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インドネシア - Wikipedia

インドネシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく)は東南アジア南部の。首都はジャワ島に位置するジャカルタ。5,000km以上と東西に非常に長く、赤道をまたがる1万7,500もの大小の島により構成される。また2億4千万人が住む現在世界第4位の人口である。

島々によって構成されている国家であるためその広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島東ティモールカリマンタン島マレーシアニューギニア島パプアニューギニアの3国だけである。海を隔てて近接している国は、パラオインドフィリピンシンガポールマレーシアオーストラリアである。

インドネシア共和国
Republik Indonesia(インドネシア語)
インドネシアの国旗 インドネシアの国章
国旗 (国章)
国の標語 : Bhinneka Tunggal lka
(古ジャワ語: 多様性の中の統一)
国歌 : 大インドネシア
インドネシアの位置
公用語 インドネシア語
首都 ジャカルタ
最大の都市 ジャカルタ
元首
大統領 スシロ・バンバン・ユドヨノ
首相 なし
面積
総計 1,919,440km²15位
水面積率 4.8%
人口
総計(2004年 238,452,952人(4位
人口密度 124人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年 2,576兆6,879億ルピア
GDPMER
合計(2005年 2,840億ドル(26位
GDPPPP
合計(2003年 7,581億ドル(15位
1人当り 3,200ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
オランダより
1945年8月17日
1949年12月27日
通貨 ルピアIDR
時間帯 UTC (+7 ~ +9)(DST: なし)
ccTLD ID
国際電話番号 62

目次

[編集] 国名

正式名称は、Republik Indonesiaインドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は、RIインドネシア語: エル・イー)。

日本語表記は、インドネシア共和国、通称は、インドネシア

公式の英語表記は、Republic of Indonesia (ウィパブリック・オヴ・インドニージャ)、略称は、Indonesia

[編集] 歴史

詳細はインドネシアの歴史を参照

のちにインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は、紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国クディリ王国シンガサリ王国マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。

16世紀になると香辛料貿易の利を求めてポルトガルイギリスオランダが相次いで来航し、17世紀にはバタヴィアジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。1799年に東インド会社が解散され、以後、東インドはオランダ本国政府の直接統治下に入った。オランダ人は18世紀マタラム王国の分割支配によりジャワ島19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島をほとんど支配するようになる。この結果、20世紀初頭にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領となり、現在のインドネシアの領域がひとつにまとまった。

20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識がめばえた。ジャワ島では、1908年ブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上をはかる活動に取り組んだ(その設立日である5月20日が「民族覚醒の日」と定められている)。1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。インドネシアの民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年スカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」である。インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、青年の誓いでは唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、植民地政府によって非合法化された。スカルノらは逮捕され、長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代をむかえることになった。

オランダの植民地支配が1942年日本軍侵攻によって瓦解し、東インドは日本の軍政下に置かれた。日本は大東亜政略指導大綱にもとづき、東インドを大日本帝国領土とする方針を決定した。日本はオランダに囚われていたスカルノ、ハッタらを解放し、日本軍政への協力を求めた。スカルノ、ハッタは軍政当局による人員・資源などの動員に協力しながら、与えられた公的ポストを活用して民衆の民族意識を鼓舞した。また、日本は戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足した。こうして日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数が、後の独立戦争期に結成される正規・非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。

1945年、日本が降伏するとインドネシアの民族主義者は独立を宣言し(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダ独立戦争を戦った。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、かならずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、降伏を潔しとしない日本軍人の一部がばら撒いたり横流ししたりした武器・弾薬で武装化した。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達して、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど、様々な抵抗戦によって、オランダ軍を苦しめた。また、この独立戦争には、軍籍を離脱した一部の日本人二千人(軍人・軍属)も加わって最前列に立って一千人が命を落とした。他方でインドネシア政府は第三国(イギリスオーストラリアアメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣してインドネシア独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利にむけても尽力した。こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のハーグ円卓会議で、インドネシアはオランダからの独立承認を得ることに成功した。

オランダからの独立後、インドネシアは新憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた(1955年に初の議会総選挙を実施)。しかし、種族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様なインドネシアで、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半には中央政府に公然と反旗を翻す地方反乱が発生し、インドネシアは国家の分裂の危機に直面した。この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていた大統領スカルノは、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍と共産党の反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期さかんにスカルノが喧伝した「ナサコム(NASAKOM)」は、「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。

スカルノの「指導される民主主義」は、1965年9月30日事件によって終わりを告げた。国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。

1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復、スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru) 」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、一定の経済成長を達成することに成功した。その一方で、東ティモールアチェイリアンジャヤなどの独立運動に対しては厳しい弾圧を加えた。

1998年アジア通貨危機に端を発するインドネシア経済崩壊のなかでスハルト政権は崩壊、インドネシアは民主化の時代を迎えて今日に至っている。スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党(インドネシア民主党、開発統一党)以外の政党の結成も自由化され、1999年6月、総選挙が実施された。その結果、同年10月、インドネシア最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、ワヒド(国民覚醒党)が新大統領に就任した。

2001年7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任され、闘争民主党メガワティ政権が発足した。現在は、2004年4月に就任した第6代ユドヨノが大統領の任にある(歴代の大統領については、インドネシアの大統領一覧を参照)。

[編集] 政治

詳細はインドネシアの政治を参照

[編集] 国是

インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」というスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、20世紀初頭からはじまった民族主義運動の歴史の中で、さまざまな民族主義者たちによって鍛え上げられてきた[1]

そうしたものの一つが、日本軍政末期にスカルノが発表したパンチャシラである[2]1945年6月1日の演説でスカルノが発表したパンチャシラ(サンスクリット語で「5つの徳の実践」を意味する)は今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた[3]。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを是として掲げている。

現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。 (1) 唯一神への信仰(イスラーム以外でもよいが無宗教は認容されない)、(2) 人道主義、(3) インドネシアの統一、(4) 民主主義、(5) インドネシア全国民への社会正義。

[編集] 行政府

国家元首大統領は、行政府の長を兼ねる。その下に副大統領が置かれる。首相職はなく、各閣僚は大統領が指名する。第五代までの大統領と副大統領は、国民協議会(後述)の決議により選出されていたが、第六代大統領からは国民の直接選挙で選ばれている。任期は5年で再選は1度のみ(最大10年)。憲法改正によって大統領の法律制定権は廃止された。各種人事権については、議会との協議を必要とするなど、単独での権限行使は大幅に制限された。また議会議員の任命権も廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。

[編集] 立法府

議会は、(1) 国民代表院Dewan Perwakilan Rakyat:DPR:Peoples Representative Council:定数550)、(2) 地方代表院Dewan Perwakilan Daerah:DPD:Regional Representatives Council:定数128)、そして (3) この二院からなる国民協議会 (Majelis Permusyawaratan Rakyat:MPR:People's Consultative Assembly) 、がある。

まず、(3) の国民協議会は、2001年2002年の憲法改正以前は、一院制の国民代表院の所属議員と、各州議会から選出される代表議員195人によって構成されていた。国民評議会は、国民代表院とは別の会議体とされ、国家意思の最高決定機関と位置づけられていた。国民評議会に与えられた権限は、5年ごとに大統領と副大統領を選出し、大統領が提示する国の施策方針を承認すること、1年に1度、憲法と重要な法律の改正を検討すること、そして場合により大統領を罷免すること、であった。このような強大な権限を国民評議会に与えていることが憲政の危機をもたらしたとして、その位置づけを見直す契機となったのは、国民評議会によるワヒド大統領罷免であった。

3年あまりの任期を残していた大統領を罷免した国民評議会の地位をあらためるため、メガワティ政権下の2001年2002年におこなわれた憲法改正により、国民協議会は国権の最高機関としての地位を失った。立法権は後述の国民代表院に移されることになり、国民協議会は憲法制定権と大統領罷免決議権を保持するが、大統領選任権を国民に譲渡し、大統領と副大統領は直接選挙によって選出されることになった。

これらの措置により、国民協議会は国民代表院と地方代表院の合同機関としての位置づけが与えられ、また、国民代表院と地方代表院のいずれも民選議員によってのみ構成されているため、国民協議会の議員もすべて、直接選挙で選ばれる民選議員となった。

(1) の国民代表院は、2000年の第2次憲法改正によって、立法、予算審議、行政府の監督の3つの機能が与えられることになった。具体的には立法権に加えて、質問権、国政調査権、意見表明権が国民代表院に与えられ、また、議員には法案上程権、質問提出権、提案権、意見表明権、免責特権が与えられることが明記された。

(2) の地方代表院は、2001年から2002年にかけて行われた第3次、第4次憲法改正によって新たに設置が決まった代議機関であり、地方自治や地方財政に関する立法権が与えられている。先述の通り、総選挙で各州から選出された議員によって構成されている。

[編集] 司法府

スハルト政権期には政府・司法省が分有していた司法権が廃止され、各級裁判所は、司法府の最上位にある最高裁判所によって統括されることになり、司法権の独立が確保された。また、憲法改正以前には大統領に属していた政党に対する監督権・解散権が最高裁判所に移された。これにより、大統領・政府による政党への介入が排除されることになった。

[編集] 外交

宗主国オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ったインドネシアは、独立当初から外交方針の基本を非同盟主義に置いた。こうした外交方針は「自主積極 bebas aktif」外交と呼ばれている。独立達成後のインドネシア史において、外交にも様々な変化がみられるものの、いずれの国とも軍事条約を締結せず、外国軍の駐留も認めていないなどの「自主積極」外交の方針はほぼ一貫しているといってよい。

1950年代後半のスカルノ「指導される民主主義」期には、1963年マレーシア連邦結成を「イギリスによる新植民地主義」として非難し、マレーシアに軍事侵攻した。国際的な非難が高まるなかで、1965年1月、スカルノは国際連合脱退を宣言し、インドネシアは国際的な孤立を深めていった。インドネシア国内ではインドネシア共産党の勢力が伸張し、国内の左傾化を容認したスカルノは、急速に中国に接近した。

1965年9月30日事件を機にスカルノが失脚し、スハルトが第二代大統領として就任すると、悪化した西側諸国との関係の改善をはかり、また、スカルノ時代に疲弊した経済を立て直すために債権国の協力を仰いだ。1966年9月、東京に集まった債権国代表がインドネシアの債務問題を協議し、その後、インドネシア援助について協議するインドネシア援助国会議(Inter-Governmental Group on Indonesia - 略称 IGGI)が発足した。

1967年8月、ASEAN発足時には原加盟国となり、域内での経済、文化の促進を所期の目標とした。他のASEAN加盟国との連帯を旨としている。その一方で、時折のぞくインドネシアの盟主意識・地域大国意識は、他国からの警戒を招くこともある。

今日に至るまで日本をはじめとする西側諸国とは協力関係を維持しているが、スハルト体制期においても一貫して、ベトナム北朝鮮とは良好な外交関係を保った。

1999年東ティモール独立を問う住民投票での暴動にインドネシア軍が関与したと見られ、その後の関係者の処罰が不十分とされたことや、2001年アメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。このため、ロシア中国との関係強化に乗り出し、多極外交を展開している。

[編集] 軍事

  • インドネシア共和国国軍(Angkatan Bersenjata Republik Indonesia - 略称ABRI)の兵力は、2003年に30万2000人(陸軍23万人、海軍5万5000人、空軍2万7000人)で、志願制と選抜式の徴兵制を併用している。そのほかに予備役が40万人。軍事予算は2002年に12兆7,549億ルピアで、国家予算に占める割合は3.71パーセントである。
  • スハルト政権以来、米国を中心とした西側との協調により、近代的な兵器を積極的に導入してきたものの、東ティモール問題の悪化により米国と軋轢が生じ、2005年まで米国からの武器輸出を禁じられた。この間にロシア中国と接近し、これらの国の兵器も多数保有している。

[編集] 地方行政区分

インドネシアの州
インドネシアの州

詳細はインドネシアの地方行政区画を参照

33の第1級地方自治体(30の州、2の特別地域(特別州)、1の首都特別区域(特別市))に分かれる。

第1級地方自治体は、

(便宜上4区域に分ける)

*は特別州。特別市は、ジャカルタ。 現在、州の再編を進めている最中であるため、上記の州区分に変更が加えられている可能性が極めて高い。

[編集] 地理

インドネシアの地図
インドネシアの地図

インドネシア周辺では、ユーラシアプレートやオーストラリアプレート、太平洋プレートフィリピン海プレートなどがせめぎあっており、環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部を構成している。そのため火山や地震が多く、2004年スマトラ島沖地震、及び2006年ジャワ島中部地震では甚大な被害を被った。また、スメル山は、ジャワ島の最高峰(3676m)であり、世界で最も活動している火山の一つである。

[編集] 主な島

[編集] 経済

農業国である。農林水産業ではカカオキャッサバキャベツココナッツコーヒー豆サツマイモ大豆タバコ天然ゴムトウモロコシパイナップルバナナ落花生の生産量が多い。特にココナッツの生産量は2003年時点で世界一である。鉱業資源にも恵まれ、スズ石炭天然ガスニッケルの採掘量が多い。OPEC(石油輸出国機構)に加盟する産油国でもあるが、2004年以降は原油の輸入量が輸出量を上回る状態であるため、2008年12月に脱退する予定である。

工業では軽工業、食品工業、織物石油精製が盛ん。コプラパーム油のほか、化学繊維パルプ窒素肥料などの工業が確立している。 松下電器産業オムロンブリヂストンをはじめとした日系企業が現地に子会社・あるいは合弁などの形態で、多数進出している。

独立後、政府は主要産業を国有化し、保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には、戦略的対応が必要な産業として製鉄航空機製造、銃器製造などを指定し、戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁(Badan Pengelora Industri Strategis)を発足させている。しかし同時に、華人系企業との癒着や、スハルト大統領ら政府高官の親族によるファミリービジネス(Family buisiness)等が社会問題化し、1996年には国民車・ティモールの販売を巡ってWTOを舞台とする国際問題にまで発展した。しかし、1997年アジア通貨危機の発生により、インドネシア経済は混乱状態に陥り、スハルト大統領は退陣に至った。その後、政府はIMFとの合意によって国営企業の民営化など一連の経済改革を実施したが、失業者の増大や貧富の差の拡大が社会問題となっている。

[編集] 国民

[編集] 人口

2004年の人口は2億3,845万人で世界第4位。近い将来パキスタンに抜かれ5位になるものの、2050年の推計人口は約3億人。また、全国民の半分以上がジャワ島に集中しているため、比較的人口の希薄なスマトラ島、カリマンタン島、スラウェシ島に住民を移住させるトランスミグラシと呼ばれる人口移住政策を行ってきた。

  • 人口増加率:1.52%(2003年)

[編集] 言語

公用語インドネシア語でインドネシアの国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度で国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタに出稼ぎにでる人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。

  • 識字率:88.5%(2003年)

[編集] 民族

大多数がマレー系、他に約300の民族、中国系(華人)約5%。

ジャワ人 45%、 スンダ人 14%、 マドゥラ人 7.5%、 沿岸マレー人 7.5%、 その他 26%

父系・母系を共に親族とみなす「双系社会」であり、姓がない人もいる(スカルノスハルトなど)。

[編集] 宗教

インドネシアは憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているものの、これはイスラム教を国教としているという意味ではない。インドネシアは多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教(カトリック)が、東部諸島およびニューギニア島西部ではキリスト教(プロテスタント、その他)が優位にある。

最新の統計(ブリタニカ国際年鑑2007年版)によると、イスラム教76.5%、キリスト教13.1%(プロテスタント5.7%、独立教会4.0%、カトリック2.7%、他)、ヒンドゥー教 3.4%、伝統信仰2.5%、無宗教1.9%、その他 2.6%となっている。

イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え、世界最大のイスラーム教徒ムスリム)人口を抱える国となっている(インドネシアは世俗主義を標榜しており、シャリーアによる統治を受け入れるイスラーム国家ではない)。

[編集] 紛争

インドネシアはその民族・宗教などの多様性や、人口や経済力・政治力の集中するジャワ島・ジャワ人への反発もあって、いくつかの紛争を抱えている。

東ティモールは独立運動の末、国連の暫定統治を経て2002年に独立したが、その他にもアチェやパプア州において独立運動が展開されており、カリマンタン島では民族対立が、マルク諸島ではキリスト教徒とイスラム教徒の宗教対立が存在する。アチェ独立運動も参照。

[編集] 文化

インドネシアの宗教・文化は島ごとに特色をもつが、日本ではバリ島のガムランなどのインドネシアの音楽や舞踊が知られる。またワヤン・クリと呼ばれる影絵芝居や、バティックと呼ばれるろうけつ染めも有名である。

[編集] 教育

インドネシアの教育体系は、教育文化省が管轄する一般の学校(スコラ sekolah)と、宗教省が管轄するイスラーム系のマドラサ (madrasah) の二本立てとなっている。いずれの場合も小学校中学校高校の6・3・3制であり、このうち小中学校の9年間については、1994年義務教育にすると宣言された。スコラでもマドラサでも、一般科目と宗教科目を履修するが、力点の置き方は異なる[4]

大学をはじめとする高等教育機関も一般校とイスラーム専門校にわかれており、前者については1954年に各州に国立大学を設置することが決定された。以下、インドネシア国内の代表的な大学のリストを挙げる。

  • インドネシア大学(UI)
  • ガジャ・マダ大学(UGM)
  • バンドゥン工科大学(ITB)
  • パジャジャラン大学(UNPAD)
  • ボゴール農科大学(IPB)
  • インドネシア教育大学(UPI,旧IKIP)
  • インドネシア国立芸術大学
  • ウダヤナ大学(UNUD)
  • マハサラスワティ大学
  • トリサクティ大学
  • スラバヤ工科大学
  • アイルランガ大学 - スラバヤにある国立大学。
  • ディポネゴロ大学 - 中部ジャワのスマランにある国立大学。
  • ハサヌディン大学(UNHAS) - 南スラウェシ州都のマカッサル(旧名ウジュン・パンダン)にある国立大学。
  • チャンドラワシ大学 - パプア州都のジャヤプラにある国立大学。
  • ブラウィジャヤ大学 - 東ジャワのマランにある国立大学。

[編集] 文学

インドネシア文学をインドネシア語、またはその前身であるムラユ語で、インドネシア人によって書かれた文学作品のことであると限定するならば、それはインドネシアの民族主義運動期に生まれたといえる。1908年オランダ領東インド政府内に設立された出版局(バライ・プスタカ)は、インドネシア人作家の作品を出版し、アブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ』(1928年)など、インドネシアで最初の近代小説といわれる作品群を出版した[5]

また、インドネシア人によるインドネシア語の定期刊行物としては、1907年バンドンで、ティルトアディスルヨが刊行した「メダン・プリヤイ」が最初のもので[6]、その後、インドネシア語での日刊紙週刊誌月刊誌の刊行は、1925年には200点、1938年には400点を越えていた[7]

以下、代表的なインドネシアの作家・詩人・文学者を挙げる。

[編集] 世界遺産

インドネシア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が4件ある。詳細は、インドネシアの世界遺産を参照。ボロブドール遺跡近郊はテロの危険性があるため要注意。

[編集] 祝日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Tahun Baru Masehi
中国正月 Tahun Baru Imlek 移動祝日
犠牲祭 Idul Adha 移動祝日
ヒジュラ正月 Tahun Baru Hijriyah 移動祝日
ヒンドゥー正月 Hari Raya Nyepi 移動祝日
聖金曜日 Wafat Isa Al-Masih 移動祝日
キリスト昇天祭 Kenaikan Isa Al-Masih 移動祝日
ムハンマド聖誕祭 Maulid Nabi Muhammad SAW 移動祝日
仏教大祭 Hari Raya Waisak 移動祝日
8月17日 独立記念日 Hari Proklamasi Kemerdekaan R.I.
ムハンマド昇天祭 Isra Mi`raj Nabi Muhammad SAW 移動祝日
断食明け大祭 Idul Fitri 移動祝日
共同の休み チュティベルサマ/Cuti bersama 移動祝日
12月25日 クリスマス Hari Natal

[編集] 脚注

  1. ^ インドネシア独立前の民族主義運動期から独立後の過程において、さまざまな論者が国家的統一、あるべき国家像について、発言している。それらを概観するものとして、Herbert Feith and Lance Castle ed., Indonesian Political Thinking 1945-1965, Ithaca and London, Cornell University Press, 1970.
  2. ^ スカルノのパンチャシラ演説の日本語訳は、日本国際問題研究所インドネシア部会編 『インドネシア資料集 上 1945-1959年』、同研究所、1972年、1-17頁。
  3. ^ 高橋宗生 「国民統合とパンチャシラ」、安中章夫・三平則夫編 『現代インドネシアの政治と経済 - スハルト政権の30年 -』、アジア経済研究所1995年、第2章、を参照。
  4. ^ 西野節男「ムスリムはどう教育されるか - インドネシア」、片倉もとこ編 『イスラーム教徒の社会と生活』、栄光教育文化研究所<講座イスラーム世界1>、1994年、93-96頁。
  5. ^ 早瀬晋三・深見純生「近代植民地の展開と日本の占領」、池端雪浦編 『東南アジア史Ⅱ 島嶼部』、山川出版社<新版 世界各国史6>、1999年、309-311頁、を参照。
  6. ^ 土屋健治「文学と芸術」、綾部・石井編、弘文堂1995年、162頁。
  7. ^ 早瀬・深見、同上、291頁、を参照。なお、戦後も含めたインドネシア文学の歩みについては、松尾大「近代インドネシア文学の歩み」、アイプ・ロシディ編、松尾大・柴田紀男訳 『現代インドネシア文学への招待』、めこん1993年、に詳しい。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

ウィクショナリー
ウィクショナリーインドネシアの項目があります。
ウィキメディア・コモンズ
政府
日系機関
旅行
その他



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