万里小路充房
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万里小路 充房(までのこうじ あつふさ、永禄5年6月24日(1562年7月25日) - 寛永3年9月12日(1626年10月31日))は、江戸時代の公家。
堂上家(名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である、万里小路家の13代目当主。
[編集] 経歴
権大納言・勧修寺晴秀の子、母は、粟屋元子(左京亮・粟屋元隆の娘)。権中納言・万里小路輔房の養子。
正室は織田信長の娘、側室は前田利家の娘(摩阿姫)、実子に、参議・万里小路孝房、日向守・前田利忠(摩阿姫の子、武士・仕加賀藩)、誓願寺住持・徳翁など。
慶長10年(1605年)10月13日、落飾して等利(または、桂哲)と称する。
元和5年(1619年)9月18日、後水尾天皇の典侍・四辻与津子が皇女梅宮(文智女王)を生み、宮中の風紀の乱れ(およつ御寮人事件)の責任をとり、徳川秀忠によって丹波篠山に流罪される。