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カリーニングラード - Wikipedia

カリーニングラード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カリーニングラードと周辺諸国地図
カリーニングラードと周辺諸国地図

カリーニングラードカリニングラートロシア語Калининградカリニングラート〕、ラテン文字転写の例:Kaliningrad )は、ロシア連邦西部なるカリーニングラード州州都ポーランドリトアニアに挟まれたロシアの飛地領となっている。バルト海に接する港湾都市で、世界有数の琥珀の産地としても有名。人口はおよそ95万人。

元々は1255年ドイツ人の東方植民によって建設された都市で、1946年まで使われていた旧名はケーニヒスベルクKönigsberg;ドイツ語で「王の山」の意)。20世紀前半まではドイツの東北辺境の重要都市であった。

目次

[編集] 歴史

ドイツ帝国の地図。最東端がケーニヒスベルクを州都とする東プロイセン。
ドイツ帝国の地図。最東端がケーニヒスベルクを州都とする東プロイセン
ソ連崩壊後に再建されたクナイプホーフのケーニヒスベルク大聖堂
ソ連崩壊後に再建されたクナイプホーフのケーニヒスベルク大聖堂
19世紀末頃のケーニヒスベルク城
19世紀末頃のケーニヒスベルク城

[編集] ケーニヒスベルクとしての歴史

現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、1255年ドイツ騎士団によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れるプレーゲル川(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の諸国の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。のちに一時ポーランド王国が奪取するが、1525年にドイツ騎士団の総長だったホーエンツォレルン家アルブレヒトが修道会国家を世俗化させて東プロイセンに成立させたプロイセン公国の首都となり、公国の血が絶えると同族であるブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、フリードリヒ1世となりプロイセン王国がこの街で誕生した。またケーニヒスベルク大学などを擁する教育と研究の中心地でもあり、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出した。19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成されると、その一部となった。

第一次世界大戦後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツやオーストリアによって分割されていたポーランドが独立を果たした。その際、ポーランド北部のバルト海に面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残されたダンツィヒ(グダンスク)を除いた「西プロイセン」は、ポーランドの海への出口(ポーランド回廊)としてポーランドに割譲された。そのため、ドイツ領に残され、ケーニヒスベルクを中心とする「東プロイセン」は、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した飛び地となった。

のちにドイツで政権を握ったナチス党のアドルフ・ヒトラーは、ポーランド侵攻直前に飛び地解消を名目にポーランド回廊の領土返還を要求したが、権威主義的なピウスツキ政権下のポーランド側はミュンヘン会談の取り決め(ドイツは英・仏・伊に対しチェコスロバキアから併合したズデーテン地方以外に領土要求はしないと約束した)を盾にドイツの領土要求を拒否したため、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、これにより第二次世界大戦が始まるが、東プロイセンは再びドイツ本土と陸路で結ばれることとなった。

[編集] ソビエト領カリーニングラードへ

独ソ戦中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線の激しい戦場となった。1944年8月26日から27日の夜にかけてイギリス軍の爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲は郊外に爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗に終わった。しかし続く8月29日から30日にかけてのイギリス軍機189機による空襲では市街地中心部が打撃を受けた。住居と工場の多くが破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街の大半、大聖堂はじめ古い教会のほとんど、ケーニヒスベルク城、大学などは完全に破壊された。

ソ連軍が東プロイセンに進撃を始めた1944年10月頃からは市民のドイツ西部への脱出が始まった。1945年1月13日にはソ連軍がついにケーニヒスベルクに達し1月末には市は完全に包囲されたが、ドイツ軍の確保した鉄道と港湾を使ってのバルト海経由の市民脱出は続いた。要塞化された市街の周辺には地雷や鉄条網などで三重の防衛線が築かれ、2月から3月にかけてドイツ軍は頑強に抵抗した。しかし4月6日から4月9日までの4日間にわたりソ連軍は南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した。

東プロイセンに残された多くのドイツ市民は一部はシベリアに流され、ほとんどは輸送船でドイツ本土へ脱出し、住み慣れない西ドイツなどの街で何とか生き延びることができたものの、東プロイセンは戦後南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に編入された。ソ連領となった区域では1946年に、ケーニヒスベルクは時の最高会議幹部会議長ミハイル・イワノビッチ・カリーニンにちなんでカリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に改称される。こうしてプロイセン王国の精神的故郷でもありドイツの東方に対する進出の拠点で、ロシアに対する脅威であった東プロイセンは、永久にドイツから奪われることとなり、カリーニングラード市は徹底した非ドイツ化が図られた。

カリーニングラードは冷戦時代は軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りが規制される閉鎖都市だった。ソ連でも重要な不凍港としてバルト艦隊の拠点となり、造船業が発達、また古くからの琥珀の世界的産出地としても地位を確かなものとした。

[編集] 冷戦後のカリーニングラード

T-34戦車、第二次大戦の戦勝記念碑の1つ
T-34戦車、第二次大戦の戦勝記念碑の1つ
ケーニヒスベルク城の残骸を取り壊して建てられた『ソビエトの家』、使われることなく未完成のまま廃墟と化していたが2005年にようやく完成した
ケーニヒスベルク城の残骸を取り壊して建てられた『ソビエトの家』、使われることなく未完成のまま廃墟と化していたが2005年にようやく完成した

ところが冷戦崩壊後にリトアニアがソ連から独立した結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった(ソ連崩壊後は独立ベラルーシによってリトアニアとも隔てられる)。さらに冷戦後の造船需要の悪化で造船業が衰退して失業率が増加し、市民の4割が貧困層といわれるほど経済状況が悪化、琥珀も密売者の間で高騰する事態となった。ソ連崩壊後の一時期は東欧各国の中心にある地理的特性を活かして「バルト海の香港」としようという夢が語られたが、それとは程遠い状態になりつつある。ソ連崩壊直後にロシアはここをポーランド領とする案を用意(代わりにドイツはシュチェチンを得るという話であった)したものの頓挫、結局そのまま放置されるに至った。

カリーニングラードの経済は崩壊し、この町が東ヨーロッパの中心に位置するということもあって、麻薬取引、人身売買、盗難車の取引中継地など、東欧・旧ソ連全域を舞台にしたさまざまな犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、HIVなどの感染症も蔓延し始めた。さらに、軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない土地が各地に広がっていた。もはやこの都市の存在が、ロシアにとってもポーランド・リトアニアなど周辺諸国にとっても頭痛の種となってしまっていた。

独立後10年を経て、ロシア政府はウラジーミル・プーチン大統領の夫人がカリーニングラード出身ということもあってカリーニングラードの復興をてこ入れすることにし、経済対策として経済特区を設け、輸入関税を免除するなど外貨獲得を目指した。しかし、当初はロシア国内向けの家電組立工場が多数成立した他は特区の効果はあまり出ず、さらに2004年に周囲を取り囲むリトアニアとポーランドが共にEUに加盟したため、カリーニングラードとロシア本土との通行にリトアニアがビザを科すようになったなど、周囲との通行に障害が生じ、先の見通しが立たないとまで言われる状況に陥った。

ところが2004年以降、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化され、物流も整備された結果、カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げている。過去数年の経済成長率は毎年10%を超えており、モスクワを含めたロシアのどの地域よりも発展している。域内は建設ラッシュであり、モダンなデザインの新しいビルが無数に建設され、街にはデザイナーズショップが建ち並ぶ光景は、それまでの不景気が嘘のようである。また、住民一人当たりの自家用車保有台数はモスクワを上回っている。ロシアで販売されるテレビの3台に1台はカリーニングラード製であり、州内ではハマーBMWといった高級車の工場がフル稼働している。人口95万人のカリーニングラードの失業率はほぼ0%であり、労働力の不足が深刻である。そのため、カリーニングラード州政府は、ロシア本土などの旧ソ連地域から早急に30万人のロシア人をカリーニングラードに移住させる計画を進めている。とくに辺境のカザフスタンカフカス地方に住むロシア人は地位が不安定で定職に就くことも難しいため、カリーニングラード州としては彼らを呼び寄せたいと考えている。州政府は、彼らのための住宅建設は順調に進んでおりすぐにでも呼び寄せることは可能である、と述べている。[1]

ただし「ロシアの工場」カリーニングラード経済の問題は、原材料や中間製品がすべてロシア本土からやってきて、州内で作られる最終製品の販売先がロシア本土しかないことである。州政府としては、周辺のEU諸国と経済関係を築きたいところであるが、EUと様々な政治的問題を抱えるロシア中央政府がそれに反対している。しかしカリーニングラード住民の意識は年々変化し、ロシア離れが加速しており、子供たちまで「我々カリーニングラード住民は大ロシア(ロシア本土)とは違って、もっとヨーロッパ的である」と発言するまでになっている。

カリーニングラードの今後のさらなる発展は、東方拡大を進めてきたEUとロシアの関係の重要な課題となっている。

[編集] ケーニヒスベルク・カリーニングラードゆかりの人物

[編集] 姉妹都市

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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