クルディスタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クルディスタンは、中東のイラン、イラク、トルコ、シリア、アルメニアの国境地帯に広がるクルド人居住地域。チグリス・ユーフラテス川の中上流域を中心に広がる山岳地域。面積は約50万km2。
「クルド人の地/国」を意味する。ペルシア語ではコルデスターンといい、イランの州のひとつ。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 古代
クルドの地が歴史上に現れたのは、紀元前3000年頃、シュメールの楔形文字の粘土板である。そこには、「クルドの地」の語が記載されていた[1]。
ほとんどのクルド人は古代グティウム王国(Qurti)にその起源を求めることができる。グティウム王国は楔形文字での記録では紀元前2400年頃に存在し、その首都はアラフカ(Arraphkha、現在のキルクーク)であった[2]。
今日、クルディスタンとして知られている地域はペルシアとメソポタミアの間、ヴァン湖の南と南東の高山地域のことである。ここは、クセノポンの時代以前よりクルド人が支配しており、カルドゥチ(英:Carduchi、Cardyene、Cordyene、ギリシア語:Καρδούχοι)の名で知られる国が存在した[3]。
古代ローマはその絶頂時には、クルド人が住んでいる広大な地域、特に中東の西と北のクルド人地域を支配した。コードゥエンス王国の様なクルド人王国は、ローマ帝国の封建州となっていた。紀元前189年から384年、古代コードゥエンス王国は北メソポタミアを支配した。この王国はティグラナケルト(Tigranocerta)の東に存在した(トルコの南東にある今日のディヤルバクルの東側および南側に相当する)。コードゥエンスは、紀元前66年にローマ共和国の封建州となり、384年までローマと同盟状態にあった。
「クルドの地」の語が初期の記録に現れた一例として、シリア語でのキリスト教の文章がある。この文章は中東での聖アブディショの様なキリスト教の聖者を記述している。サーサーン朝のマルズバンがアブディショに出身の地を聞いた際に、彼は両親がアッシリアの村ハザ(Hazza)の出身であると答えた。しかし、両親は異教徒によりハザから追い出され、タマノン(Tamanon)に定住した。そこは、アブディショによると「クルドの地」であった。 この村は、現在のイラクとトルコの国境の北、現在のアルビールの南西12kmに存在する。同じ文章の他の部分ではハブール川地域が「クルドの地」と記載されている[4]。
[編集] 中世
10世紀後半、クルディスタンは5つの地方王朝に分割されていた。北側をシャッダード朝(951年 - 1174年:アルメニアとアッラーンの一部)と、ラワード朝(955年~1221年:タブリーズとマラーゲ付近)に、東側をハサナワイフ朝(959年 - 1015年)とアナーズ朝(990年 - 1116年:ハルワーン、ケルマーンシャー、ハーナキーン)、西側にマルワーン朝(990年 – 1096年:ディヤルバクル)が支配した。
中世のクルディスタンは「イマーラト」すなわちアミール領と呼ばれる半独立、一部独立の国家集合体であった。通常、これらはカリフやシャーの間接的な政治的、宗教的影響下にあった。これらのクルディスターンの諸勢力と近隣国との複雑な関係は、1597年にシャラフ・アッディーン・ビトリスィーによる鑑文学「シャラフナーメ」に記載されている[5][6][7]。よく知られているクルド系アミール領は、今日のイラクのバーバーン、ソーラーン、バフディーナーン、ガルミヤーン、トルコのバクラン、ボフタン、イランのムクリヤーン、アルダラーンに相当している。
[編集] 近代
16世紀に、クルド人居住区は、長い戦いの後サファヴィー朝ペルシア(イラン)とオスマントルコ帝国に分割された。クルディスタンに対する最初の重要な分割は1514年のチャルディラーンの戦いの後に行われ、1639年のズハーブ条約により公式のものとなった[8]。第一次世界大戦前には、ほとんどのクルド人はオスマン帝国内のクルド州に住んでいた。オスマントルコの解体後、連合国は旧オスマン領のこの地域を分割し複数の国を作る合意と計画を行っていた。批准されなかったセーヴル条約に基づいた、アルメニア沿いにあるクルディスタンもその1つであった。しかし、ケマル・アタテュルクによるアナトリア東部の再占領や他の差し迫った問題が、連合国にトルコとの再交渉を認めさせ現在のトルコ共和国の国境を受け入れさせ、ローザンヌ条約が結ばれた。これによるクルド人は自らの国を失ってしまった。他のクルド人領域は、両条約において、イギリスとフランスによる委任統治領(イラクとシリア)の内部に併合された。
クルド人の代表団は、1945年のサンフランシスコ平和条約において、クルド人が主張するクルディスタンの地理的な範囲を示した。この提案では、地域はアダナ近くの地中海の海岸から、ブシェアー近くのペルシア湾の海岸まで広がっている。これには、ザグロス山脈の南の居住区であるルアも含まれている。
第一次世界大戦後、クルディスタンはいくつかの国に分割され、それぞれの国においてクルド人は少数派である[9][10]。1991年の湾岸戦争の終結時、連合国は北イラクに安全地域を創設した。イラク軍が北部の3つの県から撤収した際に、イラクのクルディスタンはイラク内部の自治勢力として浮上し、1992年には地方政府と議会が作られた。
[編集] クルド人の都市
[編集] 脚注・参考文献
- ^ Martin J. Dent, Identity Politics: Filling the Gap Between Federalism and Independence page: 99, Published 2004 Ashgate Publishing, Ltd., 232 pages, ISBN 0754637727
- ^ William Gordon East, Oskar Hermann Khristian Spate, The Changing Map of Asia: A Political Geography, 1961 (436 pages), p. 105.
- ^ http://www.gutenberg.org/files/16167/16167-h/raw7a.htm
- ^ J. T. Walker, The Legend of Mar Qardagh: Narrative and Christian Heroism in Late Antique Iraq (368 pages), University of California Press, ISBN 0520245784, 2006, pp. 26, 52.
- ^ http://www.mazdapublishers.com/Sharafnama.htm
- ^ For a list of these entities see Kurdistan and its native Provincial subdivisions
- ^ 日本語ではシャラフッディーンについて永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』中央公論社, 1998, pp.329-344.に「二つの大国のはざまで—あるクルド人リーダーの苦悩」としてその生涯が語られている。
- ^ C. Dahlman, The Political Geography of Kurdistan, Eurasian Geography and Economics, Vol.43, No.4, pp.271–299, 2002.
- ^ C. Dahlman, The Political Geography of Kurdistan, Eurasian Geography and Economics, Vol.43, No.4, p. 274.
- ^ The map presented by the Kurdish League Delegation, March 1945
クルド人#参考文献も参照
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Kurdistan Regional Government (KRG) クルディスタン地方政府(英語)
- Links to different Kurdish political sites 立場が異なるクルド政治サイトのリンク集(英語)
- SILAV Kurdistan
- Kurdistan Maps by GlobalSecurity.org
- Distribution of Kurdish People(クルド人分布図) by GlobalSecurity.org