二律背反
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二律背反(にりつはいはん 独:Antinomie)とは矛盾・パラドックスのこと。字義通りには、二つの法則が現実的にであれ見かけ上であれ相互に両立しないことを意味する。これは論理学や認識論で使用される術語である。
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[編集] 概要
元来は同一法典内での個々の法律間の矛盾をいう。転じて哲学用語として矛盾する二つの命題をいう。 経済学では二つの政策が同時に成立し難い状況をいう。 法典では例えば江戸幕府が死刑や殺生を前提とする鷹狩を制度化しつつ、生類憐みの令を出している。 経済学ではたとえば失業対策に景気拡大政策を行うと物価問題が深刻化し、逆に、インフレーション対策に景気縮小政策を行うと、失業が増大する。
[編集] 哲学におけるアンチノミー
この術語は、イマヌエル・カントの哲学において特別な意味を要求する。カントは、感覚的知覚あるいは経験(現象/ phenomena )の領域のみ用いられるカテゴリーあるいは理性の規準を純粋思惟の領域に適用した際に生じる、同等に合理的ではあるが矛盾する帰結を記述するのに用いた。理性はここでは合理的な真理を確立する役割を演じることができない。なぜなら、それは可能な経験を超えているし、理性を超越しているものの領域に適用されているからである。
カントにとって、以下のものに関連する四つのアンチノミーが存在する。
- 時間と空間に関する宇宙の限界
- 全ては分割不可能な原子から構成されている(それに対して、実際にはそのようなものは存在しない)という理論
- 普遍的な因果性に関する自由の問題
- 必然的な存在者の実在
これらそれぞれについて、純粋理性は経験的なものに対して、正命題と反命題として、矛盾を提出する。 これは、学問と哲学的な探求に対する制限を規定するカントの批判的企図の一部である。カントは、これらの矛盾を、それがいかに現実に反対するものによって方向付けられていても、あるいは批判的な解明なしに心に現れているに違いないにしても、いかなる場合にも矛盾は実在的ではない、ということによって解決すると主張する。従って、互いに矛盾する選択肢に関して同等に強い議論がなされているという意味で、カントのせいにすること―しばしばなされたように―は正しくない。困難は現象体 (phenomena) と英知体 (phenomena) の領域の混同から生じている。実際、いかなる合理的な宇宙論も可能でない。
アンチノミーが論理的推論能力における制限を強調してはいないということもまた論じられる。なぜなら、制限が存在するという結論は論理的推論によってアンチノミーから(おそらく)導出され、従って論理的推論の妥当性におけるなんらかの制限は論理的推論における制限が存在するという結論についての制限を与えるからである。(これは自己言及による議論である)。要するに、論理的推論一般の妥当性に関して、アンチノミーは自己孤立的である。すなわち、アンチノミーは、なにものにも疑いを投げかけることができないが自分自身には疑いを投げかける、論理学の領域の範囲で散乱した断片に似ている。
この気楽な見解は爆発の原理と相容れない。数理論理学においては、アンチノミーは明らかに「自己孤立的」ではなく、ふつうは、(フレーゲの著作におけるラッセルのパラドクスのように)そこでアンチノミーが生じる形式体系に対して厄介だとされている。
[編集] 参考文献
- John Watson, Selections from Kant (trans. Glasgow, 1897), pp. 155 foll.
- W. Windelband, History of Philosophy (Eng. trans. 1893)
- H. Sidgwick, Philos. of Kant, lectures x. and xi. (Lond., 1905)
- F. Paulsen, I. Kant (Eng. trans. 1902), pp. 216 foll.
[編集] 関連項目
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