厚木海軍飛行場
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厚木海軍飛行場 (在日米海軍厚木航空施設/United States Naval Air Facility Atsugi,Japan) |
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IATA:N/A - ICAO:RJTA | |||
概略 | |||
空港種別 | 軍用 | ||
管理者 | 「防衛省」と表現するのが適当と思われる | ||
航空管制 | 海上自衛隊 | ||
使用者 | 海上自衛隊・アメリカ海軍 | ||
運用時間 | 24時間 | ||
海抜 | 62m | ||
位置 | 神奈川県綾瀬市・大和市北緯35度27分16.60秒東経139度27分00.60秒 | ||
滑走路 | |||
方向 | ILS | m×幅 | 表面 |
01/19 | YES | 2,438m×46m | 舗装 |
厚木海軍飛行場(あつぎかいぐんひこうじょう)は、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがる飛行場で、在日米海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、ジェット機が離着陸できる飛行場である。
通称厚木飛行場(あつぎひこうじょう)、海上自衛隊では厚木航空基地(あつぎこうくうきち)と呼ばれるが、日本の公的資料では「厚木海軍飛行場」と呼称されている。米海軍は空母キティホーク艦載機の本拠地として使用しており、海上自衛隊は対潜哨戒機や救難ヘリコプターの基地として使用している。
米軍内における名称はUnited States Naval Air Facility Atsugi(合衆国海軍厚木航空施設)である。
目次 |
[編集] 沿革
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大日本帝国海軍が、主に東京防衛の拠点として1938年に着工、1942年に完成した。
太平洋戦争末期は海軍の東京防空拠点となり、米軍の空襲ごとに戦闘機が飛び立ち迎撃に向った。この戦闘機隊は第三〇二海軍航空隊(略称302空)と呼ばれ、人員・装備とも枯渇しきった大戦末期の海軍航空兵力の中にあって数少ない精鋭部隊の一つだった。
1945年(昭和20年)8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を決定。しかし302空司令の小園安名大佐は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず徹底抗戦を主張し、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなど、厚木飛行場の部隊は反乱状態に陥った。8月16日、米内光政海軍大臣の命により寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐、第三航空艦隊参謀長・山澄大佐などが説得にあたるも、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった。8月18日、小園大佐は当時罹患していたマラリアにより、40℃近くまで発熱し興奮状態が続いたため、8月20日に航空隊軍医長の手で鎮静剤を打たれ、革手錠をかけられ野比海軍病院(現独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)の精神科へ強制収容された。
8月21日、フィリピンのマニラへ降伏軍使として派遣していた停戦全権委員より、「米軍東京占領の拠点として厚木飛行場に8月26日に第一陣、8月28日にマッカーサー連合軍総司令官と司令部が到着する予定である」との文書がもたらされた。これにより8月22日、小園大佐の拘束後も逃走せず暴動状態であった兵たちが強制退去させられ、厚木飛行場の反乱は収束した。8月23日厚木飛行場に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいった。悪天候のため当初通告より2日遅れの8月28日に、大規模な米軍先遣隊(指揮官テンチ大佐)の輸送機ダグラスC54が打ち合わせと逆の方向から着陸し、ジープを下ろして飛行場の接収を行った。
その2日後の8月30日、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーの乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(ライフカメラマンのカール・マイダンス撮影)が現存し、日本の敗戦や連合国による占領時代を象徴する1枚としてしばしば用いられる。
その後、厚木飛行場は米陸軍によって管理されるが、飛行場としてではなく専ら資材置場として、キャンプ座間の補助施設のような形で用いられ、不要となって解体された格納庫の鉄骨などが、蔵前国技館の建設資材として転用されている。1949年には一旦閉鎖され、接収解除も目前であった。しかし、翌1950年に朝鮮戦争が勃発すると、厚木飛行場は再認識され、米軍の極東における中核航空基地の一つとして復活、管轄も陸軍から海軍に移動する。朝鮮戦争の停戦後も飛行場は順次整備・拡張され、1960年代には現在とほぼ同じ姿になった。
ベトナム戦争の終息に伴い米軍航空隊は次第に撤退し、代わりとして1971年には海上自衛隊が使用を始めた。その後、1973年に米第7艦隊の空母ミッドウェイが横須賀港を母港にすると、ミッドウェイの艦載機が厚木に駐留するようになり、ここに「米空母艦載機の基地兼海上自衛隊の基地」という位置づけが成立した。この位置づけは1970年代末期以降の冷戦再燃に伴って固定化し、空母がミッドウェイからインディペンデンス (CV-62)を経てキティホークに代替わりした現在も基本的に変わっていない。 尚、西暦2008年度中には、ニミッツ級航空母艦ジョージ・ワシントン(George Washington、CVN-73)が、キティーホークに換わり、横須賀に配備される予定である。
[編集] 航空管制
種類 | 周波数 | 運用時間 |
GND | 141.2MHz,299.7MHz | |
TWR | 126.2MHz,236.8MHz,340.2MHz,360.2MHz | 6:00~2200 |
YOKOTA DEP | 122.1MHz,363.8MHz | |
YOKOTA APP | 118.3MHz,123.8MHz,261.4MHz,270.6MHz,367.0MHz | |
BIDDY ATSUGI | 3050.0KHz,8981.5KHz | |
MET | 306MHz | 6:00~22:00 |
ATIS | 246.8MHz | 6:00~22:00 |
RESCUE | 123.1MHz |
- 運用時間の空欄は、24時間運用
[編集] 航空保安無線施設
局名 | 種類 | 周波数 | 識別信号 |
厚木 | TACAN | 1185.0MHz | NJA |
厚木 | ILS | 111.3MHz | IAG |
- 運用時間は、24時間
[編集] 名前の由来
敷地は大和市と綾瀬市にまたがっているが、両市とも名前の由来となっている厚木市との間は海老名市や相模川によって隔てられており、地理的に「厚木」との関連性が全くない。なぜこの飛行場に「厚木」の名がつけられたのかについては昔から様々に論じられており、比較的知られているものとしては、
- 「大和」は当時の最高軍機であった「戦艦大和」に通じ海軍飛行場の名前には適さないとして、近隣の地名で大山街道の宿場として比較的名の通った「愛甲郡厚木町」から名前を取ったとする説
- 海軍が防諜の目的で所在地を欺瞞するため、意図的に違う場所の名前をつけたとする説
などがあり、とりわけ前者については広く人口に膾炙され半ば通説と化しているが、厚木飛行場完成後の1944年、海軍が奈良県で実際に「大和飛行場」を建設しているため、この説には矛盾が生じる。また後者については、飛行場という施設の特徴上、異なった土地の名前をつけたところで敵機が空から見れば一目瞭然のため効果は疑わしく、他の飛行場でも同様の例が殆ど見られないことからこちらも信憑性が低い。一方、比較的妥当性が認められるものとしては、
- 完成当時の飛行場所在地の地名は「高座郡大和村・綾瀬村・渋谷村」であるが、「大和」「綾瀬」「渋谷」のいずれも他の有名な土地(大和國・つまり奈良県、東京市足立区綾瀬、東京市渋谷区)と重複する名称で紛らわしいため、「戦艦大和重複回避説」と同じく「愛甲郡厚木町」から名前を取ったとする説
- 建設当時は「大和村・綾瀬村・渋谷村」は農村地帯で、飛行場の所在地は当時神奈川県の中でも交通の便が悪いところであるため飛行場へ案内する都合上、大山街道の宿場町であり、商店や料理屋・旅館が立ち並んでいた「愛甲郡厚木町」から名前を取ったとする説
があるが、実際に命名に関与した者がことごとく他界しており、現在では真相を知り得る可能性はほぼ完全に消失している。
なお、同じように相模川東岸にあるにもかかわらず「厚木」を名乗っているものとしてJR相模線・小田急小田原線厚木駅がある。また、繊維メーカーのアツギ(旧社名:厚木ナイロン工業)も本社が海老名市であるが、こちらは厚木基地の知名度を利用して基地名が逆に企業名に採用されたものである(詳しくはアツギ#社名の由来を参照)。
[編集] 墜落事故
周辺では離着陸する飛行機の墜落事故が多数発生しており、そのうち重大なものだけでも以下のような事故がある:
- 1964年4月5日、町田市中心街にF-8戦闘機が墜落、住民4人死亡。(町田米軍機墜落事故)
- 同年9月8日、大和市の鉄工所にF-8戦闘機が墜落、住民と従業員5人死亡。(大和米軍機墜落事故)
- 1977年9月27日、横浜市緑区(現青葉区)荏田町の住宅街にRF-4Bファントム偵察機が墜落、幼児2人が死亡、母親も闘病4年後に死亡、その他多数が重軽傷を負う(横浜米軍機墜落事件)。
現在でもこのような事故が起こる危険性が解消されたわけではない。相模鉄道も過去に墜落事故の為不通となったことがあり、 リスク回避のため滑走路延長線部分に当たる区間はコンクリートによってトンネル化された。その後建設された東名高速道路の大和トンネルも同様の理由に拠る。
[編集] 騒音問題
住宅地のすぐ上を軍用機が飛ぶときの騒音はすさまじいもので、対策として大和市や藤沢市などで二重窓化などの住宅改造が公費で行われている。とくに米軍のNLP(Night Landing Practice 夜間離着陸訓練)が行われる場合、住民の苦情が多い。
厚木基地周辺では、戦後、軍用機の騒音が問題になっていたが、1982年2月から、空母ミッドウェーの艦載機による夜間離着陸訓練が行われるようになり、騒音問題はさらに悪化した(なお、ミッドウェーは1973年より横須賀港に入港している)。米軍機の飛行差し止め訴訟も起こっており、裁判は最高裁までもつれこんだ(第1次厚木基地爆音訴訟(1973年~1995年)、第2次(1984年~1999年)、第3次(1997年~)。いずれも損害賠償は認め、飛行差し止めは棄却)[1]。こうした環境から、例えば、1988年8月には、瓦力防衛庁長官(当時)が、厚木基地は夜間離着陸訓練を行う場所として不適切として、硫黄島への実施場所移動について言及している[2]。
神奈川県や基地周辺各市といった周辺自治体も騒音対策を訴えていた。さらに、神奈川県と基地周辺各市は1988年8月16日に「厚木基地騒音対策協議会」を設立。日本政府や、米国大使館に、騒音低減を求める活動を行っている。日本政府は騒音対策のため、硫黄島通信所に夜間離着陸訓練用の基地施設を建設(アメリカ軍への引き渡しは、1993年4月)。横須賀港に入港する空母の夜間離着陸訓練については、約90%が硫黄島で行われている[3][4]。
また、世界的な米軍再編計画の一環として、厚木基地から山口県の岩国基地へ、艦載機の全面移転が計画されている。しかし日本国内の調整が終わっておらず、山口県側の反対もあり、実現は早くとも2013年以降になる見込みである。移転後には、厚木基地の民間利用の可能性もある。これが実現された際には羽田と成田空港の混雑緩和が可能であり、航空路線の増便による経済効果も大きく、日本経済にとっては大きなメリットがあるが、騒音問題に関する地元の反発は必至と見られる。ただし最近の民間機は騒音が小さく、軍用機ほどではないとの意見もある。また2006年10月から「検討開始から12ヶ月で終了する」という横田基地軍民共用化の検討協議において、米国防副次官が入間基地や厚木基地の軍民共用化を逆提案しており、横田基地に代わり入間基地と厚木基地の軍民共用化の選択肢も考えられる。
[編集] 配置部隊
[編集] 海上自衛隊
- 航空集団司令部
- 航空プログラム開発隊
- 厚木システム通信分遣隊
- 厚木警務分遣隊
- 厚木情報保全分遣隊
[編集] 現在の主な常駐機
[編集] 米海軍
[編集] 米陸軍
UC-35A
[編集] 海上自衛隊
P-3C、UP-3、UH-60J、SH-60J、SH-60K、YS-11、TC-90など
[編集] 過去の主な常駐機
[編集] 旧日本海軍
[編集] 米海軍
[編集] 海上自衛隊
U/O/UP-3C、US-1、YS-11M、P-2V、P-2J、SH-60J など
[編集] 参考文献
- 岡本 喬『海軍厚木航空基地』(同成社、1987年) ISBN 4886210473
[編集] 脚注
- ^ 海老名市ホームページ 厚木基地の沿革
- ^ 厚木基地騒音対策協議会 設立の趣旨及び経過
- ^ 厚木基地騒音対策協議会 基地協議会について
- ^ 厚木基地騒音対策協議会平成13年度資料 NLPに関する騒音状況
[編集] 外部リンク
- 厚木航空基地(海上自衛隊公式サイト)
- 大和市基地対策課
- 厚木基地(綾瀬市)
- Naval Air Facility Atsugi(米海軍厚木航空施設ホームページ、英語)
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