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チベット自治区 - Wikipedia

チベット自治区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

チベット自治区
西藏自治区
བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས་
略称: 藏 (拼音: Zàng)
チベット自治区の位置
自治区首府 ラサ市
最大都市 ラサ市
区委書記 張慶黎(前新疆ウイグル自治区副主席)
自治区主席 シャンパ・プンツォク(前ラサ市委書記)
面積 1,228,400 km² (2位)
人口 (2004年)
 - 人口密度
2,740,000 (31位)
2.2/km² (31位)
域内総生産 (2006年)
 - 一人あたり
290.1 億 (31位)
10,322 (26位)
人間開発指数 (2005年) 0.586 () (31位)
民族 92.8% チベット族
6.1% 漢族
0.3% 回族
0.3% メンパ族
0.2% その他
地級行政区 7
県級行政区 73
郷級行政区 692
ISO 3166-2 CN-54
公式サイト
http://www.xizang.gov.cn/

チベット西蔵自治区(チベット/シーツァン-じちく、中国語: 簡体字: 西藏自治区, 拼音: Xīzàng Zìzhìqū, チベット語: プー・ランキョン・ジョン[1], チベット文字:བོད་རང་སྐྱོང་ལྗོངས་; ワイリー方式bod rang skyong ljongs)は、中華人民共和国(以下、「中国」)の西南部を占める区域自治区である。略称は。区都はラサ市

目次

[編集] 概要

中国の公認された少数民族としてのチベット族(蔵族)の居住領域に設けられた民族自治区とされるが、チベット自治区の領域は歴史的・文化的なチベット地域のうちの、中国領に内包される部分の一部で、歴史的に西蔵と呼ばれてきた地方を占めるのみ[2]であり、中国語による名称は「西蔵自治区」という。一方、日本語では戦前から長く西蔵とチベットはほとんど同義であるかのようにして用いられてきており[3]、「チベット自治区」と「西蔵自治区(チベットじちく、シーツァンじちく、などの読みが見られる)」というふたつの呼称が平行して使用されてきた[4]

しかしながら、政治的単位としてのチベットが、歴史的・文化的なチベットの全体ではなく、中国によって設定された行政区域であるチベット自治区と同一視されることもしばしばある[5]。こうした視点は、そもそも前述の日本語における戦前からの「チベット」の意味合いから逸脱したものではないが、「中国主権下での自治」に関する中国政府とチベット亡命政府の交渉において、歴史的・文化的なチベット全体の一体性の回復を要求する亡命政府側の要求に対して、中国政府が政治的なチベットの範囲をチベット(西蔵)自治区の領域(西蔵)のみに限定しようとする立場を取ることと軌を一にするものとする指摘もある[要出典][6]であり、中国政府のチベット政策に反対する人々は、チベットとチベット(西蔵)自治区の同一視に対して異議を唱えている[要出典]

チベット自治区は、チベットの伝統的な地域区分にいう、ガリーウーツァン・コンポ・タクポ・三十九族・チャンタン・カム地方の西部などに相当し、中国政府はこれをラサ市山南地区シガツェ地区ナクチュ地区ガリ地区ニンティ地区チャムド地区に区画している。

[編集] 歴史

[編集] 「西藏」の成立

中国に成立した政権、中国を征服し中国に本拠を置いた歴代の政権で、チベットの内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、フビライ政権以降のモンゴル帝国と、雍正帝以降の清朝が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、1723年、雍正帝によるグシ・ハン一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくは「チベット」の項を参照)。

雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴルの各部族を青海アムド)地方において30の「」に編成して理藩院の管轄下に置き、その属領を二分してタンラ山脈(唐古拉山脈)、ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南側をダライラマ領に加え、この線の北側には青海地方を設けたほか、残る部分を隣接する甘粛省四川省雲南省などの諸省に分配し、これらの土地のチベット人諸侯に各級の土司職の称号を与え、兵部を通じて支配下に置いた。

グシ・ハンによって1642年に寄進されたヤルンツァンポ河流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西藏」地方である。

[編集] 「西康地方」の成立から廃止まで

雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年、ヤングハズバンド率いる英領インド軍の侵攻に驚いた清朝は、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、中国に施行していた制度によって直接掌握することを決意、1905年、趙爾豊ひきいる四川軍を西方に向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗を粉砕し、チベットを東方から次第に軍事的に制圧しながら1909年ラサに到達、四川省の西部とダライラマ領の東部(すなわちカム地方)に「西康」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「」の設置に取り組もうとした。

しかし1910年に中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベットを占領していた清朝軍は動揺、インドに脱出していたダライ・ラマ13世は、1913年チベットに帰還し、チベットの独立を求めて清朝軍の残党に対する抵抗を指令、中国人の占領軍はディチュ河の線まで押し戻された。

チベット政府がチベット全域の領有を目指したのに対し、中国側では青海・甘粛で清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称し、チベット全体が中国領であると主張し続けた。 南京国民政府は、1931年、実際にはチベット政府の統治下にあるカム地方西部を含め、カム地方全域を管轄地域とする「西康省」を発足させた。

中国共産党は、国民党との内戦に勝利し、チベットに対しても、1949年までにアムド青海)地方、カム地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「中国人民政府」を発足させた。そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。

中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部(昌都地区)については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された「昌都解放委員会」の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人の比率が低く、国民政府が「西康」地方に帰属させていた南昌地区は、雲南地方に移管された。この「自治区」は1955年に廃止され、カム地方東部は四川省に組み込まれ、中国によるチベットの行政区分は、雍正期以来の状況に回帰することとなった。

[編集] 西藏自治区の成立

チベット政府が「西藏和平解放」によって締結を強要された「十七ヶ条協定」は、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰」するものと規定するものであったが、ダライラマを初めとするチベット政府の各級職員が引き続き「西藏」部分の統治に当たり、「改革は強要されない」という規定もあった。しかしながらこの協定の適用範囲はあくまでも「西藏」地方に限定され、その他のチベット各地では中国本土で何年もかけて徐々に展開された「民主改革」「社会主義改造」が、1950年代半ばから、チベット社会の独自性を無視して一挙に強要されることとなった。

「改革」が、諸侯・俗人貴族の政治的地位や特権の廃止に留まっている間は、むしろ歓迎されていたが、「改革」による攻撃の矛先が寺院僧侶に向かった段階で、チベット人の反発は一挙に民衆レベルにまで拡大、1956年よりアムド・カムの全域で中国支配に反発する一斉蜂起が始まった。 1959年に頂点を迎える「チベット動乱」の勃発である。蜂起の当初は、中国の統治機構をアムド・カムのほとんどから一時的に一掃する勢いであったが、ただちに中国軍の強力な反撃が組織され、各地の蜂起軍は大量の難民とともに、西藏地方に逃れた。蜂起軍は西藏において統一抗中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成、中国に対する組織的なゲリラ活動に踏み出した。

争乱は1959年にラサに波及、ダライ・ラマ14世はインドへ脱出。中国政府は「チベット政府の廃止」を宣言、西藏地方を「西藏自治区籌備委員会」の管轄下に置く。

1966年、西藏自治区が発足。

[編集] チベット併合と独立問題

チベットを参照

[編集] 略年表

チベット史一般についてはチベット参照。

[編集] 地理

自治区は北東部で新疆ウイグル自治区、北西部で青海省、東は四川省、東南部で雲南省と接し、南はミャンマーインドアッサム州、ブータンネパールカシミール地区と国境を接する。

青藏高原の中心をなすチベット高原は海抜 4,000 メートル以上の大高原であり、「世界の屋根」と称される。高原南部のヒマラヤ山脈は急峻な山々が峰を連ね、ネパール国境にあるチョモランマ峰は海抜 8,848 メートルに達する世界最高峰である。またチベット高原北部は中国で最も湖が多い地方である。

チベットの気候は冬が長く、夏がないが、日照は十分にある。空気が希薄なため、外来者は高山病にかかりやすい。高山病の対策は身体を徐々に慣らして行くことである(高度馴化)。 日本の約6倍の面積。

[編集] 民族

2002年の人口267万人のうち、チベット族が93%を占め、漢族が6%でこれに次ぐ。残りは回族0.3%、モンパ族0.3%などわずかに過ぎない。

[編集] 観光

首府ラサとシガツェ地区のシガツェ、ギャンツェは国務院により国家歴史文化名城に指定されている。ラサ市内のダライラマの冬宮であったポタラ宮1994年ユネスコ世界遺産に登録され、チベットで最も神聖な寺院であるジョカン(大昭寺)も2000年には拡大登録、更にはダライラマの夏宮であったノルブリンガも2001年拡大登録された。

[編集] 行政区画

チベット自治区は1地級市及び6地区からなる。

ラサ市
市区:城関区
県:ルンドゥプ県タクツェ県ニェモ県ダムシュン県チュシュル県メルド・グンカル県
ナクチュ地区
県:ナクチュ県ラリ県ディル県ニェンロン県アムド県シェンザ県ソク県パングン県バチェン県ニマ県双湖特別区
チャムド地区
県:チャムド県ジョムダ県ゴンジョ県リウォチェ県テンチェン県ダクヤプ県パシュー県ゾガン県マルカム県ロロン県バンバル県
ニャンティ地区
県:コンポギャンダ県ニンティ県ナン県ナリン県ポメ県ザユル県メトク県
山南地区
県:ナンカルツェ県コンカル県ダナン県ネドン県チョンギェ県ツォメ県ロダク県サンリ県チュスム県ルンツェ県ツォナ県ギャツァ県
シガツェ地区
県級市:シガツェ市
県:ナムリン県ギャンツェ県ティンリ県サキャ県ラツェ県ガムリン県、シェトンモン県、パナム県、リンプン県、カンマル県、ディンキェ県、ドンパ県、ドモ県、キドン県、ニャラム県、サガ県、ガムパ県
ガリ地区
県:ガル県、ルトク県、ツァンダ県、プラン県、ゲギェ県、ゲルツェ県、ツォチェン県

[編集] 経済

2002年の全区生産総額は161億人民元で、全国32省区市のうち32番目であった。ただ。一人当たり生産額は 6,046 元で、全国22番目である。チベット族の 80% は農牧に従事しており、貧困地域が多いが、開放政策によりラサやシガツェ、ギャンツェなどに観光客が入るようになり、観光業の伸びが著しい。また、自治区内の農民や遊牧民はあらゆる税が免除される。さらに2000年からチベット自治区でも国務院西部大開発政策が実施され、青蔵鉄道や道路の建設などが加速している。2004年の全区輸出額は対前年比 6.9% の 13,008 万米ドル、輸入は対前年比 136% 増の 9,345 万米ドルであった。また個人が辺境で行う零細な貿易も対前年比 31% 増の2億人民元に達したと報告されている。

ただ、中国全省の政府工作報告は2005年1月に行われた「2005年政府工作報告」までネットで閲覧できるのに、チベット自治区の政府工作報告は2003年までしか公表されておらず、極めて異例な事態となっている。

大量の石油天然ガスや鉱物資源(希土類元素)の存在も確認されている。

[編集] 軍事

西部のガリ地区を除く自治区全域は成都軍区(王建民司令員)の管轄下にあり、下級のチベット軍区には 第52山地旅団 、第53山地旅団の存在が確認されている。新疆との関係が強いガリ地区は蘭州軍区が管轄する。また公安部(警察)に所属する武装警察部隊数十万が駐屯するとも言われる。

[編集] 教育

[編集] 交通

[編集]

  1. ^ 。「プー」はチベットを意味するもっとも一般的なことば、「ランキョン」は「自治」、「ジョン」は「省級の区」に相当する行政単位を意味する。
  2. ^ 歴史的・文化的なチベット地域のうちの中国領の部分は、現在、民族区域自治単位であるチベット自治区(西蔵)及び民族区域自治単位ではない青海省のほか、四川省の2州1県、甘粛省の1州1県、雲南省の1州など、級、級、級の民族区域自治単位に分かたれている。なお、かつては西蔵の東方に、西康省の全域を領域とする西康省蔵族自治区が別に存在していたが、1955年にこの省が廃止され、自治州に格下げされて四川省に併合されたため、現在のところチベット自治区のみがチベット族のための唯一の省級の民族区域自治単位となっている。
  3. ^ 青木文教「チベット」『東洋歴史大事典』中巻、平凡社、1938年(復刻:臨川書店、1986年)、p.1137
  4. ^ もっとも、近年の日本政府関係資料や日本のマスコミの用法では「チベット自治区」の呼称がより多く見られる(例えば、[1])。本項の項目名も、こうした傾向に依拠している。ただし、「チベット自治区」という呼称を政治的な問題から嫌う向きもあることは後述するとおりである。[要出典]
  5. ^ 例えば、日本語の代表的な事典では、『マイペディア』、『ブリタニカ国際大百科事典』などがチベットとチベット自治区を区別せずに立項している。
  6. ^ 例えば、中国政府が日本語で出版する文献中の、西蔵部分のみを指す「チベット地方」という用語[要出典]や、西蔵部分のみを領域とする自治区に対する「チベット自治区」などの用語は、中国政府の上記立場を忠実に反映した呼称である[要出典]。この問題に関しては、西蔵及び雍正のチベット分割も併せて参照のこと。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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