純粋理性批判
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『純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、Kritik der reinen Vernunft)は、ドイツの哲学者イマヌエル・カントの主著で、第一版が1781年に、第二版が1787年に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年刊の『実践理性批判』(第二批判)、1790年刊の『判断力批判』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論的形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。
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[編集] 概論
『純粋理性批判』は、理性認識の能力とその適応の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学(形而上学)に先立ち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。
カントは理性(Vernunft)がそれ独自の原理(Prinzip)にしたがって事物(Sache, Ding)を認識すると考えるが、この原理は理性に経験にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリな認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的(transzendental)な認識形式にもとめ、それによって認識理性(theoretische Vernunft)の原理を明らかにすることにつとめる。
[編集] 人間的認識能力とその制約
伝統的な懐疑論は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。
ここでカントは認識の制約以前にある「物自体」(Ding an sich)と経験の対象である「物」(Ding)を区別する。「物自体」は理性を触発し(affzieren)、感性 (Sinnlichkeit)と悟性 (Verstand)に働きかけ、それによって人間理性は直観 (Anschauung)と 概念(Begriff)によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観(reine Anscuauungen)・空間と時間、また12の範疇(Kategorie)すなわち純粋悟性概念(reine Verstandbegriffe)のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。
しかしこれは一方で、人間理性(menschliche Vernunft)が、われわれの認識能力(unser Erkenntnisvermoegen)を越えるものに、認識能力を適応することができないということを意味する。すべての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、ゆえに伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神やイデア(理念)といった超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまるのである。
感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力(Einbildungkraft)の産出する図式(Schema)である。また感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit)は統覚 (Apperation)、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルトのコギト)によって統一されている。しかし理性にはおのれの認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質(Naturanlage zur Metaphisik)がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適応されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適応しようとする。しかしカントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識(erkennen)されえないものはただ思惟する(denken)ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂の不滅・自由が挙げられる。
[編集] アンチノミー(二律背反)
理性概念・理念(Idee)は人間の認識の能力を超えており、したがって理念を認識し、述語付けしようとする試みは、失敗に終わらざるを得ない。カントはそのような悟性の限界を4対の二律背反(Antinomie)する二命題の組み合わせによって示す。
こうした命題は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適応をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性と自由についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適応することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。
ただし、認識は根源的なものを求めるから、認識が現にあることから如何にして根源的なものに至るのかということが課題になった。現象の根拠を求めると可能的な世界に求められる、しかし、可能的な世界から現象が与えられているとすると現象の根拠は可能性でしかない。それ故に、認識が現象から抜け出せないものであるので、『実践理性批判』で展開されることになる。認識が現象でしかないが故に、可能をみいだしたのである。こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、理性の在り方を様々に描いている。そして、『純粋理性批判』と『実践理性批判』は『判断力批判』が統合するとされている。
[編集] 内容
[編集] 先験的主要問題
認識は時間的には経験とともに始まる。とはいえ、あらゆる認識が経験から発現するのではない(第二版B1)。「すべての物体は延長している」という判断では、述語が主語のうちに含まれている。この種の判断は分析的判断と呼ばれる。これに対し「すべての物体は重い」という判断では、述語が主語においては考えられていない。この種の判断は総合的判断と呼ばれる。経験的あるいは後天的判断は、何が存在するか、いかに存在するかを告げるのみであり、それ以外であってはならぬという必然性をもつ先天的判断とは異なる。分析的判断はすべて先天的であり、総合的判断は通例後天的である。にもかかわらず数学および自然科学においては既に現実的である先天的かつ総合的な判断は、いかにして可能かという問題を立てることができ、先天的認識に関してのこの批判は先験的(対象一般をわれわれが認識する仕方に関する全ての認識(B67))と呼ばれる。
いかにして先天的総合判断は可能か、あるいは学としての形而上学は可能かという先験的主要問題は以下の4つに分かたれる。
1. いかにして純粋数学は可能か(感性論) 2. いかにして純粋自然科学は可能か(分析論) 3. いかにして素質としての形而上学は可能か(弁証論) 4. いかにして学としての形而上学は可能か(方法論)
[編集] 先験的感性論
時間および空間(以下時空)は直観の先天的形式である。外的現象に適用される空間は、外的印象を並列的に受け取る外的直観の先天的形式である。これに対し一切の現象に適用される時間は、内的状態を継時的に受け取る内的直観の先天的形式である。ここでいわれる時空は概念でなく直観である。すなわち個々の時空と唯一の時空とは、個別者と概念との関係でなく部分と全体との関係をもつ。時空の制約は物自体(それ自身は現象しない)には適用されない(先験的観念性(transzendentale idealitat))。時空はそれによってのみ現象が可能となる主観的制約(経験的実在性(empirische kealitat))である。そのため、見出されるはずの一切の対象に妥当すると言い得る。
[編集] 先験的分析論
悟性とは感性の受け取る表象によって対象を認識する能力である(B74)。悟性がそれによって多様を客観的に総合統一する規則は純粋悟性概念あるいは範疇と呼ばれる。
「判断表-範疇表」
- 量
- 全称的(すべてのAはBである)-単一性
- 特称的(あるAはBである)-数多性
- 単称的(このAはBである)-全体的
- 質
- 肯定的(AはBである)-実在性
- 否定的(AはBでない)-否定性
- 無限的(Aは非Bである)-制限性
- 関係
- 定言的(AはBである)-実体性
- 仮言的(AであればBである)-原因性
- 選言的(AであるかBである)-相互性
- 様相
- 問題的(AはBでありうる)-可能性
- 主張的(AはBである)-存在性
- 必然的(AはBでなければならない)-必然性
思惟の主観的制約である範疇に客観的妥当性を帰する権利は、経験の可能性の先天的基礎を構成する主観的源泉(下記)を解明する範疇の先天的演繹において証明される。
- 直観における覚知の総合
- 構想力における再現の総合
- 概念(統覚)における再認識の総合
経験的統覚が可能にする知覚的判断に対して必然性を付与することで、これを普遍妥当的判断に高めるものは、「私は思惟する」という表象を産出する先験的統覚である。範疇を感性に適用する媒介となるものは図式(下記)である。
- 量においては時間系列(数)
- 質においては時間内容(時間における存在と非存在)
- 関係においては時間順序(持続・継起・同時)
- 様相においては時間総括(或時・定時・常時)
時間制約たる図式(Schema)は先天的構想力の先験的所産である。範疇が図式を媒介として現象に適用されることによって成立するものは先天的最高原則(下記)である。
- 量においては直観の公理(全ての直観は外延量(同種的なものの集合)である)
- 質においては知覚の予料の公理(全ての現象において感覚の対象たる実在的な物は内包量を有する)
- 関係においては経験の類推
- 実体持続性の原則
- 因果律に従った継起の原則
- 交互作用の法則に従った共在の原則
- 様相においては経験的思惟一般の公準
- 可能性の要請
- 現実性の要請
- 必然性の要請
[編集] 先験的弁証論
真理の論理学である分析論に対し、先験的弁証論は仮象の論理学といわれる。この仮象は理性に不可避かつ固有である。純粋理性概念あるいは理念は可能的経験の限界を超えて絶対者にまで(B436)拡張された純粋悟性概念である。経験においては理念に完全に合致する対象が現れることは決してありえない(B384)。理念は心・自由・神であり、定言的推理における実体性・仮言的推理における原因性・選言的推理における相互性がおのおの対応する。
第一類の弁証的推論は、全く多様を含まない主観の先験的概念から、この主観の絶対的統一そのものを推理する先験的誤謬推理(paralogismus)である。そこでは心は実体・単純・同一的・相互作用的といわれる。
- 実体性の誤謬推理
- 単純性の誤謬推理
- 人格性の誤謬推理
- 観念性の誤謬推理
上記の諸推理は、実体性の誤謬推理に帰着される。そこでは「心は実体である」といわれる。しかしその推論における媒概念である絶対的主語に対しては、大前提にあっては実在的主体、小前提にあっては論理的主体が意味される媒概念曖昧の虚偽が明かされる。実体が理念である限りでなければ、「心は実体である」とはいい得ない(第一版A351)。
第二類の弁証的推論は、現象一般に対する制約系列の総体性を問題とする純粋理性の二律背反(antinomie)である。
- 量
- 世界には時間的空間的に始まりがある
- 世界には時間的空間的に始まりはない
- 質
- 世界にあるものはすべて単純なものからなる
- 世界にあるものはすべて複合的である
- 関係
- 世界には自由による原因性がある
- 世界には自由なものはない
- 様相
- 世界原因の系列において必然的存在がある
- 世界における一切は偶然的である
二律背反の解決は、あくまでも課題である理念に客観的実在性を帰する先験的すりかえ(transzendentale Subreption)を避け、理性の原則は可能的経験を超え出る構成的原理でなく、経験をできるかぎり拡張するための統制的原理であることを認めることを必要とする。なお量・質の二律背反は数学的、関係・様相の二律背反は力学的といわれる。後者の力学的二律背反においては、物自体と現象とを区別するかぎり、定立と反定立の双方が真であり、現象における経験的性格の必然性と当為における自由による原因性が両立し、また現象の彼岸における目的の王国(Reich der Zwecke)に関係する可想的存在者が想定される。
第三類の弁証的推論は、その単なる先験的概念からすれば知られない諸物から一切存在体の存在体を推論する純粋理性の理想(ideal)である。
- 実体論的証明
- 宇宙論的証明
- 自然神学的証明
上記の諸証明は、概念から最高存在の現存在を証明する実体論的証明に帰着される。神の概念は矛盾を含まないため、その存在の不可能性は先天的には証明されない。しかし経験的対象でもないため後天的にも証明されない。その存在をその概念によって一層知ることはなく、またその絶対的必然性について何らかの概念を得ることもない。
[編集] 先験的方法論
そもそも理性の関心は下記のように区分される。
- 何を私は知りえるか
- 何を私はなさねばならないか
- 何を私は希望し得るか
理論理性によっては与えられない理念の客観的実在性を、可想界において確立すべきものは、何が起こるべきか(当為)を主張する実践理性である。先験的自由と自然因果性の中間に位置する実践的自由は、自由な決意性によって感性的衝動を克服する。ここで自由の理念は直接の事実として確証される(B830)。われわれが幸福であるに値する 者であることを求める純粋道徳律は、純粋理性に由来する。純粋理性の原理に対して客観的実在性を与えるのは道徳的使用であり(B836)、その対象である可想界に属することで心という理念は客観的実在性を獲得する。道徳的完全性が最高の幸福と結合する世界は、最高善の根源的存在者としての神という理想から派生し、来世として希望されることで道徳性の理念を実践の動機たらしめる(B841)。
世界における道徳的使命をいかにして果たすべきかを教える道徳神学は、われわれの理性活動を指導するイデーを有するもので(B855)、主観的にのみ確実である道徳的信に基づく。これに対し自然神学は、証明され得ないが主観的には十分な根拠をもつ理論的な想定に関係する理説的信に基づく。経験の外部において純粋理性が収めえる成果は、神および来世に対する道徳的信である。ここにおいて哲学は、形而上的要求に関しては、普通人の理解力に与えられる手引き以外の何物にも到達し得ないことが明らかとされる(B859)。
[編集] 影響史
『純粋理性批判』第1版は、当時のドイツの講壇哲学者と通俗哲学者の双方から激しい批判で迎えられた。とくにカントの哲学をバークリの観念論と同一視する批判がなされた。カントはこれに反論し、自らの批判の内容を簡潔に要約した『プロレゴーメナ』を著すとともに、とくに感性論および統覚と構想力について述べる部分に大規模な記述の書き換えをほどこし、第二版を発行した。しかしカントの理解としては、第一版と第二版の間には本質的な差はない。現代の研究者は、両者の間に発展をみとめるものの、大筋では同じ内容に異なる表現を与えたものと解している。
しかし『純粋理性批判』は若い世代に熱狂的に迎えられた。哲学的影響は、フィヒテやシェリングといった、次の世代に及び、ドイツ観念論の成立を促した。しかしドイツ観念論は、カントが否定した人間理性による超越の把握に再び向かうことでカントと方向性を別っている。
カントの影響は19世紀末には新カント学派にも見られる。新カント学派では古典的物理学の認識の基礎付けという側面が強調された。またフッサールの現象学にもカントの影響は及んでいる。
美学においては、『純粋理性批判』の構想力論をもとにコンラート・フィードラーが純粋視覚を提唱し、この理論はさらに、20世紀後半のアメリカにおいて、クレメント・グリーンバーグにより抽象表現主義を擁護するフォーマリズム批評の理論的根拠として用いられた。
[編集] 翻訳
『純粋理性批判』には多くの邦訳があるが、以下には代表的なもののみを挙げた。
- 天野貞祐訳、旧岩波文庫(全3巻)のちに講談社学術文庫(全4巻)(旧岩波文庫版については一穂社よりオンデマンド版が刊行されている)
- 原佑訳、理想社『カント全集』に収録(現在平凡社ライブラリーに収録されている)
- 高峯一愚訳、河出書房「世界の大思想」に収録
- 有福孝岳訳、岩波書店『カント全集』に収録
- 宇都宮芳明訳、以文社
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Kritik der reinen Vernunft - 独語(ウィキソース)
- Critique de la raison pure - 仏語(ウィキソース)