東京国際空港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京国際空港(羽田空港) |
|||
---|---|---|---|
IATA HND |
ICAO RJTT |
||
国 |
|
||
設置場所 |
|
||
空港種別 |
|
||
運営者 |
東京空港事務所 |
||
標高 |
|
|
|
緯度 |
|
||
経度 |
|
||
ウェブサイト |
|
||
滑走路 | |||
方向 | 全長 | 表面 | |
メートル | フィート | ||
16R/34L | 3000 | 9843 | 舗装 |
16L/34R | 3000 | 9843 | 舗装 |
04/22 | 2500 | 8202 | 舗装 |
カテゴリ | |||
|
|||
リスト | |||
|
東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、Tokyo International Airport)は、東京都大田区羽田空港にある第一種空港。空港コードはHND/RJTT。通称は羽田空港(はねだくうこう)で、付近の地名(旧町名)に由来する[1]。
目次 |
[編集] 概要
1931年(昭和6年)8月25日開港。東京を代表する日本最大級の空港で、国内線主体にも関わらず利用者数は世界でも有数の規模をもつ[2]。
年間の航空機発着回数は約28万5000回[3]航空旅客数は約6581万人[4](一日あたり18万人)でそれぞれ国内最大(2位はいずれも成田国際空港)。航空貨物取扱量は約83万7000トン[4]で国内第3位(一日あたり約2294トン)。
滑走路は、
- A滑走路 (16R/34L): 3000 m×60 m、34L側にILS設置
- B滑走路 (04/22): 2500 m×60 m、横風用、22側にILS設置
- C滑走路 (16L/34R): 3000 m×60 m、34R側にILS設置
の3本。A滑走路とC滑走路は平行滑走路のオープンパラレル配置で、同時離着陸が可能である。
発着する便のほとんどが国内線であるが、皇族や内閣総理大臣などが政府専用機を使用する場合や、国賓や公賓が専用機や特別機で訪日する際は、ほとんどの場合羽田を使用する[5]。これは羽田の方が都心に近く沿道の警備が容易という単純な理由で、成田空港から都心までの長い沿道を警備すると多大な人員と経費が必要となってしまうからである。このため専用施設としてVIP機専用スポット (V1・V2) や旅客ターミナルビルとは別棟の中に設けられた貴賓室がある。
日本では数少ない24時間運用が可能な空港の1つ(他には関西国際空港、中部国際空港、新千歳空港、北九州空港、那覇空港)である。深夜から未明の時間帯にかけては国際線チャーター便や貨物便(ヤマト運輸の「超速宅急便」などの高速宅配サービスが行われている)が発着するのみとなっている。国内線の各旅客ターミナルビルの開館時間は、定期便の運航時間帯に合わせ、第1旅客ターミナルの南ウィングは4:30〜翌日2:00頃、北ウィングは5:00〜24:00頃、第2旅客ターミナルが5:00〜24:00頃となっている[4]。
空港の設置及び空港機能の管理・運用は国土交通省東京航空局東京空港事務所が行い、各ターミナルビルの管理・運用は日本空港ビルデング株式会社が行っている。
羽田空港は東京都区内にあり利便性が高い反面、騒音問題・増便規制・小型機の乗り入れ禁止などのいわゆる羽田空港発着枠問題といった緊急に解決が必要な問題が存在する。これらの問題を解決するため現在沖合展開事業や再拡張事業が行われている。空港騒音に関しては羽田空港一帯(羽田空港一丁目〜羽田空港三丁目、これらに接する地先及び水面)のみ騒音規制法(昭和43年法律第98号)第3条第1項の規定に基づき大田区長が指定する地域から除外されている。
[編集] 歴史
[編集] 東京飛行場時代
1931年(昭和6年)8月、東京府荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎(旧旅客ターミナル地区付近 翌年に東京府東京市蒲田区羽田江戸見町となる)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場(羽田飛行場)として開業。日本の民間航空黎明期における重要な飛行場であった(面積53haに全長300m、幅15m滑走路1本)。
1933年には、当時「空の都」として名高かった北多摩郡立川町、砂川村の立川飛行場の民間航空部門が移駐してきた。
1945年8月の第二次世界大戦終戦後は米軍の管理下に置かれ、ハネダ・アーミー・エアベース(羽田陸軍航空基地)と呼ばれた。同年には米軍による拡張工事が行われたが、拡張地区内にあった既存の建造物が軒並み撤去される中、穴守稲荷(あなもりいなり)神社の大鳥居だけが更地にぽつんと残されて話題となった[6]。
旧地名は羽田江戸見町(鈴木新田字江戸見崎)、羽田穴守町、羽田鈴木町(鈴木新田字宮ノ下・辰巳ノ方・巽ノ方・明神崎・鈴納耕地・堤外東南)、羽田御台場、鈴木御台場(鈴木新田字御台場・御台場耕地・辰巳島)、猟師町御台場(羽田猟師町)。
[編集] 返還以後(東京国際空港)
連合国による日本占領が終了した後、1952年7月にアメリカ軍から一部返還され、現名称の東京国際空港に改名。その後1958年に全面返還された。1955年には新しい旅客ターミナルが完成した。
その後、日本の空の玄関口、首都の空港として国際線・国内線ともに発着回数が増え、1964年に行われた東京オリンピックの時など数度にわたり旅客ターミナルが増・改築もされた。しかし、この頃にはもう増大する一方の離着陸をさばくのが困難になり、A滑走路の使用を停止して駐機スポットにするなどの策も講じたが、それでも対応が難しくなった。当時の港湾土木技術では沖合移転に必要な埋め立て工事には多大な困難が予想されたこともあり、当時の運輸省は首都圏第二空港の開設を決定、千葉県成田市に新東京国際空港の建設が始まる。1978年に成田が開港するとすべての国際線が移転(詳細は「国際線の就航状況」の節を参照)。その一方で羽田の沖合展開事業も着々と進められ、1993年9月には新国内線ターミナルビル(第1ターミナルビル)が完成した。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれに「ビッグバード」(Big Bird) という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港旅客ターミナルの総称としても用いられている。
1998年3月20日には新国際線旅客ターミナルビルが完成した。
2004年12月1日に第2旅客ターミナルビルが供用を開始した。全日本空輸 (ANA) グループおよびANAグループと業務提携している北海道国際航空 (ADO) の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空 (JAL) グループが、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、ANAグループの移転跡地である北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日よりANAとの国内線コードシェアを実施するスカイネットアジア航空 (SNA) も第2旅客ターミナルに移転し、現在は
のそれぞれ専用ターミナルとなっている。ただしSFJはANAとコードシェア便を運行しているため、ANA便名でもSFJ運行の便は第1旅客ターミナルから出発・到着する。
各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループのコーポレートカラーである赤色、第2ターミナルはANAグループのコーポレートカラーである青色となっている。JALグループでは広い第1ターミナルを活かし、国内線方面別チェックインを行っている。ターミナル・路線を参照されたい。
第2旅客ターミナルビル供用に関連して、2005年4月1日より東京国際空港を発着する便の航空券に旅客施設使用料として100円が上乗せされている。使用料の導入に関しては、国内線ハブとしての優越的地位の利用との非難も相次いだ。国内線を対象とした旅客施設使用料の徴収は日本で初めてであった(中部国際空港も同日より開始)。
[編集] 沖合展開事業
かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあり、3本の滑走路もそれを囲むように配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できない上に国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数を捌き切れなくなり、空域では航空機同士が急接近する事が常にあった。このため、1970年代にはターミナル寄りの旧A滑走路 (15R/33L) を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。
新設された新東京国際空港に国際線が移転した後も、国内線の需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本(交差しているため同時使用はできないので、事実上は1本)の滑走路では、首都空港としてのキャパシティは既に限界を超えていた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。これら空港機能の改善及び騒音対策を目的として1984年1月から沖合展開事業(通称: 沖展)が行われた。
沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。長年ヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れなかったのである。チューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した[7]。この埋め立てによって新たに生まれた土地は広大なもので、これがすべて大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。
この事業は3期に分かれ、第2旅客ターミナルビル南ウィング(仮称)が完成した時点で終了する予定である。
- 第1期(1984年1月〜1988年3月)
- A滑走路移転・拡張(1988年7月供用開始)
- 第2期(1987年9月〜1993年8月)
- 第3期(1990年5月〜)
- C滑走路移転・拡張
- 1996年空の日には空港イベントの一環として供用前のC滑走路が一般公開された。
- 1997年3月供用開始。これ以降、2本の平行滑走路による同時離着陸が可能になった。
- 国際線旅客ターミナル移転(1998年3月20日供用開始)
- 京急空港線羽田空港駅まで延伸(1998年11月開通)
- B滑走路移転・拡張(2000年3月供用開始)
- 第2旅客ターミナルビル(2004年12月1日供用開始)
- 東京モノレール、羽田空港第2ビル駅まで延伸(2004年12月1日開業)
- 空港連絡道路(2004年12月1日午前4時供用開始)
- 第1旅客ターミナルビル北ウイングJALグループ利用拡張(2004年12月21日開始)
- 第2旅客ターミナルビル南ピア(2007年2月15日供用開始。66〜70番スポット)
- 第2旅客ターミナルビル南ピア71〜73番スポット(再拡張事業完了後に整備予定)
- 第2旅客ターミナルビル南ウィング(仮称)(再拡張事業完了後に整備予定)
- 第2旅客ターミナルビル第4駐車場 (P4) 立体化(再拡張事業完了後に整備予定)
- C滑走路移転・拡張
[編集] 国際線の就航状況
羽田には戦前から日本航空輸送や満州航空の国際線が乗り入れており、戦後は日本の表玄関として世界各国からの国際線が乗り入れていたが、1978年成田に新東京国際空港が開港したことにより国際線はすべて移転し、羽田は名目上国内線専用の空港となった。
ただし中華民国のチャイナエアラインだけは特例として羽田に残った。これは1974年1月の日本と中華人民共和国の間で締結された日中航空協定に先立って、日華路線に就航する中華民国籍の便はすべて「日本の国内線扱い」とすることが日中間で取り決められていたため。このため日本行きの中華航空機は当時尾翼に描かれていた中華民国の国旗である青天白日旗を塗りつぶさなければならないという悲哀を味わったが、いったん成田が開港して羽田が国内線専用となると、チャイナエアラインは「国内線」[要出典]としてここに留まることができた[8]。1989年にはやはり中華民国の新規参入航空会社・エバー航空が羽田発着となっている。
2002年には早朝深夜枠を利用したグアムやアジア各国へのチャーター便の運行が始まる。4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田発着となる。
これで浮いた発着枠が活用されたのが同年開催された2002年サッカーワールドカップ日韓大会だった。韓国ではソウル都心にほど近い金浦空港が新たに建設された仁川国際空港に表玄関の地位を明け渡して国内空港化していたが、仁川はソウル都心からは遠く不便で、成田とよく似た状況にあった。そこでワールドカップ開催期間中とその前後に羽田と金浦を直接結ぶチャーター便を発着させたのである。これが好評を博したため、翌2003年からは羽田と金浦の間に「定期チャーター便」という、定期便に限りなく近い航路が開設された。
2007年には同じ「定期チャーター便」方式で、羽田と中華人民共和国の上海の虹橋空港の間に、2008年には香港の間に航路が開設されている。
再拡張事業でD滑走路が完成すると羽田の発着枠は大幅に増加することになるが、増加分の一部は同様の形式で近距離国際線向けとする方針である。これに対し、横浜市はASEAN地域を含む6000キロ以内を含めるよう主張している。また近い将来には国際定期便の運航も再開されると予測する関係者も多い。
2008年5月19日、国土交通省は2010年に羽田空港が再拡張されることに伴い、深夜と早朝時間帯に限り国際線の中距離・長距離便の就航を自由化する方針を固めた。20日の経済財政諮問会議で冬柴鐵三国交相が表明する。同空港は2010年の秋に4本目の新滑走路が供用が開始され、発着枠が30万回から41万回に増加する。その中で国交省は、このうち3万回を国際定期便に割り振ることを決めている。同省は、周囲の騒音問題等で成田空港が発着できない午後11時〜午前6時の深夜と早朝や、それに隣接する時間帯なら成田を補完する形で活用が可能と判断している。[9]
[編集] 成田空港開港以前に定期便のあった外国航空会社
- 大韓航空(現在はチャーター便が就航)
- 民航空運公司
- 中華航空(チャイナエアライン 成田空港B滑走路の暫定供用開始とともに成田に移転)
- 中国民航(現在は中国国際航空・中国東方航空・中国南方航空に分割されている)
- キャセイ・パシフィック航空
- フィリピン航空
- タイ国際航空
- エアサイアム
- エアベトナム
- マレーシア・シンガポール航空(マレーシア航空とシンガポール航空に分割)
- ガルーダ・インドネシア航空
- エア・インディア
- パキスタン国際航空
- イラン航空
- TMAレバノン航空(貨物のみ)
- アエロフロート
- スカンジナビア航空
- KLMオランダ航空
- サベナ・ベルギー航空(破産、ブリュッセル航空が継承)
- 英国海外航空(現在のブリティッシュ・エアウェイズ)
- ルフトハンザドイツ航空
- スイス航空(破産、スイスインターナショナルエアラインズが継承)
- エールフランス
- アリタリア航空
- ヴァリグブラジル航空
- レアル航空(ヴァリグブラジル航空が継承)
- カナダ太平洋航空(現在のエア・カナダ)
- パンアメリカン航空(太平洋路線をユナイテッド航空に売却)
- ノースウエスト航空
- コンチネンタル航空
- フライング・タイガース(貨物のみ)
- エジプト航空
- カンタス航空
- ニュージーランド航空
[編集] 再拡張事業
近年の航空需要の増大から、特に羽田空港においては、ラッシュ時は2分間隔で発着が行われるなど、発着能力が限界に達しており、増便は困難な状況になっている。限られた発着枠でできるだけ輸送量を大きくするため、羽田空港では日本の空港としては現在唯一小型機の乗り入れが禁止されており、その結果、特に地方空港の利便性が低下し不満が高まっていた。航空需要の増加に早急に対応するため、羽田空港の再拡張や、首都圏に羽田、成田に次ぐ第3の空港を設置する案が検討されたが、検討の結果、2000年9月に政府は、第3空港の設置より優位性のある羽田空港の再拡張を優先的に行うこととされ、以下の計画が進行中である。
[編集] B滑走路新誘導路
主として南風時に使用されているB滑走路で、着陸した航空機が速やかに滑走路から退避するための高速脱出誘導路とそれに接続する誘導路を現在建設中である(2009年7月供用開始予定)。高速脱出誘導路とは発着回数を増加させ空港処理能力を向上させるために、航空機を高速のまま滑走路から平行誘導路へ導く施設で、滑走路と斜めに配置する。現在、羽田空港の場合、出発機は1時間あたり32機、到着機は同じく28機と到着機の方が少ないが、滑走路から早めに脱出する事で到着機を1時間あたり29機へ増やすことが可能とされ、これにより1日あたり14便までの増枠ができると見込まれている。この工事と並行してA・B平行誘導路を結ぶ誘導路を新設する予定である。
[編集] 新滑走路(D滑走路)
神奈川県寄りの多摩川河口付近の海上に人工島を造成し、既存のB滑走路とほぼ平行に近い形で2,500mの新滑走路の建設が進んでいる。
設計・施工・運用にあたって制約条件がいくつかある。
- 多摩川の流れを遮らないこと。→南側1100mおよび現空港との連絡誘導路を桟橋形式にして川の流れをせき止めないようにしている。
- 既存の滑走路の離着陸を妨害しないような工事をすること。→制限表面に抵触する場所での大型クレーンによる施工は空港運用時間外の夜間に行っている。また、高さを低く改造した作業船も用いている。
- 東京港に入出港するタンカー、貨物船などの安全な航行を妨害しないようにすること。→空港東側にある東京港第一航路を一部移設する。また、工事期間中は東京航行安全情報センターを設けて一般船舶が工事区域に侵入しないように警戒その他の業務を行っている。
この滑走路の整備により、空港の処理能力である「年間発着能力」は29.6万回から40.7万回まで引き上げられ、国内線については発着枠の増加により現在より飛行機の小型化、多頻度運航化が可能となる。国土交通省は将来の国内航空需要に対応した発着枠を確保した後の余裕枠を活用すると年間6万回程度(短距離便と中・長距離便がそれぞれ3万回、1日約80便)の就航が可能となるという見解を示している。概ね就航可能な国際定期便については、短距離便で北京やソウル、釜山、上海、大連など。中・長距離便で北米や欧米、東南アジア(最長でニューヨークやロンドンまで飛行するものと思われる)などの主要都市。かつては羽田発着国内線最長距離の石垣空港間1947km (1228マイル) 以内の区間を目安としていたが、2008年4月1日に全日空が開設した香港線で早くも原則が崩れかけていた。
羽田空港沖は江戸前アナゴなどで有名な漁場である。滑走路の建設工事の影響により漁獲量減少が懸念されるとして、地元漁協と国交省の漁業補償交渉が難航した。当初、同省は閣議決定されていた2009年末の供用開始に向け、2006年春頃の着工を目指していたが、結果的に目標は達成できなかった。工事は2007年3月31日に開始され、5月20日に関係者による着工記念式典が行われた。同省は、当初の計画に間に合わせるために、工期短縮の方法などを模索しているが、2010年10月完成・供用開始を予定している。
D滑走路は現在の管制塔からかなり離れており、現在の管制塔から管制官が目視でD滑走路上の機体を確認することができない。そこで新たに現在の管制塔の南東側、第2駐車場に隣接する「バスプール」のエリアに、世界で3番目の高さとなる116mの新管制塔を建設する事が決定し、今現在基礎工事を実施中。これにより、現在の管制塔は供用開始からわずか10数年で廃止されることになるが、発着能力増大に伴いグランドコントロールだけでは対処飽和になる可能性が出てくることから、グランドコントロールとは別にエプロン地区のみを管制する「ランプ・コントロール」導入が考えられている。仮に導入された場合、現在の管制塔は成田国際空港の旧管制塔のように「ランプ・コントロール・タワー」として再利用されることが検討されている。
このD滑走路の設置計画当初は既存のB滑走路と完全に平行な滑走路の建設を予定していたが、南風・雨天時に千葉県浦安市街地の上空を通過すること、特に東京ディズニーリゾートと直線距離300mを通過することが問題視され、計画が変更された。
[編集] 国際線地区
2010年10月を目処にA滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれた区域に、新しい国際線旅客ターミナルビル・国際貨物ターミナル・エプロンなどを建設し、国際線地区としてPFI手法を用いて整備する予定である。
国際線旅客ターミナルビルは、5階建てのターミナルビルと6層7段の駐車場(約2300台収容)で構成される。ターミナルビルには、江戸の町並みを再現した商業ゾーンや国内最大級の規模の免税店を設置し収益を確保し、中部国際空港の2500円などより低い2000円の施設利用料を実現させる予定である。
ターミナルビルへのアクセスには、東京モノレール羽田線は一部ルートを変更し隣接する形での新駅建設を予定している他、ターミナルビル地下に京浜急行電鉄空港線も、羽田空港駅〜天空橋駅間に新駅建設を予定している。ターミナルビルの整備・運営は国内線ターミナルビルを運営している日本空港ビルデングを筆頭株主とする特別目的会社「東京国際空港ターミナル株式会社」(Tokyo International Airport Terminal Corporation, TIAT) がPFI方式で行う。
貨物ターミナルは、年間50万トンを処理する貨物上屋2棟・生鮮上屋・燻蒸施設などで構成される。ターミナルの整備・運営は三井物産を中心としたグループが行う。
エプロン・周辺道路などの整備は大成建設を中心としたグループが行う。
[編集] 神奈川口構想
詳細は首都圏第3空港構想を参照
神奈川県・横浜市・川崎市の1県2市が共同で提案している、羽田空港の再拡張・国際化に合わせて多摩川にある首都高速道路湾岸線と大師橋の間に空港に接続する橋または海底トンネルを建設し、川崎市側にも空港施設を設置するという構想である。国際線旅客ターミナルビルの出国手続き施設を建設する他、ホテルや物流施設を併設し、経済的な地盤沈下が進む京浜臨海部再生の起爆剤になると考えられている。現在、国土交通大臣、神奈川県知事、横浜市長、川崎市長を構成員とする「神奈川口構想に関する協議会」において、神奈川県などからの提案について具体的な検討を進めている。
[編集] ターミナル・路線
[編集] 国内線
[編集] 第1ターミナル
[編集] 北ウィング
[編集] 南ウィング
- 日本航空 (JAL) - 北ウィング到着便あり。日本トランスオーシャン航空、JALエクスプレスの機材・乗務員で運航する便あり。
- 日本トランスオーシャン航空 (JTA) - 北ウィング到着便あり
- スターフライヤー (SFJ)
- 関西国際空港、北九州空港
- スターフライヤー (SFJ)・全日本空輸 (ANA)
- 北九州空港
[編集] 第2ターミナル
- 全日本空輸 (ANA) - エアーニッポン、エアーニッポンネットワークの機材・乗務員で運航する便あり
- 北海道国際航空 (ADO) ・全日本空輸 (ANA)
- 女満別空港、旭川空港、新千歳空港、函館空港
- スカイネットアジア航空 (SNA) ・全日本空輸 (ANA)
- 長崎空港、熊本空港、宮崎空港、鹿児島空港
[編集] 貨物専用路線
- 全日本空輸 (ANA)
- 新千歳空港、関西国際空港、佐賀空港
- ギャラクシーエアラインズ (GXY)・日本航空 (JAL)
- 新千歳空港、新北九州空港、那覇空港
[編集] 運休・廃止路線
[編集] 国際線
- すべて定期チャーター便である。
- 航空会社名が2社以上の場合、何れかの航空会社の機材・乗務員で運航する共同運航便。
[編集] 国際線ターミナル
- 日本航空 (JL)(2008年7月より運航予定)
- 全日本空輸 (NH)
[編集] アクセス
※羽田空港への連絡道は、環八通り(新整備場地区から多摩川岸への羽田空港トンネル)を除いてすべて自動車専用トンネルのため、徒歩・自転車でのアクセスは(可能ではあるが)一般的ではない。
[編集] 鉄道
- 詳細は空港連絡鉄道: 羽田空港を参照
- 京浜急行電鉄空港線: 羽田空港駅(京急本線、都営地下鉄浅草線、京成押上線・京成本線・京成東成田線、北総鉄道北総線、芝山鉄道線直通運転。当駅は第1ターミナルビルと第2ターミナルビルの双方に共通の最寄り駅である)
- 東京モノレール羽田線: 羽田空港第1ビル駅・羽田空港第2ビル駅
[編集] バス
関東地方およびその周辺から、空港直通バスが乗り入れている。
- すべて京浜急行バス(グループ会社を含む)または東京空港交通が運行しており、発着地により共同運行会社も乗り入れる。路線などの詳細は、上記バス会社項目を参照されたい。
- 羽田空港バス時刻表(外部リンク)にて運行会社に関わらず、路線・時刻の検索ができる。
[編集] 首都高速道路
[編集] 一般道
- 国道357号(東京湾岸道路)
- 東京都道311号環状八号線(環八通り)
[編集] 事件・事故
羽田空港周辺や羽田空港の発着便で起こった航空事故・ハイジャック事件は以下の通り:
- 1938年8月24日 日本飛行学校訓練機と日本航空輸送旅客機がどちらも離陸後に空中衝突。両機の乗員5人が死亡したほか、墜落後燃料タンクが爆発して地上の45人を巻き添えにした(大森民間機空中衝突墜落事故)。
- 1940年12月20日 耐空証明取得中のMC-20が東京湾に墜落。原因不明。
- 1952年4月9日 日本航空の「もく星号」(ノースウエスト航空が委託運航していた)が離陸後失踪。翌日になって伊豆大島・三原山に墜落していたことが分かった。 乗員乗客37人全員死亡(もく星号墜落事故)。
- 1966年2月4日 全日空60便のボーイング727-100が着陸進入中に東京湾に墜落。乗員乗客133人全員死亡は当時単独機として世界最悪の事故となった。当時の旅客機はブラックボックスの搭載が義務づけられていなかったため事故原因は不明となった(全日空羽田沖墜落事故)。
- 1966年3月4日 濃霧の中カナダ太平洋航空402便のダグラスDC-8が最終着陸進入中に意図的に高度を下げすぎたために進入灯に激突し炎上。乗員乗客72人中64人が死亡(カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故)。
- 1966年3月5日 羽田空港を離陸した英国海外航空のボーイング707が富士山上空で乱気流に巻き込まれて空中分解。(英国海外航空機空中分解事故)。世界でも例を見ない2日連続の大型ジェット機の航空事故となった。
- 1966年8月26日 日本航空のコンベア880が訓練飛行中に操縦ミスで墜落。乗員5人全員死亡(日本航空羽田空港墜落事故)。
- 1982年2月9日 日本航空350便のDC-8が着陸進入中に滑走路手前の東京湾に墜落。24人死亡。統合失調症の機長が副操縦士や航空機関士の制止にも関わらず逆噴射装置を作動させたのが原因(日本航空350便墜落事故)。
- 1985年8月12日 日本航空123便伊丹行きのボーイング747SRが離陸後にボーイング社の修理ミスにより圧力隔壁が金属疲労によって破壊し、そのショックによって垂直尾翼が破壊。油圧系統を喪失した機体は羽田へ戻ろうとするが、群馬県の高天原山に墜落。520人死亡は単独の航空機による事故で最悪の数字である(日本航空123便墜落事故)。
- 1999年7月23日 全日空61便札幌行きのボーイング747-400Dが離陸後に包丁を持ったフライトシミュレーターマニアの男にハイジャックされた。男は副操縦士をコクピットの外へ追い出し、機長を殺害。その男が操縦する飛行機が墜落寸前になったため、副操縦士がコクピットへ突入。男を取り押さえ、羽田に緊急着陸した(全日空61便ハイジャック事件)。
[編集] 拠点がある機関
旧整備場地区に以下の事務所や格納庫がある:
[編集] 航空管制
種類 | 周波数 | 運用時間 (JST) |
---|---|---|
CLR | 121.825 MHz, 121.875 MHz | |
GND | 118.225 MHz, 121.7 MHz | |
TWR | 118.1 MHz, 118.8 MHz, 124.35 MHz 126.2 MHz, 236.8 MHz |
|
DEP | 120.8 MHz, 126 MHz, 127.6 MHz | |
APP | 119.1 MHz, 119.7 MHz, 125.2 MHz 125.3 MHz, 236.8 MHz |
|
TCA | 124.75 MHz, 256.1 MHz | 8:00〜21:00 |
ATIS | 128.8 MHz |
[編集] 航空保安無線施設
局名 | 種類 | 周波数 | 識別信号 |
---|---|---|---|
HANEDA | VOR | 112.2 MHz | HME |
HANEDA | DME | HME | |
HANEDA | NDB | 337.0 kHz | HM |
DAIBA | VOR | 111 MHz | DYE |
DAIBA | DME | DYE |
保守は国土交通省東京空港事務所航空管制技術官が担当している。
[編集] 注釈
- ^ 「羽」が付く為空港・航空に由来するとしばしば誤解される
- ^ 2003年にソウル金浦空港への定期便が就航するまで、名目上、国内線専用空港としては世界一の利用者数であった。純粋な国内線専用空港だったことは実は一度もない。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照。
- ^ 2004年
- ^ a b c 2006年
- ^ ただし公式実務訪問賓客・実務訪問賓客・外務省賓客などは通常成田を使用する。
- ^ [要出典]拡張地区内から立ち退きを余儀なくされた旧住民らが憂さ晴らしに語っていた「米軍が大鳥居を撤去しようとしたら事故が相次いだ」という根も葉もない話に尾びれがついて、「お稲荷さまの神罰が下って死者まで出た」という都市伝説になった。そのためもあってかこの大鳥居を粗末に扱おうとする者は後々までおらず、移設の話が何度出ても立ち消えとなり、大鳥居はさらに半世紀以上にわたって空港敷地内の駐車場の真中に留まり続けた(→ 画像)。そもそも米軍がこれを残した実際の理由は、この土地に不慣れな米軍パイロットにとってこの大鳥居は着陸時に格好の目印となったからだが、その大鳥居も沖合展開事業に伴う新B滑走路の障害となったため、1999年2月に800メートルほど南に丁重に動座されて今日に至っている。なお移転の際、作業を始めようとしたところ曇り始め、見守っていた人たちの間から「やはり祟りが」との声が漏れ、関係者を苦笑いさせたと新聞で報じられた。
- ^ このエピソードについては2004年にNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』でも取り上げられている。
- ^ このため唯一都心に残ったチャイナエアラインの台北経由便を利用してアジア各国へ行く利用者が増加、同社は思いがけない恩恵を以後四半世紀にわたって享受することなる。
- ^ 一部毎日新聞から記事を抜粋。
- ^ 2004年10月23日に発生した新潟中越地震の影響で10月24から翌年1月4日まで、2007年7月16日に発生した新潟中越沖地震の影響で同日と17日に臨時便が運行された。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Hanami Web - Haneda Airport HND
- 羽田空港ターミナルBIG BIRD(日本空港ビルデング)Webサイト
- 東京国際空港ターミナル株式会社(国際線ターミナル)
- 国土交通省東京航空局 - 空港管理者
- 国土交通省関東地方整備局 東京空港整備事務所ホームページ
- 国土交通省航空局 羽田空港再拡張および首都圏第3空港について
- 空港主部の航空写真 - 国土交通省、1989年
- 国土地理院「国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム」: 羽田空港
[編集] 地形図
- ウィキペディア Map Sources
|
---|
空港情報 (worldaerodata.com) | 定時航空気象 (METAR) | 飛行用飛行場予報 (TAF) | 定時航空気象 |