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硫黄島 (東京都) - Wikipedia

硫黄島 (東京都)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

硫黄島
面積 23.16km²
最高標高 169m
所在海域 太平洋
所属国・地域 日本東京都
  
硫黄島遠景(2007年)
硫黄島遠景(2007年)
摺鉢山遠景(2007年)
摺鉢山遠景(2007年)
硫黄島の衛星写真(2000年)
硫黄島の衛星写真(2000年)
地図上の硫黄島
地図上の硫黄島

硫黄島いおうとう Iōtō/ いおうじま Iwo Jima)は、東京都小笠原村に属する東西8 km、南北4 kmの火山列島(硫黄列島)中最大のである。

一番標高の高い地点は摺鉢山で標高169メートルである。現在自衛隊の基地となっている硫黄島は、旧島民らの慰霊や基地施設の工事などの例外を除き、一般民間人及び外国人の上陸は禁止されている。

太平洋戦争の激戦(硫黄島の戦い)の地として世界的に有名で、激戦の最中の1945年2月23日に、アメリカ海兵隊が摺鉢山において星条旗を掲揚した光景を撮影した写真『硫黄島の星条旗』(ジョー・ローゼンタール撮影)は、1945年度のピューリッツァー賞 写真部門を受賞している。

目次

[編集] 地形

父島からは300キロメートル、本州グアム島南鳥島沖縄本島から、それぞれ1,200キロメートルから1,300キロメートル程度のほぼ等距離に位置する。島の大半は標高100メートル前後の台地状の比較的なだらかな地形であるが、島の最南端に位置する最高所(標高169メートル)の摺鉢山(パイプ山)は、その名の通り「すり鉢」を伏せたような形状をしている。活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で温泉硫黄泉)が湧き出し、噴出する硫黄ガス(二酸化硫黄等)により、硫黄独特の臭いが立ち込めている。数千年前の海底火山の活動で海底に火砕物が堆積し、それが隆起して誕生した島であり、過去数百年間の平均で、世界的にも珍しい年間約25センチメートルもの速度で、現在も急速な隆起活動が続いている。島西方にある釜岩はかつては一つの独立した島であったが、この急速な隆起活動により現在は硫黄島と地続きとなっている。

2006年11月11日と12月27日に、気象庁が陸域観測技術衛星「だいち」の合成開口レーダーを使い硫黄島を観測したところ、11月11日観測時と比べ、島が20センチメートル隆起していることが発見され、火山噴火予知連絡会が硫黄島の隆起活動が活発化し小規模な水蒸気爆発の危険性を発表した([1])。

硫黄島の南北には、それぞれ北硫黄島南硫黄島があり、この三島で火山列島(硫黄列島)を構成する。三島とも同じつくりの海底火山の島であり、その体積は富士山を遥かに凌ぐ。

[編集] 島名について

島名は、島の至るところで見られる成分の硫黄に由来する。

硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう」、海軍の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた[要出典]アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島は米軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。1968年に同島の施政権が日本国に返還された際に国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻されたが、1982年の地形図改訂の際に小笠原村は同島の呼称を「いおうじま」と東京都に報告、都ではこれに基づき「いおうじま」と公報したため、地形図においても「いおうじま」と呼称されるようになった。各報道機関でも同島を「いおうじま」と報道したことにより、2007年現在は「いおうじま」と呼ばれることが多い。

硫黄島の呼称を「いおうとう」に統一するようにという要望は、旧島民およびその子孫などの間から古くからあった。この要望に応え、2007年3月に小笠原村議会では、第1回議会定例会の最終日に、同島の呼称を「いおうとう」に統一する「硫黄島の呼称に関する決議案」を提出し採択された。これにより小笠原村では、1982年以降地形図の呼称を「いおうじま」としていた国土地理院へ、地名の修正を申請したところ、同院では海図の作成を担当する海上保安庁海洋情報部と「地名等の統一に関する連絡協議会」において協議の結果、2007年6月18日以降、村の申請(現地の呼び名を採用する原則)通り「いおうとう」と称するよう変更することとした。また、併せて北硫黄島は「きたいおうとう」に、南硫黄島は「みなみいおうとう」にそれぞれ変更され、火山(硫黄)列島の三島とも「島」の公式呼称はこれまでの「じま」から「とう」となった。国土地理院では、2007年9月発行の地形図から、ついで海上保安庁の発行する海図でも「いおうとう」が正式な表記となっている。

この変更直前まで国土地理院、海上保安庁の他、NHKでも「いおうじま」としていたが、小笠原村役場と『日本の島ガイドSHIMADAS』を発行する財団法人日本離島センターでは「いおうとう」としていた。

ただし、アメリカにおいては「Iwo Jima(イオージマ)」の名称が継続されている。 これはアメリカにおいては第二次世界大戦中の激戦地として記念地として有名であるため、アメリカ退役軍人会が改名反対の声明を出したことによる。

[編集] 歴史

戦前の硫黄島は、東京都小笠原支庁硫黄島村という行政単位であり、小笠原諸島内でも有数の集落があった。1943年6月の調査によれば、硫黄島村の人口は192戸1018人(男533人、女485人)である。島北部には元山部落、東部落、西部落、南部落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心となっていた。また、島には父島から派遣された警察官1名が駐在していた。

島の交通手段は、月1回の郵便船で母島へ渡り、そこから船で東京へ向かうルートと、2ヶ月に1度の日本郵船の定期船「芝園丸」で東京へ直行するルートがあった。

島内の産業は、硫黄採取、サトウキビ栽培、コカ栽培、レモングラス栽培、漁業等で、これらの産業は硫黄島産業株式会社が取り仕切っており、島民の大半は同社に直接、間接的につながっていた。当時の島民の証言によれば、「きちんと稼げていた」とのことであり、絶海の孤島ではあったが、島民の経済状態は悪くなかったようである。なお、島内での穀物生産は困難のため、は本土からの移入に頼っていた。

硫黄島南部は戦前から海軍省によって要塞地帯に指定され、一般島民の立ち入りが制限されていた。太平洋戦争が始まり、1944年に入ると大本営はマリアナ諸島の防備強化と合わせて小笠原諸島の防備強化を開始し、陸軍部隊(「伊支隊」指揮官:厚地兼彦大佐、4883名)と海軍部隊(「硫黄島警備隊」指揮官:和智恒蔵中佐、1362名)が硫黄島に進出した。この段階では島民も在島していたが、陸海軍部隊は上記要塞地帯に指定された島南部に展開したため、少数の島民が部隊に行商に出かけるほかは、部隊と島民の接触は少なかった。

参謀本部は1944年5月22日に、小笠原防備をさらに増強することを目的として第109師団を創設し、栗林忠道中将を師団長に任命し、栗林中将は6月8日に硫黄島に着任した。6月15日、アメリカ軍はサイパン島上陸とあわせて硫黄島を空襲、翌日の空襲と合わせて島内の各部落はほぼ焼失した。その後も空襲と艦砲射撃が続いたため、島民に対しては6月下旬に父島経由で内地へ疎開する命令が内示され、3回(7月1日、7月12日、7月14日)にわけて島民の疎開が行われ、軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が硫黄島を離れ、島民が生活を営んだ硫黄島村の歴史は幕を閉じた。

その後、1945年2月から3月にかけて行われたこの島の攻防(硫黄島の戦い)で、日本軍2万129人、米軍2万8,686人の戦死傷者を出す大激戦が繰り広げられた。そして3月17日、硫黄島は米軍に占領された。摺鉢山に米軍歩兵によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地(米国の戦没者専用墓地)にある「海兵隊記念碑」のモデルにもなっている。終戦後、島はアメリカ合衆国の施政権のもとにおかれ、1960年代までアメリカ空軍基地として核兵器保管などに用いられた。1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還されたが、島内の地下には無数の不発弾や一万柱を超える日本人兵士の遺骨が残され回収も困難な状態であり、未だ島民の帰島は実現していない。旧島民や遺族、それに戦没者の遺族などの一般の人が硫黄島に上陸が出来るのは、戦没者の慰霊祭の時のみである。

1985年2月19日、硫黄島の米軍上陸40年目に当たる日に、「名誉の再会」と呼ばれる行事が行われた。参加したのは硫黄島戦に参加した両軍の兵士、場所は米軍が上陸した二ッ根浜である。会場中央には両面に文が刻まれた石碑が建てられ、和文が刻まれた山側には日本人参加者が、英文が刻まれた海岸側には米国人参加者が整列した。除幕と献花が行われたあと、参加者たちは碑に向かって歩み寄り、握手・抱擁を交わし合った。その後、1995年3月には50周年記念、2000年3月には55周年の日米合同慰霊祭がこの碑の前で行われている。

[編集] 現在の島

現在は海上自衛隊管理の航空基地が設置され、通常一般の人は島に立ち入ることは出来ない。また、無人島ではないが、所在する海上自衛隊員は神奈川県綾瀬市民、航空自衛隊員は埼玉県狭山市民で、硫黄島に住民登録はされていない。そして、島には自衛隊の隊員以外民間人は殆どいない(飛行場の整備・改修工事を行う東京防衛施設局職員や工事会社数社の作業員、NTT社員などがいる)。周りにも住民が住んでいる島は存在しないため、硫黄島通信所にてアメリカ海軍空母艦載機による夜間離発着訓練(タッチアンドゴー)が行われているほか、航空自衛隊の各種実験飛行といった、日本本土では実施出来ないような軍事利用が出来る貴重な島である。日本で唯一、陸・海・空の3自衛隊の統合的作戦演習が可能な場所でもある。なお、海風による浸食が激しいため、基地施設の改修が常時行われており、その作業に従事する建設業者の住宅施設が存在する。また、国土地理院と気象庁職員が定期的に来島して火山観測を行っている。また、父島や母島の患者緊急搬送時には当該基地で乗り換え搬送する場合がある。

東京とグアム島を結ぶ航空路上に存在するため、時々、計器の故障等の理由で、グアム島、オセアニアから日本、韓国方面に向かう民間機の緊急着陸が行われる事がある。そのため、軍事用飛行場にも拘らず、国際航空運送協会3レターコードが設定されている。2007年3月6日の慰霊訪問で初の民間旅客機によるチャーター便が運行された。これは遺族の要望によるものでJALが行い使用機体はMD-90を使用した。但し、燃料補給が出来ないことから燃料を往復分積みこんだため、110名前後しか搭乗出来なかった。

隆起活動が激しいため、硫黄島に港は作ることができない。船積みのボートが着けられる程度の波止場しか存在しない。その関係で、大型船舶は少し沖合いに停泊せざるを得ない。そのため、航空機では運べないような重量物は、おおすみ型輸送艦を使い、艦載のLCACで揚陸させる。航空燃料軽油などは、沖合いに停泊した民間タンカーから、長大ホースを伸ばして補給を行う。硫黄島への宅配便・郵便物は通常の硫黄島の住所を記載しても届かない(郵便事業株式会社においても「交通困難地」とされている。[2])。隊員の家族の仕送りや外部から業務用の資材や郵便物などは、自衛隊が指定した基地へ一括搬入することになる。

なお、上記にも書いたように、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族などの一般の人の硫黄島上陸が許可される場合もある。慰霊祭のときは、小笠原諸島父島から、小笠原海運の旅客船「おがさわら丸」で島に向かい、船積みのボートで島に上陸する。また、『硫黄島からの手紙』の映画撮影も行われたが、その際は東京都の特別許可によるものであり、一般民間人の上陸は慰霊者や建設関係者以外禁止されている。

防衛大学校の3学年秋季定期訓練において、本島を見学することがある(往復にはC-1またはC-130を利用する)。

[編集] 硫黄島航空基地

硫黄島飛行場
IATA:IWO-ICAO:RJAW
概略
空港種別 軍用
運営者 海上自衛隊
開港日
受け持ち 防衛省
計器着陸装置 設置済
海抜 370フィート
位置 北緯24度47分12秒東経141度19分27秒
滑走路
方向 ILS 全長×全幅(m) 表面
07/25 YES 2650×60 舗装
平行誘導路(緊急滑走路)
方向 ILS 全長×全幅(m) 表面
07/25 YES 2650×30 舗装

硫黄島航空基地(いおうとうこうくうきち、JMSDF Iwojima Air Base)は、硫黄島内にある海上自衛隊飛行場。運営者は海上自衛隊であるが、航空自衛隊の航空機もこの基地を使用する。航空自衛隊における名称は硫黄島分屯基地入間基地の分屯基地という扱いとされている。陸上自衛隊は部隊を派遣しているが、分屯地として扱われてはいない。

基地にある滑走路は2650×60の1本のみだが、2650×30の平行誘導路が、トラブルによる主滑走路閉鎖時に離着陸の可能な緊急滑走路として整備されている。

  • 海上自衛隊は、航空基地施設の維持及び飛来する飛行機に対する航空管制・給油・救難司法警察業務(警務隊担当)・売店や食堂の受け持ちなど(救難活動に小笠原諸島の急患輸送も含まれる)。また、硫黄島駐留部隊には直接関係ないが、毎年夏に、海上自衛隊掃海部隊が、硫黄島近海で実際に機雷を撒いて掃海訓練を行っている。
  • 航空自衛隊は、航空基地を使用している。補給のため、本土から本島や南鳥島への輸送機の運用、各種実験飛行、戦闘機部隊が演習などを行っている。
  • 陸上自衛隊は、太平洋戦争中の砲弾処理などの不発弾処理。また、北関東防衛局(防衛省)の職員が施設整備工事を担当している。自衛隊施設の一部は、日米地位協定による合意により、駐留軍(米軍)に提供が可能であり、日本本土(厚木横田基地)における夜間離着陸訓練(NLP)の実施による騒音負担軽減のため、米軍艦載機によるNLPが実施されることがある。

他には、医官が常駐し(海上、航空自衛隊からそれぞれ派遣)、上記関係者に医療活動を施している。

  • 11月21日15時(UTC)に呼び名と飛行場名称の変更実施
    • 飛行場名: Iwoto 呼び名: Iwo。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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