小笠原諸島
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小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京の南南東約1000kmの太平洋上にある30余の島々である。日本の国土で東京都小笠原村と完全に一致する。総面積は104km²。
小笠原諸島は以下の島々からなる。
父島、母島、硫黄島、南鳥島以外の島は無人島である。但し硫黄島には自衛隊、南鳥島には自衛隊、気象庁、海上保安庁の施設があり、関係者のみが常駐している。
小笠原群島は小笠原諸島の一部の名称だが時折混同され、小笠原群島の意味で小笠原諸島と言うことがある。英語では小笠原諸島はOgasawara Islands、小笠原群島はBonin Islandsである。「Bonin Islands」は江戸時代の無人島(ぶにんしま、ぶにんじま)という呼び名に由来する。
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[編集] 自然
気候は聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島では亜熱帯に属し、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島では熱帯に属する。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。「台風シーズン」というものはなく、台風自体発生しない2-3月頃を除いてやってくる。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため北海道と同様に梅雨が無い。日本全国で唯一気象に関する注意報・警報が発表されていなかったが、2008年3月26日から発表されるようになった。[1]。
小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げている。そのため東洋のガラパゴスとも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。
周辺の海域では鯨やイルカが生息しているため、それらを見るために島を訪れる人も多い(小笠原村#名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事を参照)。
[編集] 歴史
- 古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[2]。
- 北硫黄島には先史時代のものとみられる遺跡がある。また、父島でも石器が発見されているが詳細な時代は不明。
- 1543年 - スペイン人によって母島が発見される?
- 1593年 - 小笠原貞頼が発見したという説があるが、現在では否定されている。
- 1670年 - 紀州の蜜柑船が母島に漂着し八丈島経由で伊豆下田に生還、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された(現在ではこの報告例が最初の発見報告と考えられている)。
- 1675年 - 江戸幕府が漂流民の報告を元に調査船富国寿丸を派遣し島々の調査を行い「此島大日本之内也」という碑を設置する。当時は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた。また調査結果は将軍はじめ幕府上層部に披露された。
- 1727年 - 貞頼の子孫と称する小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴え出る、小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである。最終的に貞任の訴えは却下され探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定された。
- 19世紀になると欧米の捕鯨船が寄港するようになり、1827年にイギリスが領有を宣言。
- 1830年 - ラセニエル・セボレーら白人5人とハワイ人25人がハワイ・オアフ島から父島に入植し、初めての移住民となる。
- 1847年 - ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航。後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになる。
- 1857年 - ペリーが寄港してハワイからの移民を首長に任命した。
- 1861年 - 幕府が小笠原の領有を宣言。それに先立ちアメリカから帰還したばかりの咸臨丸(艦長は小野友五郎)で小笠原に官吏を派遣し、測量を行う。のち八丈島から移民を送った。
- 1876年 - 日本の領有が確定。それまでの住人は日本に帰化した。
- 1928年 - 東京府東京市下谷区上野で「東京大正博覧会」開催。『小笠原館』で小笠原住民が"陳列"される。
- 戦前はトラック諸島やサイパンなどの南洋に向かう船が、半月に一度寄港していた。1936年当時、父島までの2等料金が37円。公務員の初任給が75円の時代だった。
- 現在のようなビニールハウスがなかった時代、小笠原では季節外れの果物や野菜を栽培して本土に送っており、それが本土でもてはやされたため、住民は豊かな生活を送っていたといわれている。
- 第二次世界大戦時に硫黄島は激戦地となり、父島なども要塞化。住民は本土へ疎開。戦後、サンフランシスコ講和条約によりアメリカ海軍の統治下に置かれ、欧米系の旧島民135名のみに帰島が許される。
- 1968年4月 - 日米間で小笠原復帰協定が締結された。
- 1968年6月26日 - 日本に返還された。
- 1969年 - 本土と小笠原を結ぶ無線電話回線が開通した。
- 1970年 - 小笠原復興計画が閣議決定。
- 1972年 - 東京電力が小笠原父島内燃力発電所の操業を開始。
- 1976年 - 時雨ダムが完成。父島ケーブルテレビが開局。
- 1994年 - 天皇・皇后が小笠原諸島を訪問する。
[編集] 米軍施政下の小笠原
米軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は1ヶ月に1回グアム島からの軍用船によって行われた。欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められ、その多くは米軍施設で働いた。島民の自治組織として五人委員会が設けられた。島の子供たちは軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で軍の子弟と一緒に学び、高等教育はグアム島で行われた。米軍によって戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められたことは日本返還後も効率的な開発の都合から踏襲され、戦前の土地所有者との補償交渉で揉めることとなった。後に、日本政府の意向を無視して父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことがアメリカの情報公開によって知れ渡った。軍政時代に数基の核弾頭が保管されていたという。1950年代にも国務省が小笠原の日本返還を検討したがアメリカ海軍を始めとする国防総省が反対したため、頓挫した。その理由は核兵器の保管が理由であったという。また、多くの欧米系住民の子弟が日本語教育の困難な問題により返還後多くが米国に移住した。
[編集] 文化
[編集] 言語
欧米系住民が話していた英語のフレーズと日本語八丈方言、日本語標準語がミックスされた独特の日本語新方言「小笠原方言」と呼べるものが存在する。しかしテレビ放送の影響により、現在では日本語標準語に近くなっている。言語接触の結果によるピジン言語・クレオール言語の例として扱いうる[3]。
[編集] 民謡
日本的なものと、ミクロネシアの影響を受けたものが共存する。後者の民謡は『南洋踊り』と呼ばれ、2000年に東京都指定の無形民俗文化財となった。
[編集] 食
固有の植物や海産物が多く採れるため、珍しい食文化が存在する。有名なものとしては、ボニンコーヒー、海亀肉、島魚を使った焼き物・煮物・島寿司・味噌汁、パッションフルーツ・マンゴー・パパイヤ・グァバなどを用いたデザートやリキュールなどがある。
[編集] 産業
小笠原の就業者のうち公務員が3割を占め、観光業や飲食業などを加えて第三次産業従事者が7割超である。以下第一次産業が1割、第二次産業が2割となっている。基本的には公務員の給与、都や村の発注する公共工事及び観光によって成り立っていると言える。かねてから要望のある空港建設による土木関係の雇用創出や、空港開設後の来島者増加による観光業の発展を期待する人も多い。
パッションフルーツ、レモン、マンゴー、コーヒー(日本では沖縄と小笠原のみ)の栽培のほか、はちみつ、塩、ラム酒の製造も行い、これらは土産のほか本土にも出荷される(但し、サツマイモやアサガオなど一部の農産物や植物は本土には存在しない害虫の移出を防ぐため、諸島外への持ち出しに厳しい制限がある)。
[編集] 教育
父島に小笠原村立小笠原小中学校と東京都立小笠原高等学校、母島に小笠原村立母島小中学校があり、一通りの教育機関は揃っているが、高等教育を受けるために島を離れる子供は多い。孤島ゆえに教員の数も不足しがちで、NHK教育テレビジョンなどの通信教育を積極的に活用するなど質の高い教育を維持するための模索が続いている。最近、小笠原でも生涯学習機関設置の要望が高まってきており、どのようにすべきか検討されている。
[編集] ショッピング
本土からの物資輸送は定期船「おがさわら丸」(通称:おが丸等)に頼る部分が非常に大きい。入港日には商店が活気付くことからも、おがさわら丸が小笠原諸島の生活サイクルの中心になっていることが窺える。東京都では生活必需品に限り運送費を補助し、価格の安定化を図っている。
物流面の制約から伊豆諸島と同様にファストフード店やコンビニエンスストアといったチェーン店は存在しないが個人営業の食堂や商店等はあり、食料品や日用品も販売されている。但し書店がなく、購入できるのは商店で売られているごく限られた雑誌や書籍のみである。新聞の宅配もなく、おがさわら丸の入港時に一週間分の新聞がまとめて商店に並べられる。
小笠原諸島では曜日に関係なく、船のダイヤによって会社が動いたり休みになったりすることがある。それだけ、おがさわら丸が島の生活を支える重要な役割を果たしていることがわかる。
[編集] 父島
スーパーマーケット、レストラン、薬局などは揃っている。父島の農協(JA)直売所では小笠原で収穫される日本では珍しい亜熱帯果物が手に入り、観光客に人気がある。現金自動預け払い機(ATM)は東京島しょ農業協同組合(JA東京島しょ)小笠原父島支店と小笠原郵便局、銀行系カードは七島信用組合小笠原支店で利用可能。かつては富士銀行が存在した。クレジットカードなどによるキャッシングはゆうちょ銀行ATMでのみ利用可能。
自動販売機はあるが缶飲料が120円~140円、ペットボトル飲料は500mlのもので150円~160円程度とやや高い。
[編集] 母島
飲食店、商店がJA・漁協売店を含めて数軒、鮮魚店とガソリンスタンドが各1軒存在する。しかし「飲み屋」を除いては概ね夕方までの営業である。日曜・休日定休がある。鮮魚店は売り切れると閉店する。床屋も無いが、父島から床屋が定期的に来島する(参考)。
ATMはJA東京島しょ小笠原母島支店があり、銀行・郵便局のキャッシュカードは使えるが手数料がかかる。
[編集] 通信等
[編集] 郵便
父島と母島に1局ずつ設置されている。2局とも風景印が配備されている。
- 小笠原郵便局…小笠原村全域を郵便区とする集配普通郵便局。但し営業時間は特定郵便局と同じ扱いであり、他の普通局より短い。郵貯ATMは小笠原局と二見港の船客待合所内に設置されている。なお、同局は2007年3月5日付けで無集配局化され、これまで行ってきた集配業務は新東京郵便局(現・郵便事業新東京支店)に継承された。
- 母島簡易郵便局…JA東京島しょ小笠原母島支店が簡易郵便局業務を受託している。かつては局内の私書箱へ住民が取りに来る方式だったが、今はJAが配達業務も受託している。ATMは母島には設置されていないが、局内窓口で預入払戻が可能。なおJA母島支店の収益は簡易郵便局受託手数料が多くを占めると言われている[要出典]。
[編集] 宅配便
自社による宅配便を行っているのはヤマト運輸(宅急便)(但し、クール宅急便の受付は不可)と、日本郵便(ゆうパック)の2社のみ。他の宅配便業者は基本的に小笠原海運を通して、地元にある運送会社に連絡運輸(他業者差込)という形をとっている。そのため、ニッセンなど小笠原への取り扱いを行っていない通信販売業者もある。特に頼めば送れないことはないが、この場合は自社では配送を行わず島内の運送会社への連絡運輸になるため、高額な別料金(離島料金)が発生する。離島料金が発生するため、荷物を預かるのを敬遠する運送会社が多い傾向がある。また、一部の宅配便業者では宅配便では受け付けせずに特別積合せ貨物として受け付けする傾向がある。一部の通信販売業者は通常とは別料金になることをことわった上で、小笠原などの離島に限ってゆうパック配送を行っている。
「おがさわら丸」が島へ宅配を行う事実上唯一の交通手段になる為、宅配には時間がかかって期日指定も出来ないことから、クール便の取り扱いはしていない。その為小笠原諸島の住民は生鮮食品の通信販売が一切受けられない。商品代引きも受けられず代金回収リスク回避のため、入金確認後の商品発送しか行わない通販会社もあるという(参考)。また、小笠原諸島宛は代引き発送不可とする運送会社も多い。それでも、小笠原の住民にとって通信販売は日用品を得る貴重な手段である。
なお小笠原は宅急便のサービスが全国最後に営業を開始した(1997年11月)地域である。ヤマト運輸はサービス開始当初、新聞の1ページ全面広告で最後の営業開始地域が東京都である旨を見出しにして全国100%がサービスエリアである事をPRした。
[編集] 電話
小笠原の電話は、1969年に父島から銚子無線電報局を相手に短波回線により運用を開始したことに始まり、1983年まで短波帯多重無線による電話が行われていた。当時は回線が数回線しかなく、オペレーターに通話を申し込む方式で電話が殺到すると待たされることも多かったようだ。また、電波障害により雑音が交じり、通信が困難になることも多かった。1983年からは通信衛星を利用した本土とのダイヤル即時通話が始まった。しかし衛星を利用しているため音声が若干遅れる。
携帯電話は1999年から父島と母島の一部でNTTドコモの音声通話のみ使えるようになったが、当初はi-modeが使えなかった。FOMAは2006年6月8日よりFOMAプラスエリアとして父島と母島の一部地域で使えるようになり、movaでは利用出来なかったi-modeとデータ通信も含め、FOMAの全サービスを利用出来るようになった(利用可能機種はFOMAプラスエリア対応機種に限られる)。
また、auは2007年3月末までに父島の一部地域からサービスを開始し、順次エリアを拡大した(母島では利用不可)。また、EZwebも利用可能(サービスエリア-KDDI)。
ソフトバンクモバイルは2007年4月現在、利用不可能である。
[編集] インターネット
- 有線系アクセス
- 衛星電話回線の高度化により、現在ではダイヤルアップISDNまで可能になっているがケーブルに繋がっている訳ではないので、常時接続での有線系ブロードバンドには対応していない。また、テレホーダイ等を始めとするいかなる定額料金制度も適用されない。アナログ回線は東京03地域が離島特例による隣接MA扱いの料金設定によって本土との便宜が図られているが、ISDNのデジタル回線には適用されない。また、近年のプロバイダのアクセスポイントの集約化や縮小のため、アナログ・ISDNともナビダイヤルによる一律料金の全国共通番号を使うことになることが多い。
- 小笠原諸島の近くには本土とグアム・サイパンを結ぶKDDIの海底ケーブルが通っており、これを利用することもできそうだが、今のところ小笠原諸島に繋げる計画はない。
- 最近、島内では光ファイバー回線敷設の工事が始まっており、島内回線に限って高速回線になる予定である。また、衛星回線を大量に確保し、それを束ねることによって、本土と小笠原村役場間の回線のみ1Mbpsの回線が確保される見込みである。一般利用ができる高速回線は「小笠原村情報センター」(父島)にあり、持込または備付のパソコンが使用できる。
- 無線系アクセス
- FOMAサービスが開始されてからはi-modeに限られるがパケ・ホーダイを利用して定額でインターネットが使えるようになった。2007年3月1日、パケ・ホーダイフルが開始(PC用のWebサイトを含め定額で閲覧可能)。同年10月、PC向け定額インターネットが開始された(同サービスは一部のサイトが閲覧できないなどの制限がある)。さらに同年12月22日、au(KDDI)が開始したPC向けデータ定額プランが利用可能になった。FOMAの定額サービスとは異なり、利用するサービス(動画観覧、FTP等)に制限無くPCによる定額データ通信が可能に。
- 現時点でウィルコム、イー・モバイルはサービスエリア外である。
[編集] アマチュア無線
アマチュア無線局に対してJD1で始まるコールサインが発給され、アマチュア無線家の間で珍重されるため、アマチュア無線の運用を目的とする旅行者も存在する。現在は父島にアンテナなどの設備一式を備えた宿があり、機器類の貸し出しも行っているため簡単に運用することが可能である。それゆえ以前ほどの希少性はない。
世界的に権威のあるDXCC(米国のアマチュア無線連盟ARRLが発行するアワード)においては、日本は南鳥島、南鳥島以外の小笠原諸島、小笠原諸島以外の日本の3つのentityに分けられている。南鳥島については他の陸地と大きく離れており、別のentityとみなされる。南鳥島以外の小笠原諸島は日本本土との最短距離(177マイル:規定上は225マイル以上必要)がDXCCのルールを満たさないが、日本復帰時に「小笠原が本土と異なるコールサインを使うなら別カントリー(当時の呼称:現在のentityに相当)にする」との日米のアマチュア無線連盟の取り決めにより、JD1というコールサインを使うことで本土とは別のentityになっている。なお、日本復帰前のコールサインは米国に割り当てられたKG6が使われていた。
その後の沖縄県の本土復帰にあたっては小笠原のような取り決めが行われなかったため、沖縄県は本土と同じentityとして扱われている。
[編集] 放送
日本国内向けの衛星放送(BS・CS放送)は問題なく視聴できるので、ここでは地上系による放送に限って記述する。
[編集] テレビ
局名 | 父島 | 母島 |
---|---|---|
NHKBS1 | 9ch | 10ch |
NHKBS2 | 11ch | 12ch |
TOKYO MX | 47ch | 48ch |
NHK東京教育 | 49ch | 50ch |
NHK東京総合 | 51ch | 52ch |
日本テレビ | 53ch | 54ch |
TBS | 55ch | 56ch |
フジテレビ | 57ch | 58ch |
テレビ朝日 | 59ch | 60ch |
テレビ東京 | 61ch | 62ch |
小笠原のテレビ放送は1976年に父島、1977年に母島にケーブルテレビ局が開局し、本土から船便で送られたテレビ番組を1日数時間放送したことに始まる(現在は廃局)。但しこの方法ではニュース番組が放送できないため、共同通信が自社の船舶向けファクシミリ通信で小笠原向けニュース配信を行っていた。
本土と変わらないテレビ放送としては1984年のNHKBS実用化放送開始により、小笠原でも視聴できるようになったことに始まる。1996年から江東区青海にあるテレコムセンターにて東京タワーから発射されるNHKや民間放送の放送を受信し、デジタル圧縮を行い、信号のスクランブル化を施し、SHF波(Ku-band 14GHz帯)に変換した後、電波を通信衛星JCSAT-3号に送信(アップリンク)している。
地上波をわざわざスクランブル化とデジタル圧縮を施す理由は、衛星回線を使用している為小笠原地域以外(本土など)でその電波を傍受される可能性があり、再送信目的の放送を他地域で視聴されるのを防止するためである。また、スクランブル方式は「小笠原向け方式」と云われる独自の方式で、このスクランブルを解読するデコーダーは当然ながら一般では入手出来ない。
衛星ではC-band(4GHz帯)に周波数変換され、父島と母島にある地上局でそれぞれ受信(ダウンリンク)、スクランブルを解読(デスクランブル)し、上表のUHF波に変換した上で島内設置の送信所からUHF再送信しているが、一部の地区では共聴受信により本土東京とほぼ同じチャンネルで受信できるようにチャンネル変更している(ただしTBS 4ch、TOKYO MX 5ch、日本テレビ 6chとなっている。NHKBSは上表と同じ)。衛星回線の使用には年額4億円もの莫大な費用がかかり、この放送の視聴のため島民から毎月3,000円が「テレビ放送受信費」として徴収されている。またその一部はNHKや在京テレビ局が出し合ったりしている。
衛星回線を使用しているため、大雨時などの際に受信障害が発生する(マイクロ波は天候変化に弱い)。また、2011年7月にはアナログ放送が終了されるため、地上デジタル放送(NHK・民放各局とも2010年に中継局が開設される予定)を小笠原地区向けに開始する場合は衛星回線を使わず、海底光ファイバーケーブル経由での使用が予想される。しかし、ここに来て大東諸島への地上デジタル再送信実施問題が浮上して来たため、小笠原向け光海底ケーブルを使用した地デジ再送信が果たして実施されるのか、動向が注目される(関連として大東諸島#テレビ放送も読まれたい)。
[編集] ラジオ
小笠原諸島にはNHK、民放の中継局がFM再送信を含めて存在しないため、超短波(FM)放送は全く聴くことができず、中波放送も一部の限られた狭い地域を除き電離層に反射して届く夜間のみに限られる。終日聴取可能な国内放送はCSラジオ各局と短波放送のラジオNIKKEIだけである。海外向けの短波放送、NHKワールド・ラジオ日本が受信される場合もある。特にNHKは放送法で「協会は、中波放送と超短波放送とのいずれか及びテレビジョン放送がそれぞれあまねく全国において受信できるように措置をしなければならない。」と定められているので、中波放送(ラジオ第1・ラジオ第2)又は超短波放送(NHK-FM)のどちらかの中継局は必ず設置し終日聴取できるようにしなければならない義務があるが、NHKは中継局設置の目処が未だにたっていない。しかし、小笠原諸島と同じくAM/FMラジオの難聴取地域である沖縄県の大東諸島では2007年4月1日にFM波を使ったAMラジオ中継局(NHK沖縄放送局・琉球放送・ラジオ沖縄)が設置されたことから、小笠原諸島でも近い将来FM波を使ったAMラジオ局の中継局やFMラジオ局の中継局の設置が予想されるが、具体的な話は未だにない。
[編集] 医療
父島と母島にそれぞれ村営診療所があり医師と歯科医師がそれぞれ常駐しているが、問診を行う最低限の施設しかなく、専門的な医療機器は設置されていない。専門医による検診や人間ドックは1年に一度の巡回診療の際にまとめて行われる。急病人が発生した場合は村役場からの連絡を受け、東京都知事が海上自衛隊に出動要請を行って海上自衛隊機で搬送することになる(後述)。慢性疾患や出産により島民が長期の離島を余儀なくされるケースは多く、中には今後の健康上の問題から、本土の病院に運ばれたまま退院後の帰島を諦めざるを得ない人もいるという。
[編集] 急患搬送
本土から小笠原諸島へは非常にアクセスしにくいため、島内で急を要する重病が発生した場合、海上自衛隊硫黄島基地所属のヘリコプターにより硫黄島を経由して海上自衛隊や航空自衛隊の飛行機によって本土に搬送されるか海上自衛隊岩国基地に本部を置く第71航空隊の厚木分遣隊(海上自衛隊厚木基地に常時1機が待機)所属の飛行艇で本土までの搬送を行っている。以前は小笠原のヘリポートに夜間照明が設置されていなかったため「夜間に発病すると手遅れ」とも言われていたが、現在は夜間でも搬送ができるようになった。
[編集] 交通
[編集] 本土から父島
- 小笠原海運「おがさわら丸」(通称:おが丸)
- 東京港竹芝桟橋-父島二見港を結ぶ貨客船(所要時間25時間30分、おおむね観光シーズンは3日に1便、オフシーズンは6日に1便就航)。片道運賃は等級によって異なり、22,570円~56,490円、夏期25,100円~62,790円)。
- テクノスーパーライナー(TSL)「SUPER LINER OGASAWARA」(最高時速約70km、総トン数14,500トン、乗客数740人)が2006年春以降に就航する予定があり、実現できれば所要時間は約17時間に短縮される見込みであった。しかし、現在のおがさわら丸に比べ接岸時には悪天候に弱く、また燃油価格の高騰により運行すれば赤字は年間10億円に上ると見込まれたため、赤字の補助に対する東京都の姿勢に不信を抱いた小笠原海運は2005年8月にTSLの就航中止を発表した。
- 共勝丸「第二十八共勝丸」
- 東京港月島ふ頭-父島二見港-母島沖港を結ぶ貨物船だが定員9名ぶんの客室があり旅客営業も行っている。東京港(月島)と父島間を所要45時間程度(海況が悪い時は何日も余計にかかることもある)で結ぶ。東京~父島間は原則として積載貨物の添乗、小笠原村住民、緊急と認められるかのいずれかである必要がある。但し船室に余裕がある場合は会社側に相談すれば一般客でも利用可能な場合がある(東京~父島間の片道運賃18,000円)。
- 主たる貨物としてガソリンやプロパンガスなどの危険物(旅客船には法令により危険物を積載することができない)や建設資材などの重量物や食料品(アイスクリーム等の冷凍品を含む)・日用雑貨などを島に運び、島からは空き缶や空きペットボトル、廃車などの廃棄物を本土に運んでいる。
[編集] 母島のアクセス
- 伊豆諸島開発「ははじま丸」
- 父島二見港と母島沖港を結ぶ貨客船。1日0.5~1往復就航(所要時間2時間、休航日あり)。おがさわら丸入出港日は接続するダイヤを組む(片道運賃1等7,560円、2等3,780円)。
- 共勝丸「第二十八共勝丸」
- 東京港と母島を乗り換え無しで結ぶ唯一の船便。父島~母島間は所要約3時間(この区間に限っては乗船条件なしで誰でも利用できる。片道運賃2,000円)。
[編集] 父島内
父島には小笠原村営バスが運行されている(東京都シルバーパス使用可)。他には観光タクシー、レンタカー、レンタルスクーター、レンタサイクルがある。諸島外から自家用車やバイクを持ち込む場合は貨物扱いとなるため事前の問合せが必要(125cc以下のバイクはチッキ(受託手荷物)扱いとなる)。
[編集] 母島内
母島には定期公共交通機関がない。レンタカー、レンタルスクーター、レンタルサイクルがある。レンタカーは前日までに予約が必要。レンタルスクーター、レンタルサイクルの取り扱い店はレンタルスクーターが3軒程度、レンタルサイクルは1軒であり、それぞれ保有台数は少ない。また、一部店舗は予約をしておらず、当日朝の先着順で貸し出しを行っているところもある。その他、島内各地へは有償運送(乗合タクシー)の利用も可能(前日までに母島観光協会もしくは宿泊先へ予約が必要)。なお、レンタルスクーター、レンタルサイクルは父島で借りた物をははじま丸にて持ち込むこともできる。そのほか、母島発遊覧・遊漁船もある。
[編集] 空港建設問題
空港のない父島列島には以前から一般航空路開設の要望がある。現在でも海上自衛隊岩国基地所属の飛行艇(US-1A)が父島に飛来することがあるが、急病人及び東京都知事や閣僚など要人の搬送を目的とする場合に限られている。
今までに父島洲崎(1,000m級滑走路)、兄島(1,600m級滑走路)、父島時雨山(しぐれやま)を予定地とする空港建設がそれぞれ検討された。しかし滑走路が短すぎる(洲崎候補地)、父島との交通手段を確保する必要がある(兄島候補地)などの困難を伴うことや世界で唯一の植物群落などの貴重な動植物の保護の必要があることから空港建設のめどは立っていない。また、羽田空港からの民間飛行艇による運航や自衛隊硫黄島基地を経由した大型ヘリコプターによる運航、同じく硫黄島から船便での運航など空港を父島列島に建設しなくてすむ方法も検討されているが、結論は出ていない。
また、古くからの住民の多くは空港建設を熱望している一方で小笠原の自然に惚れ込んで移住した新住民の多くは秘境らしさを残したいために空港建設に消極的であるなど、島民の意見もまとまっていないといわれる[要出典]。
2000年には横浜国際航空が横浜港と小笠原(兄島)との間を飛行艇で定期航空路を開設する計画を発表したが、実現していない。
2005年、東京都の石原知事はTSLの就航断念を受け、空港が地域振興に極めて必要であるとして環境に配慮しながらも最低限の第三種空港を建設する意欲を明らかにした。その方法として、羽田空港D滑走路建設で検討されながらも採用されなかった「桟橋式滑走路」と地上滑走路の併用を考えていることを明らかにした。
[編集] 主な機関
[編集] 父島
- 国
- 東京都
[編集] 母島
- 東京都小笠原支庁母島出張所
- 小笠原警察署母島駐在所
[編集] 脚注・参照
- ^ 気象庁・報道発表
- ^ [http://www.tochi.nla.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/basis/5-1/F3/data/13f.html 東京都・土地分類基本調査「父島・母島」1992
- ^ 「小笠原諸島における言語接触の歴史」ダニエル・ロング、1998年[1]
[編集] 関連項目
[編集] 関連書
- 田中弘之、『幕末の小笠原』、中央公論社、1997年、ISBN 4121013883