織田秀孝
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織田 秀孝(おだ ひでたか、? - 弘治元年6月26日(旧暦)(1555年7月14日))は戦国時代の武将。織田信秀の八男または九男。母は土田御前であり、信長・信行(信勝)・信包と同母弟。・お市の方は同母妹。通称喜六郎。
弘治元年(1555年)6月26日、信長・秀孝の叔父でもある守山城主織田信次が家臣を引き連れ、領内の松川の渡し(現庄内川)付近で川狩をしていた。その時、目前に下馬もせず単騎で通り過ぎようとした武者がいた。これを信次の家臣洲賀才蔵が無礼であるとして弓で射ると騎乗の武者にあたり落馬し、絶命した。そしてその武者の顔を見て初めて、それが秀孝であるとわかったのである。織田家当主の実弟であり、故に誤殺であろうと当然許されるはずもなかったため、信次はそのまま逐電し、家臣は報復を恐れ守山城に立て籠もるも守山城下は織田信行に焼き払われてしまった。その後、信長は一人で行動していた秀孝にも非があるとして信次とその家臣らを許すが、果断な処置をした信行に対する対抗・牽制だったともいわれる処置で「秀孝に対してあまりにも冷たい仕打ちだ」といった悪評が流れる。守山城主には信長の四弟信時が入り事件は幕を閉じる。
なお、信長が信次に対して寛大であったのは、信長と信行の家督争いにおいて秀孝が信行派に属していたため(信次は兄の信光とともに信長派であった)ともいわれる。
『信長公記』にはこの時の秀孝の姿を「御歳の齢十五六にして、御膚は白粉のごとく、たんくわのくちびる(丹花の唇)柔和のすがた、容顔美麗人にすぐれて、いつくしき共中々たとへにも及び難き御方様なり。」 と記している。織田の家系は美男美女と評判高いが、この記載は尋常ではない。よほどの美少年だったのだろう。
享年はその記述から15から16だったとされるが、それでは兄の信包の年齢より上になってしまうため、年齢もしくは兄弟の順番に誤伝があると思われる。 秀孝の同腹の妹とされるお市の方は天下一の美女として名高い。