遠国奉行
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遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸以外の幕府直轄領(天領)内の重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行、役方に分類される。大坂・京都・駿府の町奉行のほか、長崎奉行などが置かれ、その職には主に幕府旗本が任ぜられた。老中の支配下で芙蓉間詰諸大夫役で、役高は1000石から2000石と任地により異なり役料が支給されることもあった。
管轄地を奉行知行所と呼び、1868年江戸幕府が倒れると、明治政府によって江戸を含む主な9つの場所には府が置かれた。このうち江戸府は後東京府に名前を変えた。1871年の廃藩置県までの間に、東京府・大阪府・京都府をのぞく箱館府・神奈川府・越後府・新潟府・甲斐府・度会府・奈良府・長崎府の各府は県となった。
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[編集] 京都町奉行
- 詳細は京都町奉行参照
老中支配であるが、任地の関係で京都所司代の指揮下で職務を行った。京都町政の他畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行勘定奉行町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった。定員は2名で、東西2つの奉行所が設置されていた。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下には与力20騎と同心50人が付いた。
[編集] 伏見奉行
伏見城廃城後に城代に代わって置かれた。定員は1名。京都への入口である伏見宿及び淀川河岸を監督(大名が参勤交代の途中で勝手に入京して朝廷と接触しないように)するため、遠国奉行の中では唯一大名が就任することがあった役職である。そのため足高制の対象になっていないが、役料として3000俵が支給された。配下は与力10騎同心50人。また、京都所司代や京都町奉行とのつながりが強く、京都での大事の際には支援に駆けつける事もあった。また、寛文年間には京都町奉行が形式上伏見奉行の員外で扱われていたり、逆に元禄・文化年間には伏見奉行が京都町奉行に統合されることがあった。なお、小堀政方が伏見奉行の時に伏見騒動と呼ばれる事件が発生し、政方の近江小室藩が改易される事態となっている。
伏見奉行就任者
- 柴山定好
- 長田喜兵衛
- 門奈宗勝
- 山田重次
- 山口直之
- 小堀政一 元和9年(1623)-正保4年(1647)2月
- 水野忠貞 正保4年(1647)6月-寛文9年(1669)4月20日
- 小出尹貞 万治3年(1660)11月22日-寛文5年(1665)6月25日※
- 宮崎重成 寛文5年(1665)8月6日-寛文8年(1665)12月8日※
- 小出尹貞 寛文5年(1665)8月6日-寛文8年(1665)12月8日※
- 仙石久俊 寛文9年(1669)7月3日-天和元年(1681)10月21日
- 戸田忠利 天和2年(1682)1月11日-貞享3年(1686)11月11日
- 岡田善次 貞享3年(1686)11月11日-元禄7年(1694)3月12日
- 青山幸豊 元禄7年(1694)3月28日-元禄9年(1696)1月15日
- (中断)
- 建部政宇 元禄11年(1698)11月15日-正徳4年(1714)7月11日
- 石川総乗 正徳4年(1714)7月11日-享保5年(1720)5月24日
- 北条氏朝 享保5年(1720)6月21日-享保19年(1734)10月15日
- 小堀政峯 享保19年(1734)10月20日-延享3年(1746)3月1日
- 菅沼定用 延享3年(1746)3月1日-寛延4年(1751)10月15日
- 堀直寛 寛延4年(1751)10月15日-宝暦8年(1758)11月18日
- 久留島光通 宝暦8年(1758)11月28日-明和元年(1764)9月18日
- 本多忠栄 明和元年(1764)10月15日-安永7年(1778)10月25日
- 小堀政方 安永7年(1778)11月8日-天明5年(1785)12月27日
- 久留島通祐 天明5年(1785)12月27日-寛政3年(1791)4月
- 本庄道利 寛政3年(1791)5月24日-寛政7年(1795)12月4日
- 松平喜生 寛政7年(1795)12月12日-寛政12年(1800)11月28日
- 加納久周 寛政12年(1800)12月28日-文化7年(1810)12月20日
- 本多政房 文化7年(1810)12月24日-文化9年(1812)11月24日
- 丹羽氏昭 文化9年(1812)1月12日-文政2年(1819)8月8日
- 仙石久功 文政2年(1819)8月21日-文政6年(1809)2月
- 堀田正民 文政6年(1809)3月24日-文政10年(1813)5月12日
- 本庄道貫 文政10年(1813)10月12日-天保4年(1833)6月8日
- 加納久儔 天保4年(1833)6月8日-天保9年(1838)9月1日
- 内藤正縄 天保9年(1838)9月24日-安政6年(1859)8月11日
- 林忠交 安政6年(1859)8月28日-慶応3年(1867)5月
※…ただし、小出尹貞・宮崎重成・雨宮正種は、定員外の伏見奉行として京都に派遣されており、伏見には入っていない。寛文8年に京都町奉行が正式に設置されたことによって、定員外の伏見奉行はそのまま京都東西奉行に転じている。
[編集] 大坂町奉行
- 詳細は大坂町奉行参照
定員2名で東西2つの奉行所が設置された。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下は与力30騎同心50人。
[編集] 駿府町奉行
駿府城下の町政の他、東海道の江尻・丸子両宿および清水港を管轄した。定員1名。役高は1000石で、役料として500俵が支給された。配下は与力8騎同心60人。
[編集] 長崎奉行
- 詳細は長崎奉行参照
長崎町政の他、オランダとの貿易も担当した。定員は変動が多く、最初1名で、寛永10年(1633年)より2名、貞享3年(1686年)より3名、元禄13年(1700年)より4名と増員されたが、宝永以降は2名で固定された。役高は1000石で、役料として440俵が支給された。配下は与力10騎同心15人。
[編集] 下田奉行・浦賀奉行
江戸湾に入る船舶の監視を担当した。当初元和2年(1616年)に伊豆下田に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模浦賀に移転した。定員1名。役高は1000石で、役料500俵を支給された。配下は与力10騎同心50人。幕末期には外国との交渉の窓口となったため、増員が行われ、また天保13年(1842年)-天保15年(1844年)及び嘉永7年(1854年)-万延元年(1860年)にかけては外国船の来航に備えて下田奉行も再置され、この期間には浦賀・下田の両奉行所が並存していた。主として会津藩士が赴任した。
下田奉行就任者(幕末再置後)
- 小笠原長穀 天保13年(1842)12月24日-天保14年(1843)閏9月28日
- 土岐頼旨 天保14年(1843)閏9月28日-天保15年(1844)2月8日
- (中断)
- 伊澤政義 嘉永7年(1854)3月24日-安政2年(1855)8月9日
- 都筑峯重 嘉永7年(1854)4月22日-安政2年(1855)5月22日
- 井上清直 安政2年(1855)4月1日-安政6年(1859)2月24日
- 岡田忠養 安政2年(1855)5月22日-安政4年(1857)4月27日
- 中村時萬 安政4年(1857)4月27日-万延元年(1860)閏3月15日
[編集] 山田奉行
伊勢奉行とも呼ばれた。当初、奉行所は伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)に置かれ、のち伊勢国度会郡小林(現・伊勢市御園町小林)に移転。伊勢神宮の守護と門前町の支配、伊勢、志摩における訴訟、鳥羽港の警備などを担当した。
定員は1名、元禄9年(1696年)には2名となり、江戸と現地で交代勤務となる。役高は1000石で、役料1500俵を支給された。配下は与力6騎同心70人水主40人。御三家のひとつ紀州徳川家領と接していることからしばしば係争が発生し、将軍吉宗時代に江戸町奉行として活躍する大岡越前守忠相が務めたこともあり、奉行時代の忠相の働きに感心した紀州藩主時代の徳川吉宗が、のちに抜擢したという伝説があることでも知られる。 慶長八年江戸幕府は伊勢大神宮神領地に「山田奉行所」を置いた。外宮・内宮両大神宮の警固は勿論の事、伊勢湾・南海での異国不審船の取締りや伊勢志摩神領以外も支配したが、「日光御奉行」と同等同格の「山田御奉行」の最重要任務は「二十一年目御遷宮奉行」を取り仕切る任務であった。そもそも「御遷宮奉行」は伊勢大神宮の祭主が兼任して居ったが、「影流始祖愛洲久忠」の父であろう「愛洲伊予守忠行」が武家として初めて大神宮神領奉行職に文明年間任じられた。[神領奉行所は岩出祭主館跡と思われる] 江戸幕府は「愛洲伊予守忠行」の先蹤を引継ぎ、以来明治御維新迄只の一度も途切れず、源頼朝以上の「敬神敬祖」の範を示し御遷宮を行ってきた。御遷宮に掛かる費用は平成十五年第六十一回式年遷宮で約三百二七億円と云われており、如何に歴代山田奉行が伊勢大神宮に御奉仕したかが解る。 「寛永十八年御奉行小林村に御居住したまへる以前より、孔雀丸・虎丸と謂う御船あり、享保十三年戊申五月はじめ御奉行保科淡路君如何なる故にや、虎丸の御船を大湊の沖に泛かしめ給ふ。尤も近来稀なることなり。孔雀丸は汚損せしと云へり、今御船の御公用なければ其の水主同心七十五人は常に御役所付の諸役を勤む。」と御普請役御組頭橋本市郎左衛門重永の[享保庚戌備忘録]に記されている。(御普請役御組頭子孫 橋本石洲著 『伊勢山田奉行沿革史』に依る)
山田奉行就任者
- 長野友秀
- 山岡景政
- 日向正成
- 水谷光勝
- 岡田善同
- 花房幸次
- 中川忠勝
- 石川正次 寛永18年(1641)1月11日-万治2年(1659)4月19日
- 八木宗直 万治2年(1659)5月15日-寛文5年(1665)7月8日
- 桑山貞政 寛文6年(1666)3月1日-天和4年(1684)2月4日
- 岡部勝重 貞享元年(1684)2月26日-元禄9年(1696)2月12日
- 久永重高 元禄9年(1696)2月4日-元禄12年(1699)2月26日
- 長谷川重頼 元禄9年(1696)2月14日-宝永5年(1708)6月23日
- 浅野長恒 元禄12年(1699)2月28日-元禄14年(1701)11月6日
- 堀利喬 元禄14年(1701)12月15日-宝永4年(1707)10月13日
- 佐野直行 宝永4年(1707)10月21日-正徳元年(1711)11月2日
- 大岡忠相 正徳2年(1712)1月11日-享保元年(1716)2月11日
- 黒川正増 享保元年(1716)2月12日-享保11年(1726)2月26日
- 渡辺輝 宝永5年(1708)6月23日-享保11年(1726)8月7日
- 保科正純 享保11年(1726)8月7日-享保17年(1732)8月8日
- 堀直方 享保17年(1732)8月28日-元文3年(1738)2月27日
- 加藤明雅 元文3年(1738)3月15日-延享3年(1746)3月27日
- 堀利興 延享3年(1746)4月28日-寛延4年(1751)7月26日
- 水野忠福 寛延4年(1751)8月15日-宝暦11年(1761)9月11日
- 大岡忠移 宝暦11年(1761)9月28日-宝暦13年(1763)6月1日
- 依田恒信 宝暦13年(1763)6月1日-明和8年(1771)10月18日
- 松田貞居 明和8年(1771)10月20日-安永4年(1775)2月9日
- 山田利寿 安永4年(1775)3月20日-天明6年(1786)2月28日
- 野一色義恭 天明6年(1786)2月28日-寛政6年(1794)4月7日
- 堀田正貴 寛政6年(1794)4月7日-享和2年(1802)7月12日
- 筧為親 享和2年(1802)7月12日-文化3年(1806)(日付不詳)
- 小林正秘 文化3年(1806)4月3日-文化8年(1811)3月8日
- 大河内政長 文化8年(1811)3月24日-文化13年(1816)12月14日
- 高井実徳 文化14年(1817)4月8日-文政3年(1820)11月5日
- 星野銕三郎 文政3年(1820)11月24日-文政10年(1827)12月8日
- 牧野成文 文政11年(1828)1月11日-文政13年(1830)5月28日
- 金森可充 文政13年(1830)5月28日-天保6年(1835)8月10日
- 柴田康直 天保6年(1835)8月10日-天保11年(1840)5月11日
- 三枝守行 天保11年(1840)5月15日-天保12年(1841)1月10日
- 落合道一 天保12年(1841)閏1月24日-天保14年(1843)8月5日
- 柳生久包 天保14年(1843)9月1日-天保15年(1844)9月28日
- 太田資継 天保15年(1844)10月15日-弘化4年(1847)7月17日
- 小出英美 弘化4年(1847)7月17日-嘉永元年(1848)5月24日
- 河野通訓 嘉永元年(1848)6月24日-嘉永3年(1850)9月23日
- 山口直信 嘉永3年(1850)9月23日-安政5年(1858)1月11日
- 渡辺孝綱 安政5年(1858)2月9日-安政6年(1859)9月10日
- 秋山正光 安政6年(1859)10月28日-文久3年(1863)4月
- 本多忠貫 文久3年(1863)10月8日-?
[編集] 日光奉行
日光東照宮守護を担当した。定員2名で、内1名は江戸詰となる。役高は2000石で、役料500俵を支給された。配下は同心36人。
日光奉行就任者
- 梶定良 承応元年(1652)7月21日-元禄11年(1698)
- 井上正清 元禄13年(1700)8月28日-宝永2年(1705)8月27日
- 稲葉正能 元禄13年(1700)8月28日-正徳3年(1713)3月29日
- 彦坂重秀 宝永2年(1705)9月1日-宝永6年(1709)8月26日
- 能勢頼恒 宝永6年(1709)8月27日-正徳元年(1711)5月15日
- 赤松範恭 正徳元年(1711)5月15日-正徳3年(1713)8月18日
- 長崎元仲 正徳3年(1713)2月29日-正徳5年(1715)12月28日
- 松平康納 正徳3年(1713)8月18日-享保12年(1727)6月28日
- 天野昌孚 正徳5年(1715)12月28日-享保8年(1723)1月11日
- 駒井勝峯 享保8年(1723)1月11日-享保10年(1725)3月2日
- 林忠勝 享保10年(1725)3月11日-享保17年(1732)9月24日
- 竹中定矩 享保12年(1727)6月28日-享保20年(1735)6月11日
- 水野勝彦 享保17年(1732)10月15日-享保20年(1735)2月15日
- 加藤納泰 享保20年(1735)2月15日-元文2年(1737)閏11月23日
- 蜂屋定延 享保20年(1735)6月25日-元文5年(1740)8月15日
- 曲淵英元 元文2年(1737)閏11月23日-元文4年(1739)9月21日
- 服部保弘 元文4年(1739)9月22日-延享3年(1746)6月11日
- 曽我善祐 元文5年(1740)8月15日-延享元年(1744)11月30日
- 稲生正延 延享元年(1744)12月1日-宝暦3年(1753)7月5日
- 大津勝峯 延享3年(1746)6月11日-宝暦8年(1758)4月28日
- 桜井政甫 宝暦3年(1753)7月5日-宝暦5年(1755)7月21日
- 桑嶋政恒 宝暦5年(1755)8月15日-宝暦7年(1757)11月3日
- 加藤正名 宝暦7年(1757)11月24日-明和元年(1764)6月28日
- 山田勝之 宝暦8年(1758)4月28日-宝暦14年(1764)3月28日
- 神尾春由 宝暦14年(1764)3月28日-明和3年(1766)4月22日
- 浅野氏従 明和元年(1764)6月28日-明和7年(1770)12月24日
- 戸川逵知 明和3年(1766)4月28日-安永3年(1774)5月4日
- 菅沼虎常 明和7年(1770)12月28日-安永7年(1778)8月24日
- 京極高宅 安永3年(1774)5月4日-安永4年(1775)3月1日
- 天野康幸 安永4年(1775)3月20日-天明4年(1784)2月12日
- 酒井忠敬 安永7年(1778)8月24日-天明4年(1784)10月28日
- 井戸張佐 天明4年(1784)2月12日-寛政2年(1790)10月21日
- 水野勝羨 天明4年(1784)11月1日-寛政元年(1789)閏6月19日
- 佐橋佳和 寛政元年(1789)閏6月19日-寛政4年(1792)閏2月8日
- 高尾信福 寛政2年(1790)10月21日-寛政5年(1793)2月24日
- 八木補之 寛政4年(1792)7月8日-寛政6年(1794)10月29日
- 山口直清 寛政5年(1793)3月8日-寛政7年(1795)7月16日
- 太田資同 寛政6年(1794)11月17日-寛政8年(1796)9月25日
- 有田貞勝 寛政7年(1795)8月29日-享和2年(1802)7月12日
- 水野忠道 寛政8年(1796)9月25日-寛政10年(1798)3月21日
- 森川俊尹 寛政10年(1798)6月4日-寛政12年(1800)閏2月8日
- 大久保忠寅 寛政12年(1800)4月8日-享和2年(1802)2月23日
- 三橋成方 享和2年(1802)2月23日-文化5年(1808)12月26日
- 丸毛利隆 享和2年(1802)8月8日-文化2年(1805)3月8日
- 仙石久功 文化2年(1805)3月8日-文化3年(1806)7月1日
- 馬場尚之 文化3年(1806)7月1日-文化5年(1808)3月14日
- 小笠原長世 文化5年(1808)3月28日-文化10年(1813)8月5日
- 逸見長祥 文化6年(1809)1月28日-文化7年(1810)8月
- 小嶋正苗 文化8年(1811)2月13日-文政元年(1818)4月24日
- 本多繁文 文化10年(1813)8月20日-文化12年(1815)6月17日
- 松平忠明 ?-文化12年(1815)8月12日
- 初鹿野信政 文化12年(1815)8月12日-文政4年(1821)7月12日
- 土屋正備 文政元年(1818)4月24日-文政7年(1824)8月28日
- 筑紫孝門 文政4年(1821)7月12日-文政6年(1823)9月20日
- 本多正収 文政6年(1823)9月20日-文政9年(1826)6月17日
- 織田信與 文政7年(1824)閏8月12日-文政13年(1830)10月20日
- 森川氏昌 文政9年(1826)6月28日-文政11年(1828)6月11日
- 太田資寧 文政11年(1826)6月12日-天保7年(1836)9月20日
- 小笠原直信 文政13年(1830)10月20日-天保4年(1833)3月21日
- 高橋重賢 天保4年(1833)4月9日-天保4年(1833)?月?日
- 逸見長道 天保4年(1833)9月10日-天保8年(1837)4月1日
- 山岡景定 天保7年(1836)10月8日-天保13年(1842)5月24日
- 稲生正興 天保8年(1837)4月28日-天保14年(1843)5月30日
- 中坊広風 天保13年(1842)5月24日-天保15年(1844)8月28日
- 堀田正路 天保14年(1843)5月30日-弘化2年(1845)5月9日
- 河野通訓 天保15年(1844)9月28日-嘉永元年(1848)6月24日
- 桜井勝彦 弘化2年(1845)5月9日-弘化3年(1846)12月22日
- 戸田氏栄 弘化4年(1847)1月25日-弘化4年(1847)2月9日
- 一柳直方 弘化4年(1847)2月9日-嘉永4年(1851)11月24日
- 山口直信 嘉永元年(1848)7月10日-嘉永3年(1850)9月23日
- 戸田氏著 嘉永3年(1850)9月29日-嘉永5年(1852)10月8日
- 小出英照 嘉永4年(1851)12月8日-嘉永6年(1853)7月10日
- 堀利邦 嘉永5年(1852)10月8日-嘉永7年(1854)7月24日
- 三好長済 嘉永6年(1853)7月20日-安政4年(1857)9月15日
- 松平乗利 嘉永7年(1854)閏7月1日-安政5年(1858)2月9日
- 長谷川正直 安政4年(1857)10月24日-万延元年(1860)10月10日
- 河尻鎮長 安政5年(1858)2月9日-文久元年(1861)11月22日
- 山岡景恭 万延元年(1860)10月22日-文久2年(1862)閏8月15日
- 小花和正度 文久元年(1861)11月22日-文久2年(1862)5月22日
- 松平庸 文久2年(1862)5月28日-文久2年(1862)7月3日
- 小倉正義 文久2年(1862)7月3日-慶応2年(1866)2月10日
- 小笠原広業 元治2年(1865)1月28日-元治2年(1865)5月7日
- 能勢頼之 慶応元年(1865)5月7日-慶応元年(1865)8月10日
- 高木守庸 慶応元年(1865)8月10日-慶応3年(1867)9月1日
- 新庄直温 慶応3年(1867)8月5日-?
- 岩田通徳 慶応4年(1868)閏4月11日-?
[編集] 奈良奉行
興福寺・東大寺など南都の大寺院の監視とその門前町(ならまち・奈良きたまち)の支配のため設置。定員1名。役高1000石で、役料700俵を支給された。配下は与力7騎同心30人。奉行所は現・奈良女子大学の敷地内に置かれていた。
奈良奉行就任者
- 中坊秀政 慶長7年(1602)-慶長14年(1609)
- (筒井伊賀守) 慶長7年(1602)-寛永の頃
- 中坊時祐 寛永15年(1638)11月9日-寛文4年(1664)4月3日
- 土屋利次 寛文4年(1664)5月1日-寛文9年(1669)11月14日
- 溝口信勝 寛文10年(1670)2月28日-天和元年(1681)10月22日
- 大関増公 天和2年(1682)1月11日-貞享2年(1685)7月8日
- 大岡忠高 貞享2年(1685)8月13日-元禄6年(1693)4月1日
- 神尾元知 元禄6年(1693)-元禄9年(1696)
- 内田守政 元禄9年(1696)4月14日-元禄14年(1701)2月22日
- 妻木頼保 元禄9年(1696)4月14日-宝永4年(1707)6月8日
- 横山元知 元禄14年(1701)2月18日-元禄15年(1702)11月28日
- 三好長広 宝永4年(1707)6月16日-正徳元年(1711)10月28日
- 中坊秀広 正徳元年(1711)11月22日-享保10年(1725)8月20日
- 丹羽長道 享保10年(1725)9月13日-享保11年(1726)
- 細井安明 享保11年(1726)1月28日-享保14年(1729)6月28日
- 松平乗有 享保14年(1729)7月5日-元文5年(1740)9月11日
- 石黒易慎 元文5年(1740)9月28日-宝暦3年(1753)4月18日
- 神尾元籌 宝暦3年(1753)4月18日-宝暦4年(1754)6月11日
- 山本雅〓 宝暦4年(1754)6月11日-宝暦8年(1758)6月24日 ※〓は「土慮」
- 山岡景之 宝暦8年(1758)7月18日-明和3年(1766)2月4日
- 酒井忠高 明和3年(1766)2月18日-明和7年(1770)閏6月3日
- 小菅武第 明和7年(1770)閏6月3日-安永5年(1776)12月12日
- 菅沼定亨 安永5年(1776)12月12日-安永7年(1778)8月7日
- 松田勝易 安永7年(1778)8月24日-天明7年(1787)5月26日
- 小出有乗 天明7年(1787)5月26日-天明8年(1788)9月20日
- 三浦正子 天明8年(1788)10月19日-寛政3年(1791)12月23日
- 柴田康成 寛政4年(1792)1月22日-寛政5年(1793)(←?)12月28日
- 加藤正脩 寛政5年(1793)3月1日-享和元年(1801)5月2日
- 岩瀬氏紀 享和元年(1801)6月13日-文化3(1806)3月4日
- 鈴木正義 文化3年(1806)3月4日-文化12(1815)1月17日
- 川井久徳 文化12年(1815)1月17日-文政元年(1818)11月28日
- 本多重賀 文政元年(1818)12月12日-文政4年(1821)3月16日
- 井上正章 文政4年(1821)4月8日-天保2(1831)3月22日
- 梶野良材 天保2年(1831)4月8日-天保7(1836)12月8日
- 本多繁親 天保8年(1837)1月11日-天保12(1841)8月20日
- 池田頼方 天保12年(1841)9月24日-弘化3年(1846)1月11日
- 川路聖謨 弘化3年(1846)1月11日-嘉永4年(1851)6月24日
- 佐々木顕発 嘉永4年(1851)7月28日-嘉永5年(1852)10月8日
- 戸田氏箸 嘉永5年(1852)10月8日-安政5年(1858)8月23日
- 根岸衛奮 安政5年(1858)11月8日-文久元年(1861)9月12日
- 桑山元柔 文久元年(1861)9月26日-文久2年(1862)8月30日
- 山岡景恭 文久2年(1862)閏8月15日-慶応元年(1865)10月17日
- 安藤次誠 元治元年(1864)11月22日-慶応2年(1866)12月3日
- 小俣景行 慶応2年(1866)11月4日-?
[編集] 堺奉行
- 詳細は堺奉行参照
定員1名。役高1000石で、役料現米600石を支給された。配下は与力10騎同心50人。
[編集] 佐渡奉行
- 詳細は佐渡奉行参照
佐渡金山の支配を担当した。定員1名。役高1000石で、役料として1500俵100人扶持を支給された。配下は与力30騎同心70人。
[編集] 箱館奉行(松前奉行)
北辺警護のため松前藩の領地であった蝦夷地を上知した享和2年(1802年)に設置された。幕末には開港地箱館における外国人の応対も担当した。定員は2名で、内1名は江戸詰となる。役高は2000石で、役料1500俵が支給された。奉行所は、最初は現在の元町公園(函館市元町)に置かれたが、五稜郭築城後にそちらへ移転した。
箱館奉行就任者
- 竹内保徳 嘉永7年(1854)6月30日-万延2年(1861)1月20日
- 堀利忠 嘉永7年(1854)7月21日-万延元年(1860)11月20日
- 村垣與三郎 安政3年(1856)7月28日-文久2年(1862)7月6日
- 津田正路 安政5年(1858)10月11日-文久2年(1862)7月5日
- 勝田充 万延元年(1860)9月7日-文久2年(1862)7月5日
- 糟屋義明 文久元年(1861)6月21日-文久元年(1861)12月28日
- 水野忠徳 文久2年(1862)7月13日-文久2年(1862)9月3日
- 小出秀実 文久2年(1862)9月7日-慶応3年(1867)7月27日
- 杉浦勝静 慶応2年(1866)1月18日-?
- 栗本安芸守 慶応3年(1867)6月5日-?
- 織田信重 慶応3年(1867)9月6日-慶応4年(1868)2月12日
[編集] 新潟奉行
天保14年に天領となった新潟周辺の地域を支配するため新設。設置の理由は日本海交通の要衝である新潟港の管理であった。その後、開国に当たり新潟が開港地となったため、その重要性が増した。
新潟奉行就任者
- 川村修就 天保14年(1843)6月17日-嘉永5年(1852)7月30日
- 関行篤 嘉永5年(1852)8月10日-嘉永7年(1854)7月24日
- 小栗忠高 嘉永7年(1854)閏7月1日-安政2年(1855)7月28日
- 根岸衛奮 安政2年(1855)8月9日-安政5年(1858)11月8日
- 古山善一郎 安政5年(1858)11月26日-文久3年(1863)8月5日
- 榊原忠義 文久3年(1863)9月10日-慶応元年(1865)8月10日
- 白石千別 慶応元年(1865)7月10日-慶応4年(1868)5月1日
- 糟屋義明 慶応3年(1867)10月15日-慶応4年(1868)3月3日
[編集] 羽田奉行
天保13年(1842年)に、外国船の来航に備え江戸湾の防御を固めるための政策の一環として羽田に新設されたが、2年後に廃止。
羽田奉行就任者
- 田中勝行 天保13年(1842)12月24日-天保15年(1844)5月24日
[編集] 明治初期の府の設置と変遷
- 日付は旧暦
慶応4年4月11日 | (江戸城開城) |
(グレゴリオ暦1868年5月3日) | |
閏4月24日 | 箱館府設置 |
閏4月25日 | 京都府設置 |
5月2日 | 大阪府設置 |
5月4日 | 長崎府設置 |
5月12日 | 江戸府設置 |
5月15日 | (上野戦争) |
5月29日 | 越後府(第1次)設置 |
6月17日 | 神奈川府設置 |
7月6日 | 渡会府設置 |
7月17日 | (東京奠都ノ詔) |
7月17日 | 江戸府を東京府に改称 |
7月29日 | (北越戦争終結(長岡城再占領)) |
7月29日 | 奈良府設置 |
8月19日 | (榎本武揚江戸脱出) |
明治元年9月8日 | (明治に改元) |
9月21日 | 越後府(第1次)を新潟府に改称 |
9月22日 | (会津戦争終結) |
10月28日 | 甲斐府設置 |
明治2年2月8日 | 新潟府から越後府(第2次)を分置 |
5月18日 | (箱館戦争終結) |
6月20日 | 長崎府を長崎県に改称 |
7月1日 | (版籍奉還・府藩県三治制確立) |
7月17日 | (京都・東京・大坂以外の諸府改称の太政官布告) |
7月17日 | 渡会府を渡会県に改称 |
7月17日 | 奈良府を奈良県に改称 |
7月17日 | 箱館府を箱館県に改称 |
7月20日 | 甲斐府を甲府県に改称 |
7月24日 | 箱館県から開拓使(設置は7月8日)へ移行 |
7月27日 | 越後府(第2次)を水原県に改称 |
9月21日 | 神奈川府を神奈川県に改称 |
明治3年3月7日 | 新潟府と水原県を新潟県に統合 |