大岡忠高
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 寛永10年(1633年) | |||
死没 | 元禄14年11月10日(1701年12月9日) | |||
別名 | 隼人、弥右衛門(通称) | |||
官位 | 美濃守 | |||
幕府 | 江戸幕府奈良奉行、小普請 | |||
主君 | 徳川綱吉 | |||
氏族 | 大岡氏 | |||
父母 | 大岡忠章 | |||
兄弟 | 忠高、忠久、忠道、忠豊 | |||
妻 | 正室:北条氏重の娘 | |||
子 | 忠品、某、忠顕、忠相、忠厚、忠恒 娘(島津久武室) |
大岡 忠高(おおおか ただたか)は、江戸時代中期の旗本。大岡忠章の嫡男。大岡忠相の実父。大岡忠吉家3代当主。奈良奉行を歴任。
[編集] 生涯
寛永10年(1633年)、大岡忠章の嫡男として生まれる。忠高は2,700石の大身旗本で、貞享2年(1685年)8月13日、奈良奉行に任じられる。翌貞享3年(1686年)に四男・忠相を宗家で同族の旗本・大岡忠真の養子とする。
元禄6年(1693年)、長男の忠品が第5代将軍・徳川綱吉の逆鱗に触れ、伊豆八丈島へ流罪にされた為、家禄が格下げとなり、奈良奉行を辞し、小普請入りする。のち忠品は赦免される。
元禄9年(1696年)6月23日、相馬中村藩第5代藩主・相馬昌胤が出羽久保田藩第3代藩主・佐竹義処の次男・叙胤を娘・於品の婿にする旨を、昌胤の要請で佐竹家縁者の忠高が義処へ伝える。
元禄14年(1701年)11月10日、病死。享年68。死因は卒中。家督は長男の忠品が継いだ。ほか五男の忠厚は500石の旗本となった。
なお、後年大岡忠相の父と言うことで忠相を主人公とした小説や映像作品に忠高が登場することがあるが、実際に忠相が江戸南町奉行となったのは、忠高死去の16年後の事である。
[編集] 関連項目
- 高田熊野神社 - 大岡氏ゆかりの神社。
[編集] テレビドラマ
- ナショナル劇場『大岡越前』(放送:TBSテレビ、演者:片岡千恵蔵)
- 12時間超ワイドドラマ『炎の奉行 大岡越前守』(放送:テレビ東京、演者:市村家橘)
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