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イマヌエル・カント - Wikipedia

イマヌエル・カント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

哲学者イマヌエル・カント
哲学者イマヌエル・カント

イマヌエル・カントImmanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。近代において最も影響力の大きな哲学者のひとりである。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論哲学の祖でもある。

目次

[編集] 生涯

イマヌエル・カントは、1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で、皮革工親方の三男として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごし、そこで没した。両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育った。1732年ラテン語学校であるフリードリヒ校にすすんだ。1740年には、ケーニヒスベルク大学に入学する。当初、神学を志したが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもとライプニッツニュートンの自然学を研究した。

1746年、父の死去に伴い大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究では、クヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時大学に論文(いわゆる『活力測定考』)を提出しているが、ラテン語でなくドイツ語であったこと、また学内の文書に学位授受についての記録が残っていないことなどから、正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったと思われる。その後約9年間、主に家庭教師をして生計を立てる。

1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社が倒産したため極少数のみが公刊された(1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせカント・ラプラスの星雲説といわれる)。4月、ケーニヒスベルク大学哲学部に学位論文『火について』を提出し、6月12日、これによりマギスターの学位を取得。9月27日、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』で公開討議を行い、冬学期より同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。

1756年、恩師クヌッツェンの逝去により欠員が出た員外教授の地位を得るため、それに必要な二回の公開討議の第一回目の素材として「物理的単子論」を著す。4月12日に第一回目の公開討議が行われるが、プロイセン政府がオーストリアとの七年戦争を直前にひかえ欠員補充をしない方針を打ち出したため、員外教授就任の話は白紙となる。1764年、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたが、カントはこれを固辞。また、1769年エルランゲンイェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいか、それとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これらも断っている。

1766年『視霊者の夢』(エマヌエル・スヴェーデンボリ(英語読みではスウェーデンボルグ)の千里眼という超常現象について、基本的に激しく批判しているものの、それが存在するのか幻覚であるのか判断できないという感想も併記している)を出版。

後年 カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。

「スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・ぺーリツ編『カントの形而上学講義』から)。

他に幾つかの小著作を出版し哲学教師を続けていたが、1770年、カント46歳のときに転機が訪れる。ケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後カントは引退まで、この職にとどまる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)を著す。前批判期のもっとも重要な著作のひとつで、後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。

大学教授としてのカントは、哲学のみならず地理学自然学人間学などさまざまな講義を担当した。話題は多様であっても、穏やかなカントの学者生活の日々は『純粋理性批判』の出版で劇的に変化した。彼は一気にドイツ哲学界の喧騒にみちた論争の渦中に入り込んだ。『純粋理性批判』はその難解さと斬新な思想のために、同時代の読者に正しく理解されず、さまざまな議論が起こったのである。とくにバークリーの観念論と同一視して批判する者が多く、カントは小著『プロレゴーメナ』を出版して自身の哲学的立場を明らかにし、また『純粋理性批判』の前半部、超越論的演繹論を改稿した第2版(今日ではB版と呼ぶ)を出版して、誤解を解こうと努めた。

カントの当初の構想では『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし構想の大きさと時間の制約により、理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は、後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを総称し「三批判書」と呼ぶ。

カントは哲学的論争の渦中にいたが、その学者人生は順調であった。晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。しかしプロイセン王立ベルリン・アカデミーには、カントは招聘されなかった。

カントの構想では批判は形而上学のための基礎付けであり、それ以降の関心は形而上学へ向かった。またカントの哲学には道徳への関心が濃く、すでに批判のうちに表明されていた道徳と宗教および神概念への関心は宗教哲学を主題とするいくつかの著作へと向かった。

カントは三批判で表明された既成宗教への哲学的考察をすすめ『単なる理性の限界内における宗教』を著したが、これは当時保守化の傾向を強めていたプロイセンの宗教政策にあわず、発売を禁止された。カントは自説の正しさを疑わず、また学者同士の論争に政府が介入することには反対であったが、一般人が自由な言論によって逸脱に走る危険性を考慮して、この発禁処分を受け入れた。

1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性痴呆症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの著作としてまとめられることは遂になかった。彼は最期に末期の水がわりに砂糖水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.) [1]と言って息を引き取ったと言う。当時のドイツの哲学者は、論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって(真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ばミイラ化しており、埋葬を急がなくて済んだためという)大学葬が行われ、市の墓地に葬られた。その墓は現在もカリーニングラードに所在し、墓碑銘に「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない。」と刻まれる。

[編集] 思想

ロシアのカリーニングラードにあるカント像
ロシアカリーニングラードにあるカント像

[編集] 概説

一般にカントの思想はその三つの批判の書にちなんで批判哲学と呼ばれる。しかしカント自身はみずからの批判書を哲学と呼ばれるのを好まなかった。カントによれば批判は哲学のための準備・予備学であり、批判の上に真の形而上学としての哲学が築かれるべきなのである。ドイツ観念論はカントのこの要求に応えようとした試みであるが、カントはこれをあまり好意的には評価しなかった。またドイツ観念論の側でもカントを高く評価しながら、物自体と経験を分離したことについてカントを不徹底とも評価し、いわばカントを克服しようとしたのである。

カントの思想は以下の三つの時期に区分される。

  • 前批判期 『純粋理性批判』刊行前、初期の自然哲学論考から就職論文『可感界と知性界について』まで
  • 批判期  1768年 - 1790年。『純粋理性批判』以降の三批判書を含む諸著作。これ以降、後批判期を含めて批判哲学と呼ぶ
  • 後批判期 1790年 - 1804年。第三批判『判断力批判』以後に刊行された著作および遺稿

[編集] 前批判期

初期のカントの関心は自然哲学にむかった。とくにニュートンの自然哲学に彼は関心をもち、『引力斥力論』などニュートンの力学天文学を受容した上でそれを乗り越えようとする論文を書いた。自然哲学においてはことに星雲による太陽系成立について関心を示した。また若干の地質に関する論文を書いた。

一方でカントはイギリス経験論を受容し、ことにヒューム懐疑主義に強い衝撃を受けた。カントは自ら「独断論のまどろみ」と呼んだライプニッツヴォルフ学派の形而上学の影響を脱し、それを経験に基づかない「形而上学者の夢」とみなすようになる(『視霊者の夢』)。自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。

またカントはルソーの著作を読み、その肯定的な人間観に影響を受けた。これは彼の道徳哲学や人間論に特に影響を与えた。

こうして知性にとって対象が与えられるふたつの領域とそこでの人間理性の働きを扱う『可感界と知性界について』が書かれる。この時点で後年の『純粋理性批判』の基本的な構想はすでに現れていたが、それが一冊の本にまとまるまでには長い年月を要することになる。

[編集] 批判哲学

従来人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を、人間それ自身の探求のために再定義した「コペルニクス的転回」は有名。彼は人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。「我々は何を知りうるか」「我々は何をなしうるか」「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いが、それぞれ『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』に対応している。カントの批判とは否定ではなく吟味を指す。

[編集] 認識論

カントによれば、人間の認識能力には、感性悟性の二種の認識形式がアプリオリに備わっており、前者の感性には、純粋直観である空間時間、後者の悟性には、因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。いわゆる二律背反においては、定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに対し反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような対立の解決は、統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する先験的すりかえを避けることを必要とする。理念は、与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし到達して停滞することは許さない規則である。(『純粋理性批判』)

なお『プロレゴメナ』によれば、純粋悟性概念はいわば現象を経験として読み得るように文字にあらわすことに役立つもので、もしも物自体に関係させられるべきものならば無意義となる。また、経験に先行しこれを可能にする超越論的(transzendental)という概念は、かりに上記の概念の使用が経験を超えるならば超越的(transzendent)と呼ばれ、内在的(immanent)すなわち経験内に限られた使用から区別される。

[編集] 倫理学

理性概念が(直観を欠くために)理論的には認識されえず、単に思惟の対象にすぎないことが『純粋理性批判』において指摘されたが、これら理性理念と理性がかかわる別の方法が『実践理性批判』において考察されている。『実践理性批判』は、純粋実践理性が存在すること、つまり純粋理性がそれだけで実践的であること、すなわち純粋理性が他のいかなる規定根拠からも独立にそれだけで充分に意志を規定しうることを示すことを目標としている。カント道徳論の基礎であるこの書において、人間は現象界に属するだけでなく英知界にも属する人格としても考えられ、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である英知界における因果性の法則にも従うべきことが論じられる。カントは、その物自体の英知的秩序を支配する法則を、人格としての人間が従うべき道徳法則として提出する。道徳法則は、「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」という定言命法として定式化される。カントは、純粋理性によって見出されるこの法則に自ら従うこと(意志の自律)において純粋理性が実践的に客観的に実在的であることを主張し、そこから自由の理念もまた実践的に客観的実在性をもちうると論じた。道徳法則に人間が従うことができるということが、英知界にも属する存在者としての人間が自然的原因以外の別の原因を持ちうる、すなわち自由であるということを示すからである。また、神・不死の理念は、有徳さに比例した幸福(すなわち最高善)の実現の条件として要請される。

[編集] 美学・目的論

最後にカントは狭義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判断力について考察を加え、その一種である反省的判断力を「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けて考察を加えた。これが『判断力批判』である。この書は、その後展開される実践論、美学などの基礎として評価されている。またハンナ・アレント以降、『判断力批判』を政治哲学として読む読み方が提示され、現代哲学においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。

批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗教・倫理学への関心を増した。とくにフランス革命にカントは重大な衝撃を受け、関心をもってその推移を見守っていた。後期著作の道徳論や人間論にはその知見が投影されている。その道徳論は義務論倫理として現在の二大規範倫理学の一方をなしている。

[編集] 歴史哲学

カントは人類の歴史を、人間が己の自然的素質を実現するプロセスとして捉える。人間にとっての自然的素質とは、本能ではなく理性によって幸福や完璧さを目指すことである。

[編集] 政治哲学

人倫の形而上学』の『法論』におけるカントは、自然法が支配し人々が物や人に対しての暫定的な自然権をもつという自然状態を想定し、その暫定的な権利を確定的なものへとするために各人は自然状態から抜け出し共通の裁判官を抱く国家を形成して社会状態へと移行するべきである(カントにおいてこれは義務である)とするロック的な社会契約説を展開している。

しかし、国家は他の国家との間により上位の共通な権力を持たないために権利を巡った競合を繰り広げることになり、お互いに対してはなお自然状態にある。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことは人類にとっては現実には到達し得ないが到達すべきであるような理念である。カントは、この恒久的な平和状態へと近づくために、世界市民法と自由な国家の連合を構想している。『法論』や『永遠平和のために』で述べられているこの構想は、国際連盟結成の思想的基盤を用意した。「永久平和のために」の中では江戸日本の当時の対外政策を評価している。

[編集] 宗教哲学

カントは宗教を、道徳の基礎の上に成り立つべきものであるとしている。神は、幸福と徳の一致である「最高善」を可能にするために要請される。この思想は理性宗教の立場であるが、啓示宗教を排除しようというものではない。キリスト教という啓示宗教こそが、様々な歴史的宗教の中で、理性宗教たる資格を備えていると考えられている。

[編集] エピソード

[編集] 名と姿

カントの両親は、彼をエマヌエルと名づけたが、長じてカントはヘブライ語を知り、その知識からイマヌエルとみずから改名した(「イマヌエル」עמנואלとはヘブライ語で、「神共にあり」の意味である)。カントの容貌については、弟子の証言によると、青く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な(身長157センチ程度)人物であった。身体は骨格、筋力ともにやや貧弱。正装する時には服が身体から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったという。身体の割に頭は若干大きめだった。なお、虚弱という割には最晩年まで命にかかわるような病気とは無縁で、顔色もすこぶるよかったらしい。

[編集] 青少年教育批判

カントは、規則で生徒たちを縛り上げる厳格な教育方針で知られたフリードリヒ学校に入学し、その教育方針を身をもって経験した。しかし、後に彼は、この学校の教育方針について批判を記した。啓蒙の哲学者カントの面目躍如と言える。

[編集] 独身主義者カント

カントは生涯独身を通した。彼が哲学の道に入る契機となったニュートンも独身であったが、ニュートンの場合は、仕事が忙し過ぎて恋愛の暇がなかったと言われる。カントの場合は、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされる。真相は不明で、カントも忙し過ぎたのかも知れない。

[編集] 教育者カント

カントはケーニヒスベルク大学の哲学教授となったが、その授業の様子を、当時の弟子のひとりであるヘルダーが伝えている。ヘルダーによれば、カントの講義は生彩に富み魅力あるものであった。カントはいきいきと語る熱心な教師であった。カントが旺盛な知的好奇心を持ち、その話題が豊かであったことからも、教師としてのカントの姿が彷彿とされる。

[編集] 規則正しい人カント

カントは規則正しい生活習慣で知られた。早朝に起床し、少し研究した後、午前中は講義など大学の公務を行った。帰宅して、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したと言われる。これは、カントの性格の一部でもあったようで、素行の悪さの故に従僕ランペを解雇したあと、新しい従僕になじめず、メモに「ランペは忘れ去られるべきである」と書き付けた。
ある日いつもの時間にカント先生が散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントはジャン=ジャック・ルソーの「エミール」を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのであった。カントはルソーに関し、『美と崇高の感情に関する観察』への『覚書』にて「わたしの誤りをルソーが正してくれた。目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」と述べている。
・・・この話については年を取って生活が単調になった結果、という指摘もある。若い頃にはたまに夜中まで友達と飲み歩くようなこともしていたらしい。

[編集] 趣味人カントの食卓

規則正しい散歩の後、カントは夕方からは、友人を集めて会食した。カントの論敵の一人ゲオルク・ハーマンは同時に親しい友人でもあり、しばしばこの食事会の客となった。カントはウィットに富む談話を好み、世界の最新情報にも通じ、その話題の広さには会食者も感嘆した。しかし、客が哲学の話題に触れると露骨に嫌な顔をしたと言われる。『判断力批判』の著者の姿が如実に現れている。逸話の多い哲学者であった。

[編集] カントの言葉

  • 私自身は生まれつき研究者である。無学の愚民を軽蔑した時代もあった。しかしルソーが私の謬りを正しくしてくれた。私は人間を尊敬することを学ぶようになった。
  • 歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。
  • あることをなすべき(soll)であると意識するがゆえに、そのことをなすことができる(kann)と判断するのであり、道徳法則がないとすれば彼にはいつまでも知られるはずのない自由(Freiheit)をおのれのうちに認識するのである。


[編集] 著作・論文・講義

  • 1747年04月22日: 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
  • 1754年06月: 「地球が自転作用によって受けた変化の研究」
  • 1754年09月: 「地球は老化するか、物理学的考察」Die Frage, ob die Erde veralte, physikalisch erwogen
  • 1755年03月: 『天界の一般的自然史と理論』Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels
  • 1755年04月: 学位論文「火に関する若干の考察の略述」
  • 1755年09月: 就職論文「形而上学的認識の第一原理の新しい解釈」Principiorum primorum cognitionis metaohysicae nova dilucidatio
  • 1756年01月: 「地震原因論」Von den Ursachen der Erdenschütterungen bei Gelegenheit des Unglücks, Welches die westliche Länder von Europa gegen das Ende des vorigen Jahres betroffen hat
  • 1756年: 「地震におけるきわめて注目すべき出来事について」
  • 1756年: 「続地震論」
  • 1756年04月: 「物理的単子論」Metaphysicae cum geometria iunctae usus in philosohia naturali, cuius specimen I. continet monadologiam physicam
  • 1756年04月: 「風の理論の説明のための新たな註解」
  • 1757年04月: 「自然地理学講義草案および予告」Entwurf und Ankündigung eines collegii der physischen Geographie nebst dem Anhange einer kurzen Betrachtung über die Frage: ob die Westwinde in unsern Gegenden darum feucht seinen, weil sie über ein großes Meer streichen.
  • 1758年04月: 「運動および静止の新説」
  • 1758年10月: 「オプティミズム試論」
  • 1762年: 「三段論法の四つの格」
  • 1763年: 『の存在証明の唯一の可能な証明根拠』Der mögliche Beweisgrund zu einer Demonstration des Daseins Gottes
  • 1763年: 「負量の概念を哲学に導入する試み」Versuch den Begriff der negativen Größen in die Weltweisheit einzuführen
  • 1764年: 『と崇高の感情に関する観察』Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen
  • 1764年: 「頭脳の病気に関する試論」Versuch über die Krankheiten des Kopfes
  • 1764年: 『自然神学と道徳の原則の判明性』Untersuchung über die Deutlichkeit der Grundsätze der natürlichen Theologie und der Moral
  • 1766年: 『形而上学によって解明された視霊者の夢』Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
  • 1768年: 「空間における方位の区別の第一根拠」Von dem ersten Grunde des Unterschiedes der Gegenden im Raum
  • 1770年: 『可感界と可想界の形式と原理』De mundi sensibilis atque intelligibilis forma et principiis
  • 1781年: 『純粋理性批判』第一版 1. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
  • 1782年: 『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のための序論』 Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können
  • 1784年: 『啓蒙とは何か』Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung
  • 1784年: 「世界市民的見地における一般史の構想」Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht
  • 1785年: 『人倫の形而上学の基礎付け』Grundlegung zur Metaphysik der Sitten
  • 1786年: 『自然科学の形而上学的原理』
  • 1786年: 『人類史の憶測的起源』Mutmaßlicher Anfang der Menschengeschichte
  • 1787年: 『純粋理性批判』第二版 2. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
  • 1788年: 『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft
  • 1790年: 『判断力批判』 Kritik der Urteilskraft
  • 1791年09月: 『弁神論の哲学的試みの失敗について』
  • 1792年04月: 「根本悪について」
  • 1793年04月: 『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft
  • 1793年09月: 「理論と実践に関する俗言について」
  • 1794年05月: 「天候に及ぼす月の影響」
  • 1794年06月: 「万物の終焉」Das Ende aller Dinge
  • 1795年: 『永久平和のために』 Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf
  • 1797年: 『人倫の形而上学』 Die Metaphysik der Sitten
  • 1798年: 『学部の争い』Der Streit der Fakultäten
  • 1798年: 『実用的見地における人間学』
  • 1800年9月: 『論理学』 Logik
  • 1802年: 『自然地理学』
  • 1803年: 『教育学』
  • 「オプス・ポストムム」

[編集] 関連項目

[編集] 注釈

  1. ^ カントの最期の言葉については、「おいしい」と翻訳すべきとする解釈もある。(石川文康著『カント入門』筑摩書房)

[編集] 外部リンク

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