南下政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ある国家が南部に進出する政策。単に南下政策といった場合はロシア帝国の南下政策を指すことが多い。
[編集] ロシアの南下政策
ロシア南下政策の最大の目的は年間を通しても凍らない不凍港の獲得であった。人口や国土において西欧と比較にならない大国のロシアが不凍港を獲得し本格的に海洋進出を始めることに対して地政学の見地から並々ならぬ脅威を覚えた西欧諸国は、南下政策を阻止することに非常な努力を注ぎ、この衝突が19世紀の欧州史における大きな軸となる。なおロシア帝国の南下政策の最終的な目標は、滅亡した東ローマ帝国の復興、コンスタンティノポリスの奪回にあった(ギリシア計画、あるいはエルサレム)とする見方もある。
- 第2次ウィーン包囲(1683年)後の戦争で、中央ヨーロッパのカトリック諸国を中心とする神聖同盟に加入しオスマン帝国に対し参戦。1700年のコンスタンチノープル条約でアゾフ海の制海権を得た。
- 最初の積極的な南下外征はオスマン帝国に支配されていた黒海沿岸のクリミア半島であった。この政策を計画したのは皇帝エカチェリーナ2世。この治世下では積極的な外交政策によってロシアはコーカサスまでも獲得した。
- 黒海の航行権獲得のためエジプト・トルコ戦争の際にオスマン帝国を支援。しかしイギリスの軍事介入によって挫折。
- 1853年クリミア戦争によりオスマン帝国と直接開戦。戦争は優位に運ぶも、欧州列強がオスマン帝国を支持したため失敗。しかし1856年のパリ条約でのウィーン議定書はロシアにとって妥協的なものであった。
- 1855年日本(江戸幕府)との間に樺太方面での国境を定めない日露和親条約締結。
- 1858年太平天国の乱とアロー号戦争が同時進行で混乱した大清帝国との間で黒龍江北岸のロシアへの割譲と烏蘇里江以東の外満州を清露共同管理地とするアイグン条約を締結。
- 1860年太平天国の乱とアロー号戦争で弱体化した大清帝国との間に、アイグン条約で共同管理地とされた烏蘇里江以東の外満州のロシアへの割譲を決めた北京条約を締結、外満州全土を獲得。
- 1867年日露間樺太島仮規則を締結。
- 1875年樺太千島交換条約を締結。樺太全島がロシア領になった。
- 1877年露土戦争によってオスマン帝国に完全勝利。サン・ステファノ条約によりバルカン半島の覇権を握った。翌年に列強の圧力によりサン・ステファノ条約は破棄されるも(ベルリン会議)、セルビア、ルーマニアなどが、オスマン帝国から独立した。ただし全ての南下政策が終了した訳ではなく、バルカン半島のスラヴ民族の独立抵抗は継続され、これに欧州列強による帝国主義が関わり、衰退するオスマン帝国に対する東方問題、南下政策に代わるロシア帝国の汎スラヴ主義がバルカン半島の火薬庫として燻り続け、第一次世界大戦の伏線となるのである。
- ヨーロッパにおける南下の限界を知ったロシアはアジアにおける南下進出を図る。アジアに対する南下政策は、すでに17世紀末からあった。シベリア遠征の結果、ロシアの勢力圏は1697年には太平洋まで達していた。これは直接的には、南下政策とは関係がなかったが、シベリア遠征が完了するとロシアの目は中国に注がれた。しかし当時東アジア最大の超大国、大清帝国に阻まれている(ネルチンスク条約)。しかしアジアが弱体化した18世紀末以降、不凍港問題を解決するために、ロシアはインド、ペルシアに目を付け、当時海上覇権を確立しつつあった大英帝国と衝突する様になる。19世紀末には中国北東部を拠点として朝鮮半島・中国中央地域支配をもくろむも、当時国力を高めつつあった大日本帝国の干渉により難航。1902年大英帝国は、ロシアの世界戦略を阻止するため、日英同盟を締結する。1904年日露戦争が勃発し、ポーツマス条約によって大日本帝国に樺太南部を奪還され朝鮮進出も絶望的になると、中央アジア進出を積極的に行うようになった。
- 1922年、ロシア革命により、ソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生すると政情不安のため一時期南下政策は中断された。
- 第2次世界大戦を通じてソ連はドイツの侵攻を巻き返し、東欧諸国を支配下におき衛星国家とする。西側諸国はこれを鉄のカーテンと呼んだ。
- 戦後ソ連が超大国の地位を安定させると中央アジアに親ソ政権の樹立を助ける動きを展開する。
- 1970年代以降、南イエメンのアデン港、ベトナムのカムラン湾がソ連海軍の基地となり、不凍港の確保という念願は達成されたが、陸軍偏重の軍事体制が敷かれたこと、1980年代に入ると経済難も重なり、アメリカ並みの外洋艦隊の編成は挫折することとなった。
[編集] 主な事例
紛争も含めると、戦後においては次のような事例があげられる。
- 1946年-クルディスタン(マハバード共和国)
- 1969年-中ソ国境紛争
- 1979年-アフガニスタン侵攻
- 戦後日本が返還を要求している北方領土保有も歴史的に見てみると南下政策の一環であるといえる。
- 1994年-チェチェン紛争