杉原千畝
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杉原 千畝(すぎはら ちうね、SUGIHARA "Sempo" Chiune、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は日本の官僚、外交官。第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給し、ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られている。
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[編集] 概略
第二次世界大戦中、外務省の命令に反してトランジットビザ(Transit visa.通過査証、通過ビザとも。以下ビザと記載)を発給することでドイツによる迫害から約6,000人のユダヤ人を救った。
海外では、センポ・スギハラ、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばせた理由は主に「ちうね」という発音のしにくさから、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
[編集] 生誕から「命のビザ」発給まで
[編集] 生誕から外交官となるまで
旧制愛知県立第五中学(現愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、千畝が医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部)予科に入学。
翌1919年(大正8年)10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早大を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。そして、1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科修了。
1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満州国外交部事務官に転じる。満州国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長(課長職に相当)としてソ連との北満州鉄道譲渡交渉を担当し、その譲渡金を当時の金額で約4億5000万円値下げさせた。しかし、1935年(昭和10年)には満州国外交部を退官。満州赴任時代、1924年にクラウディア・アポロノフ(亡命白系ロシア女性)と結婚したが、1935年に離婚した。この時代に正教会の洗礼を受け、正教徒に改宗している。
その後、幸子(旧姓菊池)と結婚し、日本国外務省に復帰する。1937年(昭和12年)にはフィンランドのヘルシンキ日本大使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。ちなみに千畝は当初、念願であった駐モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が杉原の赴任を拒絶し、入国自体も認めなかったため近隣のヘルシンキへと変更された。
[編集] リトアニア赴任から「命のビザ」発給まで
1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。しかし同じく反ユダヤ人的な政策を取っていたソ連がリトアニアを併合し、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先オランダ領アンティルへの通過ビザを求めて殺到した。
当時日本政府はドイツとの同盟関係にあり、ドイツからユダヤ人に対する迫害政策に協力することを再三求められていたにもかかわらず、ユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていた。しかし、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつ、ビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。ユダヤ人難民の殆どはこの受給資格を欠いていたため、杉原は本国外務省に伺いを立てるが、発給は許可されなかった。
1940年7月18日に、杉原は外務省に緊急のビザ発給許可要請をするも、翌日に届いた返答は「ビザの許可は内閣改造中ゆえ発給できない」というものであった。新内閣の発足後、松岡洋右外務大臣に直接、人道的なビザ発給の許可要請を再度行うも、7月23日には、親ドイツ派の松岡外相直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられた。それは杉原にとっては事実上の最後通告であった。また同時期、ソ連からリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。
こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年7月25日、杉原は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、杉原と妻の幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1か月余りビザを書き続けたとされる。その間発行されたビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚。しかし、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのを止めてしまったと言われている。その為、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明書が発給されたと言う説もある。また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。
途中ビザに貼り付ける印紙が無くなってしまったが、杉原は職権により「出国のための領事特別許可証(通過ビザと同様の内容。ビザより発行要件が簡素で、迅速な出国の必要があるときなど緊急時に用いられるが超法規的意味合いが強い)」の発行を行い、ソ連による自身への退去指示の期限ぎりぎりまで更に多くのユダヤ人を出国させた。領事特別許可証による出国者は多数に上るが、発給記録が残っていないため人数は定かではない。領事特別許可証の発行はベルリン行き列車の出発寸前まで駅のホームで続けられた。
[編集] ビザを発給されたユダヤ人のその後
その後、国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀港へ上陸(敦賀はこれ以外にも幾度も難民を受け入れており人道の港と呼ばれた)し、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である神戸猶太協會(アシケナージ)があった神戸に辿り着く。
そのうち、1000人ほどはアメリカやパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。上海の「上海租界」には戦前よりユダヤ人の大きなコミュニティがあり、そこでユダヤ人たちは日本が降伏する1945年まで過ごすことになる。
一方、彼らが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年にドイツの猛攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のユダヤ人犠牲者は20万人近くに上るとされている。またソ連領内でも多数のユダヤ人難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ亡くなった。
一方、1941年12月の大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発で日本からアメリカへの渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった(前述)。上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットーが作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。上海が戦禍に覆われていたこともあり、環境はヨーロッパのゲットー同様苛酷なものであったが、ヨーロッパ諸国の様な反ユダヤ人感情を持たなかった日本人や中国人はユダヤ人迫害は行わなかった。ただ、終戦間際にはアメリカ軍機による空襲で数十名が死傷した。
1948年5月14日、アメリカ主導の下、ユダヤ人による国家イスラエルが建国され独立を宣言した。
[編集] 千畝の後半生
リトアニア退去後、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年にチェコスロヴァキアの在プラハ日本総領事館、1941年(昭和16年)に東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館、その後1946年(昭和21年)までルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。第二次世界大戦の終結後、在ブカレスト公使館で家族と共にソ連に身柄を拘束され、1年間の収容所生活を送る。
1947年(昭和22年)に日本へ帰国、神奈川県藤沢市に居を据えるも、外務省からリストラに伴う解雇通告を受ける(リストラは名目上で、実際はビザ発給の責任を負わされた形とする説もある。後述)。
外務省退官からしばらくは、息子を白血病で失い、義理の妹も亡くなるなど家族の不幸に苛まれる。その後は連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局など主に語学力を活かした職に就き勤務した。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。
1968年(昭和43年)夏、ビザの発給を受けた元ユダヤ人難民の一人ニシュリと在日イスラエル大使館で28年ぶりに再会。翌1969年(昭和44年)に、イスラエル宗教大臣より勲章を受ける。1975年(昭和50年)に国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。1977年(昭和52年)、神奈川県鎌倉市に転居した。
1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われる。
1986年(昭和61年)7月31日、心臓病で死去。享年86。なお、千畝の汚名が晴れたのはそれから5年後のことであった。
[編集] 日本政府の対応について
千畝によるユダヤ人へのビザ発給は、残酷な殺戮と弾圧がヨーロッパやアジアにおいて吹き荒れた暗く悲しい時代に射した一筋の力強い光であるがゆえに、現在でも一連のビザ発給の経緯や日本政府の取った態度についてはさまざまな見解が錯綜している。
まず、既に同盟関係にあったドイツとの関係を重視し、ユダヤ人を見捨てようとした非情な外務省に対して立ち向かった千畝という構図で捉える見解である。この場合、千畝のみが善で、政府当局は悪という二元論に陥りやすい。ただ、この見解が支持されるひとつの理由として、千畝が戦後ソ連の収容所から帰国を果たした後、1947年に外務省を辞職に追い込まれていることがある。名目的には1946年から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく機構縮小によるリストラの一環とされたが、妻の幸子によれば、口頭で「例の件」の責任を免官の理由として告げられたという。
他方、日本政府にとって、ドイツとの関係から公然とユダヤ人を助けることは事実上不可能だったが、真意としては千畝のビザ発給に対して黙認に近い立場だったのではないか、という見解がある。主な論拠は、仮に日本政府がユダヤ人を通過させることを断固として拒否するならば、千畝のビザによる日本入国を何らかの形で阻止するのが自然であるのに対して、実際は多くのユダヤ人たちが陸路で、敦賀から神戸まで辿り着き、さらにアメリカやパレスチナなどに向かった1000人以外はその後も日本の勢力下で終戦を迎えるまで過ごしていたという事実である(実際には、杉原ビザで日本に渡航しようとしたユダヤ人たちは、入国審査で発給条件を欠いていることを理由に入国を拒否される事件が起きて当時の新聞で報道される事態になったが、これらの難民たちは、神戸猶太協會と駐日オランダ大使館の奔走によって入国できるようになった)。更にビザ・領事特別許可証発給へも大した制止行為を行わなかった。
また、杉原が外務省の意に反するビザ発給を行った後も、1945年のソ連による収容所送還まで、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理やドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理、ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などを歴任し、1944年には勲五等瑞宝章を受章していることも根拠として挙げられる。しかし、この主張に対しては、杉原がビザ発給後、直ちに辞めさせられなかったのは、諜報活動上、語学に堪能でソ連事情などにも通じている杉原の能力を必要としていたからだという反論も投げかけられている。実際、戦前駐ソ連日本大使館に赴任させようとしたところ、杉原のロシア語力があまりに堪能な(ロシア人ですら会話だけでは非ロシア人と識別できないほどの会話力であった)ため、ペルソナ・ノン・グラータとしてソ連政府から拒否され、やむなくソ連諜報の前線基地となっていたリトアニアに赴任させたとの逸話があるほどである。
これらについて当の外務省は1991年10月、外務省の鈴木宗男政務次官(当時)が幸子寡婦を招いて日本政府の対応について「謝罪」している。しかし1992年の衆議院予算委員会における渡辺美智雄外務大臣(当時)は、杉原はビザ発給の件で処分されたり、退職させられたなどの、杉原にとって不名誉な記録は外務省に存在しないと答弁している。また、退職金や年金についても不利な扱いはなかったとする人も有り(『意外な解放者』参照)、この点に関しては妻・幸子が自著において退職金を受け取っていたことについては認めていることと一致する。
ただし、戦後、杉原の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに、それが杉原をさしている事は当然推測されたにもかかわらず「日本外務省にはSENPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答したのは事実であり、これらの事例に外務省内の杉原に対する悪意を見てとる意見もある(但し、杉原はリトアニアに赴任している際、千畝を「ちうね」と読むことが日本人でも難しく、また発音も難しいと考え、「せんぽ」と名乗っていたため「SENPO SUGIHARA」との問い合わせに対し、当時の外務省が「お役所仕事」としての対応をしたと見てとれる部分もある)。また、リトアニアに赴いての対応は2006年5月麻生太郎外務大臣(当時)がカウナスの記念館に来訪し声明を発表している[1]。また、2007年5月にはヨーロッパ・バルト3国を歴訪中の天皇・皇后が記念碑を訪問した。
[編集] 千畝に対する評価
外務省退官後はロシア語をはじめとする優れた語学力を生かし、貿易商や翻訳者として生活を営んだ。そうした中で1969年にイスラエル政府から勲章を授与された後、1985年には同国政府より日本人として初めてヤド・バシェム賞を受賞し、「諸国民の中の正義の人」に列せられる。現在でもエルサレムの丘にそのときの顕彰碑が建っている。日本外務省の外交資料館に、「勇気ある人道的行為を行った外交官 杉原千畝氏を讃えて」と記した杉原千畝顕彰碑が作られ、2000年10月10日の除幕式にはイスラエル及びリトアニア各臨時代理大使、当時の河野外相、鈴木宗男衆議院議員、杉原幸子夫人らが参列している(外務省の当該ページ(英文)及び 河野外相の挨拶(和文)参照)。
諸外国においても、シンドラーに比較すると知名度は低いが、一個人として救ったユダヤ人の数はシンドラーの何倍にもあたることもあり、高く評価されている。
1991年9月、リトアニア政府は杉原の功績を讚えるため、ヴィリニュス(首都)の通りの一つを「スギハラ通り」と命名した。また、2001年母校早稲田大学寄贈の記念碑が建立されている。
2005年10月11日、終戦60周年記念ドラマ「日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ」として読売テレビで製作され、日本テレビ系列で放送された。この放送後、杉原の名は改めて知られることとなった。
2007年10月10日に、ポーランド大統領より、叙勲が決められ、2008年1月16日に東京都目黒区にあるポーランド大使館でポーランド大使から、孫の千弘に「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が手渡された。これは5段階中上から2番目の勲章であるが、1番上の勲章が授与されることはほとんどなく、実質最高位とされている。
[編集] 人物
前述にもあるが、杉原は語学に堪能であり、母語である日本語をはじめ、英語、ドイツ語、ロシア語、中国語など5つの言語を話していた。なお、杉原が正教会の洗礼を受けた正教徒であった事が最近になって知られるようになった。
満州外交官時代に日本軍の軍人から差別を受けていた現地住民を助けたという話がある。杉原自身は差別に対して否定的な考えを持っていたと伺える。なお、妻の話では、杉原は「ただ純粋に正直な人」であったとされる。
言葉として「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 」が残されている。
死の前年 (1985年)、杉原は自宅を訪れた人に対して次のように述べている[1]。(なお、以下の部分は英語の文献からの重訳であり、杉原が語った言葉とは厳密に同じではない。)
[編集] 年表
- 1900年 - 岐阜県加茂郡八百津町で生まれる。
- 1918年 - 京城より上京、早稲田大学高等師範部(現・教育学部)・英語科予科入学。
- 1919年 - 外務省留学生採用試験受験・合格・外務省ロシア語留学生としてハルピンに渡る。
- 1924年 - 外務省書記生に採用される。クラウディア・アポロノフ(亡命白系ロシア人女性)と最初の結婚。
- 1926年 - 日露協会学校講師に任命される。
- 1933年 - 満州国側書記官に任命される。
- 1934年 - 満州国外交部理事官、政務局ロシア科長兼計画科長に任命される。
- 1935年 - 最初の妻と離婚。満州国外交部依願退官後、外務省大臣官房人事課勤務、情報部第一課勤務を任命される。
- 1936年 - 日露漁業交渉の通訳官としてペトロパブロスクに着任、半年後モスクワ日本大使館二等通訳官に任命される。
- 1936年 - 幸子と再婚。
- 1937年 - ソ連より杉原の入国拒否通告、後しばらくして、フィンランド日本行使館へ転勤。
- 1939年 - リトアニア日本領事館・領事代理に任命される。
- 1940年 - 領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民に通過ビザを発行。外務省より領事館退去命令。その後、プラハに着任。
- 1941年 - ルーマニアのブカレスト公使館勤務任命、一等通訳官を任命される。
- 1943年 - ルーマニア公使館三等書記官に任命。
- 1945年 - ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。
- 1946年 - ブカレストを発ち帰国の途につく。
- 1947年 - 規模縮小により外務省から免官。
- 1986年 - 鎌倉にて死去(享年86)
[編集] 参考文献
- 杉原幸子 『新版 六千人の命のビザ』 大正出版、1993。ISBN 4811703073
- 1990年刊の朝日ソノラマ版 (ISBN 425703291X) 同名書の新版。
- 中学校道徳シリーズ 『六千人の命のビザ』東京書籍
- 杉原幸子の著書を元にした教材用ビデオアニメ。
- The Holocaust Oral History Project, The Unlikely Liberators Project 編『意外な解放者』情報センター出版局、1995年8月。ISBN 4795819025
- 中日新聞社会部編 『自由への逃走 -- 杉原ビザとユダヤ人』東京新聞出版局、1995年10月。ISBN 4808305267
- 上杉千年 『猶太(ユダヤ)難民と八紘一宇』展転社、2002年2月。ISBN 4886562078
- 兜木励悟 「ホロコースト(ショア)の根拠と歴史」『(別冊歴史読本) 世界に拡がるユダヤ・聖書伝説―謎と真相』 ISBN 4404030762
- 渡辺勝正、稲垣収、あべさより 学習まんが人物館『杉原千畝 六千人の命を救った外交官』 ISBN 4092701136
- 渡辺勝正 『真相・杉原ビザ』 大正出版、2000年 ISBN 4-8117-0309-X
- 杉原幸子 『決断・命のビザ』 大正出版
- YUKIKO SUGIHARA 『VISAS FOR LIFE』(『命のビザ』(大正出版)の英訳 Translated by HIROKI SUGIHARA)
- 杉原幸子 『決断・命のビザ』 大正出版
- 長野日報(2007年10月12日付)
- ^ Hillel Levine, In Search of Sugihara: The Elusive Japanese Diplomat Who Risked His Life to Rescue 10,000 Jews from the Holocaust, Free Press, New York. 1996. p.259
[編集] 演じた俳優
- 佐藤文雄(劇団銅鑼公演『センポ・スギハァラ』 1992年~2004年、803ステージ)
- 館野元彦(劇団銅鑼公演『センポ・スギハァラ』 2007年 13ステージ)
- 加藤剛(フジテレビ版)
- 反町隆史(読売テレビ版)
- 吉川晃司(ミュージカル『「SEMPO」~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』
[編集] その他
- 『センポ・スギハァラ』 - 劇団銅鑼による演劇作品。
- 『「SEMPO」~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』と題したミュージカルが、2008年4月4日~5月8日に東京、名古屋、神戸にて予定されている(出演者に吉川晃司、森奈みはる、井料瑠美等、楽曲は中島みゆきが舞台作品としては初めて書き下ろしの楽曲を提供)
[編集] 関連項目
- 樋口季一郎
- 安江仙江
- オスカー・シンドラー
- ラウル・ワレンバーグ
- 河豚計画
- 岡崎勝男
- 人道
- 竹地祐治(CBC記者:杉原千畝の妹の孫にあたる)
- 何鳳山(中国語版)
- 杉原 (小惑星) 杉原千畝の功績から付けられた小惑星の名前
- 鈴木宗男
- アシュケナジム
[編集] 外部リンク
- ミュージカル「SE・M・PO」特設サイト
- リトアニア杉原記念館 (リトアニア杉原記念館)
- 杉原千畝記念館 (日本の記念館)
- 杉原千畝フラッシュ
- 6000人の命のビザ-杉原千畝生誕100年記念事業委員会(杉原に関する資料)
- 河野外務大臣演説(杉原に関する問題についての演説)
- 杉原千畝領事に助けられた一ユダヤ人の話
- 杉原千畝の次男、杉原千暁のサイト
- オペラ 愛の白夜 公式サイト(杉原をモデルに創作されたオペラ)
- 人道の港 敦賀ムゼウム(「命のビザ」を発給した杉原千畝氏を紹介)