北京条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北京条約(ぺきんじょうやく、Convention of Peking)は、1860年に清朝とイギリス(10月24日)・フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国(11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。
アロー戦争後に天津条約が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また清の朝廷内部では条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び天津に上陸、咸豊帝は熱河へ撤退し、北京を任された恭親王も英仏連合軍の侵攻が始まると表に出てこなくなった。北京を占領した連合軍は円明園を略奪し焼き払い、恭親王に最後通牒を送った。結局、ロシアの仲介で北京において清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たな条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。いずれも不平等条約である。
この条約で、清朝は英仏への800万両の賠償金の支払い、天津条約の実施、北京への外交官の駐留、天津の開港、清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認が定められた。また英仏個別の条項では、清朝が没収したフランスの教会財産の返還、および英国へ九竜半島の一部(香港島に接する部分)を割譲することが定められた。
ロシアに対しては外満州の一部である、ウスリー川以東アムール川以南の地域(東韃靼)が割譲された。アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領と確定した。ロシアはこの後すぐにウスリー川以東に沿海州を置き、海參崴(ハイシェンワイ)にウラジオストクを建設した。また、ロシアはカシュガルやウランバートル、張家口での商取引の自由を得た。