フランシスコ・ピサロ
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フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1471年もしくは1478年 - 1541年6月26日)は、スペイン人のコンキスタドール。インカ帝国を征服した。カスティーリャ王国エストレマドゥーラのトルヒージョの生まれで、父はゴンサロ・ピサロ、母はフランシスカ・モラレス。
1498年から1502年にかけてイタリア戦争に参加した後、1502年にニコラス・デ・オバンド総督の着任航海でエスパニョーラ島へ渡る。1513年にバルボアのパナマ遠征に同行し、太平洋に到達。その後、探検家ディエゴ・デ・アルマグロと共に、何度か南アメリカを探検し、ペルーのインカ帝国の存在を知る。 1528年にスペインに戻り、カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取った。募集した兵士とともに1530年、パナマに戻った。
1531年には約180人の手勢と37頭の馬を引き連れ、パナマを出港し、ペルーへの侵入を開始した。サン・マテオ島で騎馬隊を下船させ、トゥンベスまで南下し、サン・ミゲル・デ・ビウラを建設した。その後、インカ皇帝アタワルパを追って南進した。1532年にカハマルカでアタワルパと会見し、その場で生け捕りにした。アタワルパの身代金として、莫大な金銀を受け取ったにも関わらず、1533年7月26日処刑した。その後も、インカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進撃し、11月にはインカ帝国の首都であるクスコに無血入城した。1535年1月18日に新首都としてリマ市を建設した。
しかしその、支配地の分配、特にクスコの領有権をめぐってアルマグロと対立し始め、1537年から内戦が始まった。1538年にアルマグロを処刑したが、1541年6月26日にアルマグロの遺児一派にリマで暗殺された。
ペルー人はインディオはもちろん、混血であるメスティーソの多くも自らのルーツを「インカ人」ととらえており、「ピサロは先祖が築いたインカ文明を破壊した人物」という認識をもっている。このためリマ建都400周年を記念に1935年にピサロの故郷のスペイン・エストレマドゥーラからリマ市に贈られたピサロの騎馬像は、最初の十数年は大聖堂の前に置かれていたが、市民の反発で道一本隔てた大統領府前のアルマス広場の片隅に移された。その後、1990年代に再度反対運動が起こって、1998年ごろには「国民感情にそぐわない」との理由で撤去された。