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植民地 - Wikipedia

植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

植民地(しょくみんち)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。殖民地とも表記する。古くは古代ギリシア古代ローマなどにも見られるが、以下では15世紀に始まる大航海時代以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にある領土を植民地という。

目次

[編集] 概要

古代にも植民地はあるが、「植民地」の規模をそれまでにないほど大きくしたのは近代西欧諸国の産業資本主義の対外交易戦略によってである。初期にはポルトガル・スペイン両帝国が、19世紀から20世紀にかけては英国が、植民地交易によって世界覇権を握った。

一般に帝国主義先進国が植民地を原料工場・商品市場として開発するとともに、住民を政治的に抑圧支配する。抵抗勢力は虐殺されることが多い。例えばフランス帝国はマルティニーク島の原住民を殲滅し、島民は絶滅したといわれる[1]。また戦時には戦略上の理由から接収されることもある。

植民地を獲得するとき、軍事力による制圧また交渉による場合もあるが、いずれにせよなんらかの形で獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。

1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は以降現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[2]。こうした一連の過程を脱植民地化という。

また、ハイチには独立後も列強が介入し内戦を繰り返すなか、仏国からは巨額の「賠償金」を請求された。そうした負債も重なり自国で経済システムを構築できず、2008年現在西半球最貧国であり、植民地問題の爪痕はいまも解決されていない。

[編集] 植民地化の要因

植民地化の動機・要因には、主に以下のようなものがある。

[編集] 植民地の統治形態

植民地の統治形態には、以下のものがある。

  1. 外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領
  2. 現地のや族長を通じて支配する間接統治。
  3. 本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治。
  4. 本国が外交防衛のみを担当し内政は現地住民によって構成された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。

一般的に植民地統治が継続する中で1.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を失っていく傾向にある。

植民地における主権は領有国が有するが、特殊な形態として租借地租界、複数国による共同統治領、国連の委任統治領信託統治領などがある。

[編集] 統治下の差別・分離政策

植民地では先住民の反乱や独立運動を抑圧するために、本国とは異なった法律が施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは別個の法的身分に編入され、権利義務について別個の取り扱いがなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。こうした差別政策の背景には、植民地制度を正当化する植民地主義があり、優位の民族(植民者)が劣位の民族(先住民)に「文明」を授けるのは当然などといった、人種差別の思想をもたらした。

1945年時点の植民地
1945年時点の植民地

[編集] 植民地主義

植民地主義および 脱植民地化を参照

[編集] 現在の植民地

現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、国連総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。現在でも領有国が公に植民地としている地域にケイマン諸島などがある。

逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、西ドイツの植民地支配を受けていると主張する人もいる[要出典]。また中国ではチベット自治区新疆ウイグル自治区などの地域でも同問題が顕在化している。

[編集] その他

少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われている地域を通俗的に植民地と呼ぶこともある。

[編集] 植民地支配に対する評価

かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に国連総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。

旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域に齎した善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配が住民に与える文化的、心理的ダメージを重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。

[編集] ヨーロッパ諸国

マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブス大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。

[編集] スペインとポルトガル

ポルトガルが領有したことのある地域 - 1410-1999
ポルトガルが領有したことのある地域 - 1410-1999
スペインが領有したことのある地域
スペインが領有したことのある地域

ポルトガル海上帝国ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化、および スペインによるアメリカ大陸の植民地化も参照

ポルトガルスペインイベリア半島におけるイスラム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米メキシコ南米ペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。

ポルトガルとスペインの領域を分けたのは、1494年ローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年サラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。

ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルブラジルを発見。1511年マラッカの領有後はマカオ長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本キリスト教布教にも成功した。17世紀に入り、アジアで新しく参入したオランダイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。

スペインは1521年コルテスによるアステカ帝国征服、1533年ピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが、勃興するイギリス帝国の経済支配下に置かれ、さらに王朝交代によりその支配力は急激に弱体化した。1810年に至ると、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じ、独立を試みる。植民地当局に対し、現地生まれのクリオーリョはその後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海キューバプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。

1921年時点のイギリスの植民地
1921年時点のイギリスの植民地

[編集] イギリス

イギリス帝国および イギリスの海外領土も参照

イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸に植民し、ニューイングランド植民地が成立、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社インドの諸勢力を巧みに操ってインドに植民地を広げる。七年戦争ではフランスと争い、カナダを獲得、インドからフランス勢力をほとんど駆逐した。

19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することになる。その植民地はあまりにも多くてすべてを列挙することはできないが、東南アジアビルマ海峡植民地(後のマレーシア)、中国香港、流刑植民地として出発したオーストラリアニュージーランドアフリカではナイジェリア南アフリカ南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。また1997年には香港中華人民共和国に返還している。

ただし、現在でもケイマン諸島ヴァージン諸島バミューダ諸島などのカリブ海大西洋の島々、フォークランド諸島ジブラルタルなどを海外領土として保有している。

[編集] フランス

フランスの植民地帝国。第1次(青)と第2次(紺)
フランスの植民地帝国。第1次(青)と第2次(紺)

フランス植民地帝国および フランスの地方行政区画も参照

フランスは当初、カナダケベックカリブ海マルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアタヒチニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府が強行した核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を強行、今も解放闘争が続いている。

[編集] オランダ

オランダ海上帝国も参照

オランダの植民地(17世紀から20世紀までを重ね合わせたもの)
オランダの植民地(17世紀から20世紀までを重ね合わせたもの)

オランダ17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれる。20世紀に入っても東インド植民地(インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していた。しかし度重なる英蘭戦争北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行った。

20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海オランダ領アンティルアルバの二つの海外領土を持っている。

[編集] ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦)

ロシアの植民地及び影響下にある地域
ロシアの植民地及び影響下にある地域

ロシア帝国15世紀モスクワ大公国キプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧した。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がるとぶつかり、ネルチンスク条約キャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争アロー号事件のどさくさにまぎれ、満州アムール川以北と沿海州外満州)を次々に併合、植民地化した。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争第一次世界大戦によって日本ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅んだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国が、新たに連邦に加盟した。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然であった。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。

[編集] その他のヨーロッパ諸国

青:ドイツの海外領土赤:プロイセン時代の海外領土
青:ドイツの海外領土
赤:プロイセン時代の海外領土
イタリアの植民地
イタリアの植民地
ベルギーの植民地
ベルギーの植民地

[編集] 日本

[編集] 大日本帝国時代の統治地域

大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2’. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島
大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2’. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島

大日本帝国も参照

日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄大東諸島尖閣諸島を含む)と北海道小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もある。

しかし、主に第二次世界大戦以前の日本の植民地とされる地域については、いわゆる内地とは異なる内容・形式の法令が施行されていた点を重視し、以下の5つの地域を日本の植民地とする見解が一般的である。

これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかったが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていた。ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入された。

[編集] 「外地」と植民地

日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかである(1を参照)。

法令による規定を見ても(1)内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと、(2)外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと、(3)樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかが議論の遡上にのぼることはほとんどない。

また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピンベトナムラオスビルマカンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から日本の植民地同然だったと理解する考え方もある(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。

[編集] 日本の海外支配地域を植民地とすることへの異論

日本の保守系の論壇誌やウェブサイト等における主張など、学術的な正確性が担保されない場などでは、同年代に植民地と呼ばれた地域とはその内実が異なる(欧米のそれが非人道的、非合法、収奪的であるのに対し日本のそれは人道的、合法、恩恵的である、など)という認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もある。このような議論がなされる理由として、かつて日本が、大東亜戦争において、列強の植民地支配の打破を名分として掲げたことが挙げられる[3]。もし日本が植民地を保有していたとすれば、欧米諸国に対して植民地の放棄を求めることは二重基準であり、失当であるとの謗りを免れない。このため大東亜戦争における日本を擁護する立場からは、日本が植民地を保有していなかったと主張する必要があるのである。

また、大韓民国にあっては、韓国併合を違法無効とする立場から、日本の朝鮮支配は植民地支配ではなく、単なる軍事占領であるという見解も存在する。

[編集] アメリカ合衆国

アメリカはイギリスから植民地 13 州を割譲されて独立したが、その後もイギリス、フランススペインメキシコから植民地や領土を割譲されまたは買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカロシアから買収、ハワイを併合しその後州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海キューバプエルトリコ東南アジアフィリピングアムを植民地化した。もっとも、キューバはすぐに独立させたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においた。

アメリカは建国の成り立ちからして、他国の領土を支配するという考えに反対する人々が多いこともあり、植民地を直接経営するよりも独立した国家を間接的に支配することを好んだ。例として、米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治経済的に影響下に置いた。これは直接には植民地としていないが、「経済植民地」とでもいえる事実上の植民地下に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送り、傀儡政権となる軍事独裁政権を樹立させるなど、主権を無視した内政干渉を繰り返した。この体制は、中米や中東において現在も変わっていない。また、フィリピンは第二次世界大戦後に独立させたものの、同じく政治、経済、軍事すべてにおいて完全にアメリカの支配下に置いた他、戦後に日本から獲得した南洋諸島北マリアナ諸島を除いて独立したものの同様の状況下にある。

なお、中米にはプエルトリコが、自治領として存続している。プエルトリコも北マリアナ諸島も、アメリカからの独立の勧告を無視し、実利を取ってアメリカの治下にとどまっている。

[編集] 中華人民共和国

チベットおよび 東トルキスタン独立運動も参照

中華人民共和国チベット西蔵自治区青海省など)や内モンゴル内蒙古自治区)、東トルキスタン新疆ウイグル自治区)などを中華民国から継承したが、これらの地域は法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であり、住民は中華人民共和国公民としての公民権を一応有していると中国政府は主張するが、これらの地域では現在問題となっているような民族元来の文化、宗教、思想の弾圧が行われており、特に東トルキスタンチベットにはその傾向が強い。さらにチベット民族の政治的・労働的劣位が明かであることがにされている(米国務省「世界の人権状況」2002年次報告)。 もともと、1950年に中国共産党軍がチベットを武力侵略した狙いは、チベットの豊富な鉱物資源だったといわれ、実際に鉱物資源を輸送する青蔵鉄道の建設、大規模な採掘事業など、チベット鉱物の開拓は中国の国策として着実に進められている。また中国政府が推進する「チベット地域支援政策」によって、大量の漢民族が社会的・経済的優位が保障されるチベット自治区に流入し、現在の自治区人口比では漢民族がチベット民族を凌駕している。 さらに前述の政治的・労働的優位性のもとに、漢民族がチベット民族を低廉な賃金で就労させている現状が米国務省報告に記載されており、資源の搾取、原住民族の労働力化など、植民地定義の要件を満たす実態があり、東トルキスタン亡命政府チベット亡命政府などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用するように、自治区という名目の中国植民地であるという理解がなされることが多い。

[編集] オマーン

オマーンは17世紀にはインド洋に海洋帝国を構築し、同沿岸のザンジバル(現タンザニア領)やパキスタン沿岸のグワダルを保有した。

[編集] イスラエル

イスラエルは宗主国無き植民地とも言える国家である、と主張する者もいる(エドワード・サイードなど。反論もある)。第一次世界大戦オスマン帝国が敗北すると、中東アラブ地域は新たにイギリスフランスの植民地となり、ユダヤ人が約束の地と崇めるパレスチナは委任統治領としてイギリスの管理下におかれ、ヨーロッパアメリカ合衆国からユダヤ人が入植した。ポグロムから逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。

アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。ナチス・ドイツ時代や、第二次世界大戦後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、国際連合の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、中東戦争の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の戦争を経ても双方の言い分は平行線をたどる。

また、冷戦終結とソビエト連邦の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。特にこれらのユダヤ人は、第三次中東戦争でイスラエルが獲得したヨルダン川西岸地区などに入植する場合あり、パレスチナ問題を複雑にしている。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ エメ・セゼール『帰郷ノート・植民地主義論』平凡社
  2. ^ エリック・ウィリアムズガルブレイスの見解。また世界システム論世界経済の項目を参照。
  3. ^ クリストファー・ソーン『太平洋戦争とは何だったのか』草思社,pp.48-55,pp.89-93.

[編集] 外部リンク


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