晩祷
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《晩祷》(ばんとう)作品37(ALL-NIGHT Vigil OP.37)は、セルゲイ・ラフマニノフ(Сергей Васильевич Рахманинов, Sergey Vasilievich Rachmaninov)の合唱曲。ロシア正教会のための奉神礼音楽から全面的に想を得た合唱作品である。教会の奉神礼に実際に使われる事もあるが[1]、晩祷に百人規模で参祷者があるほどに相当に大規模な教会でなければ実現不可能と思われる難曲である。「晩祷」は、1915年初頭に、2週間たらずで書き上げられ、同年3月にモスクワで初演された。評論家からも聴衆からも温かく迎えられ、月に5回以上も再演されるほどの成功を収めた。ラフマニノフ自身にとっても、合唱交響曲《鐘》と並ぶ会心の作であり、第5曲を自分自身の葬儀に用いるように要望している。《聖金口イオアン聖体礼儀》作品31とともに、ラフマニノフの宗教曲の双璧をなすことで有名だが、革命前後の混乱もあってかラフマニノフは早くに教会通いを止めていた。
目次 |
[編集] 曲目
「晩祷」は、正教会の奉神礼祝文のうち、徹夜祷を構成する3つの部分(晩課・早課・第一時課)に曲付けされている。
晩課
- 1. 来たれわれらの王、神に
- 2. (首誦聖詠)わが霊(たましい)や主を讃め(ほめ)あげよ
- 3. (第一カフィズマ)悪人の謀(はかりごと)に行かざる人は福(さいわい)なり
- 4. (聖入)聖にして福たる常生(じょうせい)なる天の父
- 5. (聖抱神者シメオンの祝文)主宰や今 爾(なんじ)の言(ことば)にしたがい
- 6. 生神童貞女(しょうしんどうていじょ)や喜べよ
早課
- 7. (六段の聖詠:6つの詩篇)至(いと)高きには光栄
- 8. (ポリエレイ)主の名を讃め(ほめ)あげよ
- 9. 主よ爾(なんじ)は崇め(あがめ)讃め(ほめ)らる
- 10. ハリストスの復活を見て
- 11. わが心は主を崇め
- 12. (大詠頌)至(いと)高きには光栄 神に帰し
- 13. (定規のトロパリオン、奇数調) 今 救いは世界に
- 14. (定規のトロパリオン、偶数調) 爾(なんじ)は墓より復活し
第一時課
- 15. 生神童貞女(しょうしんどうていじょ)讃歌
ラフマニノフは、15曲のうち10曲を正教会の聖歌に基づいて作曲している。一方、第1曲、第3曲、第6曲、第10曲、第11曲の計5曲は、ラフマニノフ自身の創作だが、作曲者自身がこれらを「意識的なでっち上げ」と呼んだように、非常に深く聖歌に影響されている。
「晩祷」には3つの様式が認められる。「ズナメニ聖歌」(第7番、第8番、第9番、第12番、第13番、第14番)と、より朗誦的な「ギリシャの旋律」(第2曲と第15曲)、そして「キエフ聖歌」(ズナメニ聖歌のウクライナ版、第4曲と第5曲)である。作曲に先立ってラフマニノフはステパン・スモレンスキーのもとで古い聖歌を研究した。このため本作は「スモレンスキーの追憶に」献呈されている。混声4部合唱のために作曲されているが、多くの場合に声部数は3声から8声まで変化する。声部が沢山分かれている場合でも男声と女声が同じ旋律・副旋律を歌って厚みを加えているなど、ボルトニャンスキーの合唱コンチェルトをはじめとするイタリア由来の合唱聖歌作法と、伝統的に行なわれていた単声聖歌への参祷者(奉神礼への参加者)各々の発意による和声付け唱法とを融合させている。
[編集] 奉神礼聖歌略史
ラフマニノフ以前のロシア正教の近代聖歌には、イタリア盛期バロック音楽の様式に倣ったボルトニャンスキーの諸作品があった。その後はチャイコフスキーやリムスキー=コルサコフの世代から、カスタリスキーやアルハンゲルスキーに至るまで、プロテスタント教会のコラールを彷彿とさせる、シラビックな、ネウマティックな曲付けと、単純だが印象的な和声付けが特徴的な聖歌が主流となった。
ロシア正教会で制定されていたオビホードに基づく多声聖歌以前の、各地方教会で伝承されていたような古い起源を持つ単声聖歌への関心と研究も近代以降にようやく大きく為されるようになった。此の音楽を言葉に寄り添わせる聖歌は、ロシアに限らず正教会の各国地方教会での奉神礼が充実してくると共に、それぞれの教会でそれぞれの母語を基にして今も育っている。
[編集] 作品の位置付け
1915年という時期は、ロシア時代のラフマニノフの創作活動の絶頂期に当たり、その時期にラフマニノフが宗教音楽に挑戦し、みごとに名作を実らせたことは、さまざまな意味において象徴的である。
もともとラフマニノフは、有名な《前奏曲嬰ハ短調》作品3-2や《ピアノ協奏曲 第2番》においてロシア正教会の鐘の音を模倣したり、《ピアノ協奏曲 第3番》の開始楽章の第1主題にロシア正教の聖歌といわれる旋律を利用するなど、ロシア民族の象徴として、ロシア正教会に言及する傾向を持っていた。これは、しばしば「チャイコフスキーの後塵を拝しているにすぎない」と言われてきたラフマニノフの、チャイコフスキーとの重要な相違点である。正教会との精神的な結びつきは、ラフマニノフがチャイコフスキーよりむしろ「ロシア五人組」(とりわけムソルグスキー)に近い面をもっていたことを示している。
ラフマニノフの本作品は、調的ながらも、しばしば西欧の伝統的な和声法から逸脱しており、旋律は旋法的である(第1曲は、C-Dマイナー-Eという和声進行で始まる)。まずこの点がムソルグスキーに近い。リズムは自由に伸縮し、しばしば拍子が指定されておらず、民族音楽にありがちなパルランドな(つまり話し言葉のような抑揚とリズムをもつ)旋律法がとられている。「西欧的・合理主義的」といわれるモスクワ楽派の出身でありながら、誰よりもラフマニノフが民族色濃厚な(ムソルグスキーの精神的な後裔といいうる)宗教曲を創り出したことは興味深い。知的で情緒が鋭敏な感性を以って、古い伝承単声聖歌を大時代な現代へも通じる形で提供した功績は大きい。
この作品とほぼ同時期に作曲された作品において、ラフマニノフの作風がチャイコフスキーよりも「ロシア五人組」のそれに限りなく接近している点を見逃してはならない。たとえば、練習曲集《音の絵》作品33-1や作品39-4は、民族音階や教会旋法の利用、変拍子やしばしば頻繁な拍子の変更をとることで、やはりムソルグスキーの作風を髣髴とさせている。
[編集] 脚注
- ^ CD『Night Vigil』グラモフォン社(1994年)に、ラフマニノフの徹夜祷が実際に奉神礼に用いられたライブ録音が収められている。場所はサンクトペテルブルクの顕栄大聖堂、司祷と歌唱は同聖堂の神品と聖歌隊による。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 関連資料
- Vladimir MOROSAN, "Choral Performance in Pre-Revolutionary Russia" (MUSICA RUSSIKA; 1984,1986,reviced 1994)