織田信包
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文12年(1543年) | |||
死没 | 慶長19年7月17日(1614年8月22日) | |||
別名 | 三十郎(通称)、信良(初名) 信兼(別名)、老犬斎(法号) |
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官位 | 従三位、上野介、左中将 | |||
藩 | 丹波柏原藩主 | |||
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 | |||
氏族 | 織田氏→長野工藤氏→織田氏 | |||
父母 | 父:織田信秀、母:土田御前? | |||
兄弟 | 信広、信長、信行、織田信包 信治、信時、信興、秀孝、秀成 信照、長益、長利 |
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妻 | 正室:長野藤定の娘 | |||
子 | 信重、寿圭、信則、信当 姫路殿(豊臣秀吉側室)、娘(松平忠明室) 娘(木下利房室のち万里小路充房室) |
織田 信包(おだ のぶかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。織田氏の一族で、織田信秀の子で、織田信長の弟。長野工藤氏に養子に入り、第17代当主となった。
信雄に庇護されていた信長生母の土田御前を信雄改易後に引き取ったのが信包であったことから、彼の生母は土田御前で、信長、信勝、秀孝らと同腹の子と思料されることもある。信長の弟の中で、信包が優遇されていた理由の一つかもしれない。また、浅井家滅亡後、妹であるお市や長政の遺児である三姉妹を引き取り保護したが、これはお市と信包は同腹の兄妹だったためではないか、との見方もある。
兄信長と比して、信包の影は極めて薄いが、しかし武将としての器量は見るべきものがあり、決して凡庸な人物ではなかった。信長の信頼も厚かったとされるが、野望に乏しく清廉潔白だったため、信長亡き後の天下争いには参加しなかったと思われる。
[編集] 生涯
天文12年(1543年)、尾張国の戦国大名・織田信秀の子として生まれる。永禄12年(1569年)、兄信長の命で北伊勢を支配する長野工藤氏(長野氏)に養子入りして伊勢国上野城を居城としたが、まもなく信長の命令によって同氏と絶縁したとされる。
信長に従って各地を転戦する。近江小谷城で浅井長政を滅亡させたとき、その妻女であった妹お市、茶々、初、於江与を保護している。天正3年(1575年)の越前一向一揆鎮圧、天正5年(1577年)の雑賀党攻め(紀州征伐)にも参加し、織田一族の重鎮として厚遇された。後に信長の長男信忠の補佐を任されている。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死した後は豊臣秀吉に従い、伊勢津城15万石を領して「津侍従」と称された。天正11年(1583年)には甥信孝らと対立し、柴田勝家や滝川一益を攻略している。
天正18年(1590年)、小田原征伐のときに北条氏政・氏直父子の助命を嘆願したために秀吉の怒りをかい、文禄3年(1594年)9月に至って改易された。改易の理由として、検地によって石高増加となったものの、その割には役儀を疎かにしたためとされる。その後は剃髪して老犬斎と号し、京都の慈雲院に隠棲したという。
その後、近江国内に2万石を与えられて秀吉の御伽衆として復活し、慶長3年(1598年)6月には丹波柏原3万6000石を与えられる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に属して丹後田辺城攻撃などに参戦したものの、戦後、徳川家康は信包の罪を問わずに所領を安堵された。その後、信包は大坂城にあって姪孫である豊臣秀頼を補佐したが、慶長19年(1614年)7月17日、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72。片桐且元による毒殺の噂が流れたが、定かではない。家督は3男の織田信則が継承した。
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