松平忠明
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松平 忠明(まつだいら ただあきら)は、
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天正11年(1583年) | |||
死没 | 寛永21年3月25日(1644年5月1日) | |||
別名 | 鶴松丸(幼名)。清匡(初名)。奥平忠明。玄鉄(法号) | |||
墓所 | 高野山中性院(和歌山県高野町高野山) | |||
戒名 | 天祥院心巌玄鉄大居士 | |||
官位 | 従四位下、侍従。下総守 | |||
氏族 | 奥平氏→奥平松平氏 | |||
藩 | 三河作手藩主→伊勢亀山藩主→摂津大坂藩主→ 大和郡山藩主→播磨姫路藩主 |
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父母 | 父:奥平信昌、 母:徳川家康の長女・亀姫 養父:徳川家康 |
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兄弟 | 奥平家昌、松平家治、奥平忠政 松平忠明 |
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妻 | 正室:織田信包の娘 継室:小出吉政の娘 側室:三好氏 |
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子 | 松平忠弘、松平清道 娘(鍋島忠直正室のち鍋島直澄正室) 娘(大久保忠職正室)、娘(京極高供正室) 娘(四条隆術室)、娘(榊原清照室) 娘(大沢尚親室) |
松平 忠明(まつだいら ただあきら)は、安土桃山時代の武将。三河作手藩主。後に伊勢亀山藩主、摂津大坂藩主、大和郡山藩主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。奥平松平家初代。
目次 |
[編集] 生涯
天正11年(1583年)、徳川氏の重臣・奥平信昌の4男として生まれる。母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。
天正16年(1588年)、徳川家康の養子となり、松平姓を許された。文禄元年(1592年)に兄の松平家治が死去したため、その家督を継いで上野長根に7000石を与えられた。慶長4年(1599年)3月11日、徳川秀忠から「忠」の字を賜って忠明と名乗る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方として参加した。
慶長7年(1602年)9月、三河作手藩主となる。慶長15年(1610年)7月27日に伊勢亀山藩5万石の藩主として加増移封された。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では美濃の諸大名を率いて河内口方面の大将となる。元々、美濃の諸将を率いるのは加納藩の実兄・松平摂津守忠政の役割であったが、出陣前に病没し、加納からは父・信昌による代参陣も無く兵だけが忠明指揮下に遣わされた。そこで忠明が代わって加納の兵力を含む美濃諸将を束ねることと成った。忠明の動員兵力が伊勢亀山の所領分よりも異様に高かったのは、このためである。
のちに休戦協定が豊臣氏との間で結ばれると、家康の命令で大坂城外堀・内掘の埋め立て奉行を担当した。慶長20年(1615年)からの大坂夏の陣では、道明寺の戦い、誉田の戦いに加わる。戦後、大坂の陣での戦功が考慮され、家康の特命により摂津大坂藩10万石の藩主となり、戦災復興にあたった。戦時の間、中断されていた運河開削が有志によって再開され、完成に至るとこれを賞した。この運河を道頓堀と名付けたのが、忠明だと言われている。復興の手腕を高く評価する幕府によって、元和5年(1619年)に大和郡山藩12万石にへの加増移封された。寛永3年(1626年)7月には第3代将軍・徳川家光と共に上洛し、8月19日には従四位下・侍従に叙位・任官された。
寛永16年(1639年)3月3日、播磨姫路藩18万石に加増移封された。晩年は井伊直孝と共に江戸幕府の宿老として幕政に重きを成した。寛永21年(1644年)3月25日、江戸藩邸で死去。享年62。後を長男の松平忠弘が継いだ。
[編集] 人物
- 徳川秀忠より、将軍家に対して謀反発生の際には後事を託された。徳川家光が将軍になると宿老として井伊直孝とともに幕政に参与した。
- 一級の史料とされる『当代記』を著した。
[編集] 経歴
[編集] 官位位階
[編集] 所領
- 1592年(文禄元年):上野大胡藩(7000石)に新地
- 1602年(慶長7年) :三河作手藩(1万7000石)
- 1610年(慶長15年):伊勢伊勢亀山藩(5万石)
- 1615年(元和元年):摂津大坂藩(10万石)
- 1619年(元和5年) :大和郡山藩(12万石)(10月)
- 1639年(寛永16年):播磨姫路藩(18万石)(3月3日)
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