ドレフュス事件
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ドレフュス事件(ドレフュスじけん、Affaire Dreyfus)とは、1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部勤務のユダヤ人大尉であったアルフレッド・ドレフュスに対する冤罪事件である。
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[編集] 事件背景
普仏戦争に敗れた結果、鉄鉱石と石炭の豊富なアルザス・ロレーヌ地方を失い、莫大な賠償金を課せられたフランス経済は大きな困難に直面した。国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロートシルト(ドイツ語読みカナ表記。英語読みでロスチャイルド)系などのユダヤ系金融資本が、国民の零細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへの投資を行った。しかし1882年には金融恐慌が発生し、多くの投資銀行が破産に追いやられた結果、貯蓄をなくした人々は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせた。一方、保守派と軍部はドイツに対する報復と熱狂的な愛国主義を煽り、1880年代後半には、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジェ将軍が右翼・軍部の支持の下に独裁政権の樹立を図る事件を起こし失敗していた(ブーランジェ事件)。
[編集] 国論を二分する大事件に
このような第3共和政下の不安定な状況の中で起きたのが、1894年のドレフュス事件である。同年9月、フランス陸軍情報部は、パリのドイツ駐在武官邸からフランス軍関係者内に対独通牒者がいることを示すメモを入手した。フランス陸軍参謀本部は漏洩した情報を知りうる立場にいた人物達の調査を行い、筆跡が似ているとして、参謀本部付きのユダヤ人砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスを逮捕した。しかし具体的な証拠どころか、ドレフュスが金銭問題を抱えている、もしくは急に金回りが良くなったなどといった状況証拠すら欠いていたため、スパイ事件及びドレフュス逮捕の事実はすぐには公表されなかった。
この事実を、反ユダヤ系の新聞「自由言論」がすっぱ抜きで大々的に報じ、ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っていると論じて、軍部の優柔不断を糾弾した。慌てた軍上層部は、証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュス「有罪」の判決を下し、南米のフランス領ギアナ沖のデビルズ島(悪魔島)に終身城塞禁錮とした。
ドレフュスは初めから無罪を主張しており、彼の誠実な人柄から無実を確信した妻のリュシーと兄のマテューらは、再審を強く求めるとともに、真犯人の発見に執念を燃やした。1896年、情報部長に着任したピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐であることを突き止めた。しかし軍上層部は、軍の権威の失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを脅して左遷、形式的な裁判でエステルアジを「無罪」とし釈放した。
その翌々日の1898年1月13日号の新聞「オーロール(曙)」は、一面に「私は弾劾する」という大見出しで、作家エミール・ゾラによるフェリックス・フォール大統領宛ての公開質問状を掲載した。その中でゾラは、軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。
世論は沸騰し、それまで細々と続けられてきたドレフュス支持の運動が一挙に盛り上がる一方、各地でユダヤ人迫害事件が頻発した。ゾラも名誉毀損で告発されて有罪判決を受け、一時イギリスへ亡命を余儀なくされた。ドレフュスらの再審を求める勢力は「人権擁護同盟」を結成して、正義と真理、自由と平等を唱え、軍国主義批判を展開した。反対派は「フランス祖国同盟」を結成して国家の尊厳、軍部の威信を力説した。
こうして事態はドレフュス個人の問題から、自由と民主主義・共和制擁護か否かの一大政治闘争の色彩を帯び始め、フランス世論を二分して展開された。その後、ドレフュスの無実を明らかにする事件(彼の有罪の証拠となったものが、偽造されたものであることが判明)が続いたため、軍部は世論に押されてやむなく再審軍法会議を開いた。しかし、ドレフュスの有罪は覆されなかった。
ドレフュスは時の首相により特赦で釈放されたが、その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取って名誉を回復することができた。この事件は軍の威信を傷つけ、軍部と保守派の力を大きく後退させ、その後のフランス軍の弱体化を招くひとつの大きな要因となったと考えられている(事実、本事件後のフランス軍は、植民地関連を除き単独での軍事的勝利を収めた経験を持たない)。その一方で、ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派が、その後のフランス政治の主導権を握り、第3共和政はようやく相対的安定を確保することができたとされている。
[編集] 愛国主義者と事件
常々「愛国者」を自称していた軍首脳及び右派であったが、自己の保身とユダヤ人排撃のために、本来売国奴として糾弾すべき真犯人のエステルアジを庇護しつづけた。このためのちに“自称「愛国者」が売国奴と結託した”あるいは“自称「愛国者」こそが実は売国奴”であったなど、内外の失笑を買った。また彼らは、さまざまな偽証行為によりドレフュスの「有罪」とエステルアジの「無罪」の立証を図り、さらに偽証発覚後も「国家の敵ユダヤ人に対抗するための愛国心の発露」などと主張して偽証行為の正当化を図った。これらの愛国心の“大廉売”により、フランスでは右派及び軍部の権威は大いに低下した。
[編集] 偽証と軍事機密
ドレフュス無罪の可能性が高まり有罪の根拠となった証拠の偽造問題が取り沙汰されはじめると軍部は“国家の安危に関わる軍事機密情報”が含まれているとして偽証を示唆された証拠の開示を拒んだ。しかし元首相によって“当時首相として証拠を詳しく確認したが機密情報などは含まれていなかった筈”との声明がだされ、軍部の主張は覆された。これにより開示された証拠には勿論機密情報などは存在しなかった、またその内容についても軍部による改ざん、偽造の疑いを抱かせるに充分なものであった。これら軍事機密の濫用により軍部の権威は更に低下した。
[編集] 後世への影響
この事件を新聞記者として取材していたテーオドール・ヘルツルは、社会のユダヤ人に対する差別・偏見を目の当たりにしたことから、ユダヤ人国家建設を目的とするシオニズム思想を提唱、この思想及びそれに基づく諸運動がのちのイスラエル建国へと繋がっていくこととなった。
[編集] 関連項目