎えるが、結局彼を脅かした政敵たちは次々と先立っていった。さらにシャルル突進公の死によって、息子マクシミリアンがブルゴーニュ公国を獲得した。
- ^ マクシミリアン1世は積極的な婚姻政策を展開し、孫の時代には、ボヘミア、ハンガリー、スペインなどがハプスブルク家の家領となった。
- ^ オットー大帝が被ったものであったと考えられている。皇帝と帝国の象徴であった。帝冠が八角形に作られているのは、ローマ帝国の領域と古都イェルサレムが八角形であると考えられていたことに由来する。さらに『旧約聖書』に登場する諸王、預言者イザヤ・エゼキア王・ダビデ王・ソロモン王が描かれ、ドイツの帝権がこれらのユダヤ祭司王権を継承していることを示していた。この冠は帝冠であると同時にドイツ王国の王冠としても用いられた。