神聖ローマ帝国
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神聖ローマ帝国(しんせい―ていこく、ドイツ語:Heiliges Römisches Reich、ラテン語:Sacrum Romanum Imperium、962年 - 1806年)は、中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国(当時はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域)やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。「ドイツ帝国」とも呼ばれ、1806年の帝国解散の詔勅はこの名で発布された。
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[編集] 名称
古代ローマ帝国の後継を称し、11世紀までは「ローマ帝国(独:Römisches Reich、羅:Imperium Romanum)」[1]または単に「帝国」、12世紀頃には「神聖帝国(Sacrum Imperium)」、13世紀以降「神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich, Sacrum Romanum Imperium)」と称された。16世紀には「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation, Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae)」と称するようになった。「神聖」の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる。
元々この国は古代のローマ帝国やカール大帝のフランク王国の後継帝国を意味していた。フランク王国は西ローマ帝国の後継国家の体をなしており、必然的に「神聖ローマ帝国」は、(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国である、ということを示していた。そしてこの肩書きにふさわしいと評価を得た者がローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかしこの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるがローマを領土に含んではおらず、さらに「帝国」を名乗りつつもその領土が判然としない国であった。
1871年にドイツが国民国家のドイツ帝国として統一されたのち、神聖ローマ帝国はドイツに成立した最初の帝国として知られるようになった。後にナチスが政権を握ると、彼らは自らを神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ「第三帝国」と呼び習わした。
[編集] 領域
神聖ローマ帝国は当初、ドイツ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。またオットー大帝は東のボヘミア王国に対しても宗主権を行使した。ボヘミアは帝国が消滅するまで帝国の一部であり続ける。
また、1032年にブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王(のち皇帝)ハインリヒ2世の間で結ばれた取り決めにより、ドイツ王・イタリア王はブルグント王も兼ねることとなった。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。
13世紀半ば、大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐと、ブルグントとイタリアは次第に帝国から分離した。ブルグントにはシャルル・ダンジューを初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった。
また、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の結果、アルザス・ロレーヌのいくつかの都市がフランスに割譲され、スイスとオランダが独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となったのである。その後もフランスのアルザス・ロレーヌ地域への進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。
[編集] 皇帝の地位
の3つの王国の統治者であった。これはカロリング朝フランク王の正式な称号が「フランク人、ランゴバルト人、ローマ人の保護者」であった伝統を引き継いでいる。
神聖ローマ皇帝はそれぞれ別の場所で戴冠式を行い、その上でローマ教皇により「ローマ皇帝」に戴冠されて、「帝国」全体に君臨した。ただし1508年にマクシミリアン1世が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、ドイツ王=ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した。なお、ドイツ王=ローマ王になったからといって常に皇帝になれるとは限らなかった。ローマに遠征を行って戴冠式を行えるかはその国王の実力にかかっていた。
[編集] 歴史
962年オットー1世(大帝)がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる。もっとも神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いたカール大帝であるという思想・理念もある。
もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、ザクセン人の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ選挙王制だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のためにイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ中央集権化が遅れた。
1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれない大空位時代となり、「帝国」としての実体をまったく成さない状態となった。14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられた。
これに対し、1495年から、帝国改造が皇帝マクシミリアン1世とマインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネブルクの主導で行われた。その結果、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。この帝国改造の流れに終止符を打ったのが1648年のヴェストファーレン条約であった。これにより、各諸侯に大幅な自治が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。しかしながら、その後プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊。帝国はやがて機能不全に陥った。
19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスの属国的なライン同盟に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。
[編集] 神聖ローマ帝国の評価
大空位時代以降に関しては、18世紀フランスの思想家ヴォルテールの「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」という言葉を引用して、もはや国家としての実体を伴っていないという評価がされてきた。ヴェストファーレン条約もこの文脈においては「帝国の死亡証明書」と評価される。
しかしながら、第二次世界大戦後、神聖ローマ帝国の再評価が行われている。従来のような評価では、ヴェストファーレン条約以降まったくドイツで宗教戦争が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのかといった疑問に答えることが難しいためである。
この観点から重視されているのが、マクシミリアン1世に始まる帝国改造である。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、帝国クライスを単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったのであった。いわば、現代のヨーロッパ連合(EU)との近似性に着目する流れである。日本においても、研究書レベルでは帝国改造論を踏まえた議論がなされている[3]が、教科書レベルではまだ「死亡証明書」といった評価が一般的である。
[編集] 脚註
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ピーター・H・ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495-1806』山本文彦訳、岩波書店〈ヨーロッパ史入門〉、2005年
- 成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史1』山川出版社、1997年
- 成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史2』山川出版社、1997年
- 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社〈講談社現代新書〉、2003年