ウラジーミル・プーチン
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ウラジーミル・プーチン Владимир Владимирович Путин |
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任期: | 2000年3月26日 – 2008年5月6日 |
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任期: | 1999年8月9日 – 2000年5月7日 |
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任期: | 2008年5月8日 – |
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出生: | 1952年10月7日(55歳) サンクトペテルブルク |
政党: | 統一ロシア |
配偶: | リュドミラ・アレクサンドロヴナ |
サイン: |
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(Владимир Владимирович Путин, 1952年10月7日 - )は、ロシアの政治家。政府議長(首相)。第2代ロシア連邦大統領(在任1999年 - 2008年)。柔道家でもあり、段位は柔道五段(柔道六段を来日時、講道館柔道において贈られるも辞退)。最終学歴は国立レニングラード大学法学部卒業。学位は法学士(国立サンクトペテルブルク大学)、経済科学準博士(1996年、ただし、ロシアにおける旧「準博士」は社会主義圏では「博士」として扱われる)。称号は、サンボと柔道のロシア連邦スポーツマスター。階級は予備役大佐。ヨーロッパ柔道連盟名誉会長。
目次 |
[編集] KGBの一員として
プーチンはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に生まれた。プーチンの母は工場労働者であり、プーチンの父は第2次世界大戦で内務人民委員部に従事し、傷痍軍人となった。2人の兄はプーチンの生まれる前にいずれも幼くして死亡していたため、プーチンはひとりっ子として育つ。プーチンの父方の祖父(父の父)はプロの料理人で、スターリンにダーチャ(別荘)の一つで給仕していた。それ以前は、レーニンに仕えていた。このことはプーチンの自伝『プーチン 自らを語る』で明かされた。
プーチンは後に自伝で、家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代は共同アパートで過ごしたと振り返っている。また、スパイ映画や小説に憧れを抱いていたと語っている。自伝によると、その憧れからKGBで働きたいと思い始め、9年生(日本でいう中学3年生)のときにKGB支部を訪問し、そこで法学部が有利であると聞かされたため、レニングラード大学法学部に入学したという。そしてプーチンは同大学卒業後、KGBに就職した。
プーチンはKGBの一員として1985年から1990年まで東ドイツのドレスデンに派遣され、諜報活動に従事したとされる。そのためドイツ語ができる。しかし東ドイツの崩壊によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになった。この時に大学生時代の恩師で、のちにサンクトペテルブルクの市長となるアナトリー・サプチャークと再び懇意になった。
[編集] 政治の世界へ
1991年にサプチャークがサンクトペテルブルクの市長になると、対外関係委員会議長に就任する。1994年3月にはサプチャークによりサンクトペテルブルクの第一副市長に任命された。プーチンはサンクトペテルブルク市の職員として外国企業の誘致と投資導入に努めた。1996年にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙で敗れ退陣すると、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動した。1998年にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官を務めた。この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していた検事総長のユーリ・スクラトフを女性スキャンダルで失脚させ、さらにエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ功績によりエリツィンの信頼を得る。その結果1999年8月9日に第一副首相に就任し(同日セルゲイ・ステパーシンが首相を解任されたためそのまま首相代行に任命)、さらに1週間後の8月16日には正式に首相に任命される。首相に就任すると第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるって国民の支持を集め、同年健康理由で引退を宣言したエリツィン大統領によって大統領代行に指名される。
[編集] 大統領職
[編集] 1期目
大統領代行となったプーチンが最初に行ったのは、エリツィンの不逮捕特権の法令を作ることだった。これは、引退後のエリツィンの生活の保障をし、エリツィン一族の汚職の追及をさせないものである。
プーチンは2000年の大統領選挙で圧倒的な人気を集めて過半数の得票を受け決選投票なしで当選した。正式に大統領となったプーチンは「強いロシア」の再建のために法の独裁による法治国家の建設を目標とした。2000年5月、ロシア全土85の地域を7つに分けた連邦管区を設置し、各地域の知事を大統領全権代表に監督させることによって中央集権化を進め、大統領権限の強化を図った。さらに同年12月にソビエト連邦の国歌の歌詞を変えて新国歌に制定した。これはロシア国民に「強かった時代のロシア(ソ連)」を呼び起こすためだとする意見がある。このような強いリーダーシップは反対派からは強硬と批判されたが、ロシア国民の支持を受けた。また、土地売買の自由化や税制改革などの資本主義制度の整備による経済改革と原油価格の上昇によって経済が復調し成長を続けたことも、多くのロシア国民がプーチンを支持する一因となった。
プーチン政権は当初オリガルヒと呼ばれる新興財閥の支持を受けていたが、次第にプーチンは対決姿勢を取るようになり、ミハイル・ホドルコフスキーなどのオリガルヒを次々と逮捕した。2004年3月にはオリガリヒ寄りだったミハイル・カシヤノフを首相から解任し、内閣改造を行った。この内閣改造でエリツィンの側近が影響力をなくし、プーチンの出身母体であるロシア連邦保安庁などの官僚シロヴィキが影響力を増した。
[編集] 2期目
プーチンは2度目となる2004年の大統領選挙に70%以上の圧倒的な得票率で再選した。再選したプーチンは同年9月にのベスラン学校占拠事件が発生したことから、ロシアの国家統一の必要性を理由として、地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改め、より一層の中央集権化を進め、大統領権限を強化した。
経済は原油価格の高騰に伴い2期目も成長を続けた。だが依然として多くのロシア国民が最低生活水準を下回る生活をしていることから、2005年10月には「優先的国家プロジェクト」を発表し、保健・教育・住宅建設・農業の4分野で改革を行い、社会基盤の整備を目指す計画を立ち上げた。これを推進するため、同年11月にドミトリー・メドヴェージェフを第一副首相に任命した。
しかしプーチン政権の2期目は、その強権的・独裁的な手法が欧米などの国際社会から強い非難を浴びることになる。2006年10月、反プーチンのロシア人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが、何者かに射殺された。2006年11月には、プーチンを批判してイギリスに亡命し写真が公開されたアレクサンドル・リトビネンコが死亡している。死亡原因として、多量の放射能物質ポロニウムを食事などに混合され摂取した為とイギリス警察が発表し、トニー・ブレア首相がロシア政府に対し協議したいと要望した。FSBによる暗殺だとする説も浮上した。イギリス政府内では、ロシア政府による暗殺との見方が強い。イギリス警察当局は、この事件で主犯とされる旧ソ連国家保安委員会(KGB)元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者と実業家のドミトリー・コフトゥン容疑者の身柄引き渡しをロシア政府に求めている。ロシア側はこれに対し身柄引き渡しを拒否している。また、2007年6月21日にはイギリスに亡命したオリガリヒであるボリス・ベレゾフスキーへの暗殺計画が発覚し、その容疑者がロシアに強制送還される事件が起こっている。
2008年5月に大統領の三選禁止条項に従い退任するため、その後の去就が注目されていたが、2007年10月に開かれた与党統一ロシアの党大会で、大統領退任後は首相に就任して政界にとどまることに意欲を示した。 また、同年12月2日に行われた2007年ロシア下院選挙では統一ロシアの比例代表名簿第1位に記載され、同党の選挙大勝につながった。12月10日には後継として第一副首相のメドヴェージェフを指名し、2008年の大統領選挙で支持することを表明。メドヴェージェフは翌2008年3月の大統領選挙でプーチンの支持もあり大勝した。2008年4月の統一ロシアの党大会では党首に就任することを受諾した。
[編集] オリガルヒとの争い
エリツィン時代はエリツィンとその側近および支持基盤の新興財閥オリガルヒによるメディア支配の時代であった。エゴール・ガイダル、アナトリー・チュバイス(ユダヤ系)の急進的資本主義化は、国有財産である企業を企業長の私物にしたり、急激な価格自由化がハイパーインフレを招き、年金生活者を中心に民衆が大打撃を受けたり、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と国民の経済格差拡大を招いた。さらにガスプロムを始めとする大企業の政権との癒着・納税回避により国家財政は危機に陥り軍の弱体化や金融危機の原因となった国債乱発を引き起こした。しかし、政財癒着による極端な企業優先政治で格差社会現出と国力衰退を招いたにもかかわらず、支配メディアによる野党候補へのネガティブキャンペーンを行い、TVカメラの前でガスプロム社長を問責するなどの劇場政治パフォーマンスでエリツィンは大統領に再選された。
しかしエリツィンに首相として引立てられたKGB出身のプーチンが大統領になると、プーチンは警察・軍出身者のシロヴィキを登用しオリガルヒと対決した。オリガルヒは所有するメディアでプーチンを攻撃したが、プーチンは脱税・汚職などの捜査でオリガルヒを逮捕して制圧。恭順を誓った企業と和解し、恭順企業にメディアを支配させた。そして右派連合等オリガルヒ系政党を少数派に追いやり、与党統一ロシアに支持され権力を確立した。プーチンは企業の政治介入を排除し、恭順を誓ったオリガルヒに納税させ国家財政と崩壊寸前だったロシア軍を再建した。近年は、シロヴィキをバックボーンに、タカ派的・強権的な姿勢を強めている。プーチン政権に批判的なメディアや対立関係にある財閥などを強制解散・投獄するなど抑圧し、親プーチンの財閥を優遇している。
[編集] 大統領退任後
2008年5月7日に大統領を退任したが、新しく大統領となったメドベージェフによって首相に指名され、翌日連邦議会下院でも承認された。首相就任によりメドベージェフとの「双頭体制」となり、このためプーチンは大統領を退いた後も事実上最高権力者として影響力を行使すると見られている。
[編集] 政治姿勢
[編集] 全般
プーチンは「強いロシア」の再建を標榜しており、ロシアの伝統的政治手法として、国民の愛国心に訴え、政府に対する求心力を強化しようとする政治家として知られる。そのため、ロシア各地で極右勢力の増大を招き、モスクワの市場ではアジア系商人を襲撃する事件が頻発するなど、極右勢力を増長させる原因を作ったとの批判もある。また、プーチン政権はソビエト連邦時代の強い国家の記憶を積極的に政権運営に活用している点、貧富差を拡大させたソ連崩壊後の市場原理主義一辺倒ではなく企業の国営化を行うなどした点でエリツィンと大きな違いがある。コムソモールをイメージした官製の青年団体ナーシを作るなど、ソ連時代の全体主義への回帰を強めていっている。
他方、宗教を徹底的に弾圧したソ連時代とは一線を画し、ロシア正教会を保護してもいる。2007年のロシア正教会と在外ロシア正教会の和解を斡旋し、和解の聖体礼儀に出席もしてスピーチを行った。イスラームに対してはロシア正教会ほどに結び付きはなく、チェチェンではイスラム原理主義武装勢力との対決姿勢を鮮明にしてもいるが、タタールスタンのカザン・クレムリンにおいて巨大なモスクも再建したシャイミーエフのような穏健的な存在とは協力関係を築くなど、硬軟織り交ぜた対応がみられる。
プーチン政権は独裁色が強いとされる(もっとも歴史的に多民族国家のロシアにおける権力者は強権な支配を行うことが少なくないが)。ロシア情報公開擁護財団によると、ロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑が浮上している。この件に関しては、国際社会でもチェチェン勢力への人権侵害と相まって非難されている。自身の事績をもって国民の支持を集める点でもエリツィンとは大きく異なるが、その圧倒的な支持を背景に自身の強いリーダーシップをもって中央集権化を推進するプーチンの姿勢は権威主義的であると言われ、「ツァーリ」と呼ばれることもある。しかし、マフィアが横行していたロシア社会の秩序をやや独裁的な政策によって取り戻したとする見方もできる。プーチン自身は「法の独裁」という言葉を用いて、自らの立場をよく説明する。
[編集] 外交
外交政策的には1990年代エリツィン時代に始まる東欧のNATO加入を受けた対中・対印接近策を継承し上海協力機構の強化に努めている。第二次戦略兵器削減条約の批准を土壇場で米国が拒否した事や、イラク戦争を批判して米国一極支配には抵抗する構えを見せている。
政権当初は強いロシアを実現するため、アメリカ合衆国や欧州連合が中央アジアや東ヨーロッパの諸国と接近することを警戒する動きを強く打ち出したが、アメリカ同時多発テロ事件以来、テロとの戦いにおいては米国との協調姿勢を見せた。しかしイラク戦争に於いては、戦争に反対してアメリカとは距離をおき、同じく戦争慎重派のフランス・ドイツとの連携を強化しつつある。特に、旧東ドイツ出身でロシア語に堪能なアンゲラ・メルケルが首相になって以降、ドイツとの蜜月状態が続いている。
だが、ロシアよりもEU・米国との関係を重視し始めたウクライナに対しては、2006年1月に天然ガス価格を引上げを表明し、これを拒否したウクライナへの流量を減らすなどの強硬手段をとってロシア・ウクライナガス紛争を引き起こした。
日本の北方領土返還要求に対しては日ソ共同宣言を根拠に二島返還の立場をとり、日本側の親露派に足並みを揃えていた。ところが、鈴木宗男を筆頭とした親露派の失脚による日本外交の硬直化と、ロシア国内の保守派からの巻き返しにあい、2005年の来日時前のロシア国内向けテレビ番組の中で返還する意思のないことを表明した。しかし来日時には二島返還で日本側を説得しようとした。
戦略的には投資誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視しており、自衛隊とロシア連邦軍の合同演習も毎年行われるようになったが、アメリカへの対抗上中華人民共和国との提携をより重視している。2005年には上海協力機構に加盟し、中国人民解放軍と合同演習を行うなど関係強化も図っている。中露国境問題も中華人民共和国に譲歩する形で解決した。またシベリアのガスパイプライン建設でも日本ルートと中華人民共和国ルートの駆け引きが続いていたが、この問題も結局、日本向けのパイプラインの着工の目処が立たないまま、「中国支線」と呼ばれるスコボロジノ・大慶間のパイプラインが先に建設される方向で事は進んでいる。一方で、こうした親中的な外交政策にも関わらず、中国共産党の認識である「一つの中国」に反するような、台湾を国家として認める発言が報じられもしている[1](2008年02月20日)。
[編集] 安全保障
就任直後からチェチェン人の武装集団によってロシアの主要都市へテロが頻発すると、これを口実にチェチェンへの武力侵攻を強化した。ロシア軍はチェチェン各地で殺戮・強姦などの人権侵害を行い、これが更なるテロを誘発する原因となっている。2002年のモスクワ劇場占拠事件では、立て籠もるテロリストを鎮圧するために有毒ガスの使用を許可した。その結果テロは鎮圧されたが人質の市民も巻き添えとなり、100名を超える市民が死亡する惨事となってしまった。アメリカを始めとする西欧諸国は最初はロシアを非難していたが、同時多発テロ以後は逆に「対テロ戦争」を支持するロシアとの関係を強化している。しかしその後もチェチェンとロシアの果てしない抗争は続き、ロシアはイラク戦争のアメリカ同様、泥沼の対テロ戦争に足を引き込まれている。チェチェン紛争に対するプーチンの姿勢を、国民は「強いロシア」を体現する物として評価しており、プーチン政権の支持率を維持するのに欠かせない要素となっている。そのためチェチェンへの侵攻を強化しなければ政権を維持できないというプーチン政権にとっては一種のジレンマとなっている。
このように独立派に対しては武力を以って制する一方、第二次チェチェン紛争時には、イスラム原理主義の浸透に反感を抱くアフマド・カディロフ等の帰順に成功し、彼らの不正規部隊をロシア連邦軍や内務省の指揮下にあるロシア国内軍などの正規軍に編入している。2007年1月まで投降者には、刑事訴追の免除等の恩赦が約束されていた。また、有力者には行政府の地位やロスネフチの子会社であるグロズネフチを通して利権が振舞われており、「アメとムチ」を使い分けていると言える。アンナ・ポリトコフスカヤは、これらの「裏切り者」を批判していた。
ちなみにイラク戦争後にイラクでロシア大使館を設立したが、ロシア大使館員4人が「イラク・イスラム戦士評議会」を名乗るテロリストにより誘拐・射殺された。これに怒ったプーチンはFSBに暗殺指令を命じた。
2007年、ロシアは、1992年以来中断してきた長距離爆撃機によるロシアの国外への常時警戒飛行を再開していたことが、2007年8月初めてプーチン大統領自身が、公式に上海協力機構の軍事演習会場チェリャビンスク(Chelyabinsk)で発言することにより明らかになった。[2] これは、2007年8月17日イギリス空軍所属のユーロファイターがロシアの長距離爆撃機を北大西洋上で捕捉したことと符合する。[3]
[編集] 人物
その経歴から、「冷酷な性格」や「粗野」という批評を受けているが、ロシア国内ではメディアを通じて非常に紳士的な姿勢をアピールしており、ロシア国民からの人気もきわめて高い。
[編集] 人物像
カメラの前では無表情を振舞っているため、ローマ教皇ベネディクト16世とともに強面で知られる著名人である。インターネット上では両者の人相を揶揄した画像が掲示板などに多数アップロードされている。しかし実は取り留めないほどの冗談好きである。諜報員時代の上司から「お前は冷静すぎる」と言われたことがあるのだが、この逸話もプーチン自身にかかると「本当は『お前のようなおしゃべりはシュピオン(スパイ)には向かない』と言われたんです」になってしまう。
エリツィンに抜擢されたのでエリツィン派だったと思われているが、むしろ政治家としてはゴルバチョフ元ソ連大統領に敬意を表している。しかし、ゴルバチョフに師事したことはなく、サプチャークからの間接的な影響だと思われる。サンクトペテルブルク時代に仕えた市長(当時)のサプチャークは、プーチンが学生時代に指導をうけた恩師でもあり、生涯の尊敬と忠誠を捧げている。
ドイツ語に堪能であることはよく知られているが、大統領任期期間中に英語も本格的に勉強をスタートし、現在では各国首脳とも英語で会話している光景が見られる。また、ソチオリンピックの誘致では英語でのスピーチを披露した。
[編集] 私生活
趣味は釣り。競馬ファンでもある。煙草は吸わず、酒もほとんど飲まない。また、犬好きで、自身もラブラドールを飼っている。その愛犬は「コニー」という名前であり、徹夜でお産の世話をしたこともある。そういった経緯もあってか、日露首脳会談では当時首相の小泉純一郎から犬語翻訳機「バウリンガル」を贈られた。
家族は妻と2人の娘がいる。妻は元客室乗務員で、その後レニングラード大学の学生となり、その時にプーチンと結婚した。娘2人は、ロシア大衆紙モスコフスキー・コムソモーレツ(電子版2005年8月4日)によると、そろって父と母の母校であるサンクトペテルブルク大学(旧レニングラード大学)に合格し、姉マリーヤは生物土壌学、妹カテリーナは日本史を専攻することになると報じた。またマリーヤは2005年3月ギリシャで結婚式をあげた。結婚相手は明らかにされていない。
[編集] 格闘技
11歳の頃より柔道とサンボをたしなみ、大学在学中にサンボの全ロシア大学選手権に優勝。1976年には柔道のレニングラード市大会で優勝したこともある程の実力者である。
柔道について自伝のなかで「柔道はたんなるスポーツではない。柔道は哲学だ」と語っている。2005年12月より欧州柔道連盟の名誉会長を努める。得意技は「払い腰」。体を鍛えていることで、他の政治家とは比べ物にならない逞しい肉体や戦闘技術の高さ、高い指導力が目を引き、インターネット上では一部でカルト的な人気を博している。身長は168cm。
講道館で、技の型を当時の首相であった小泉純一郎に演武したこともある。
2000年の来日時には講道館より柔道六段の段位を贈られることになったが、「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、一日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」という言葉とともに、これを丁重に辞退した。
2000年の九州・沖縄サミットでは地元の沖縄県具志川市を訪問し、柔道の練習に飛び入り参加。掛かり稽古(お互いが交互に投げる練習形式)を行い、相手の中学生を投げた後、同じ相手に今度は投げられるというパフォーマンスを行った。中学生は大統領相手にためらったが、プーチンに促され投げたという。投げられる大統領の姿はインパクトが強く、その写真や映像は世界中に報道された。好感度アップの行動というよりは、柔道を愛するが故の行動といえるだろう。警備員やSPはまさか大統領が稽古とはいえ投げさせるとは考えられなかったようで、非常に驚いたという。
[編集] 名前
プーチンは元KGB情報部員であり、その過去についても不明な点が多く、首相就任時には影の薄かった彼が大統領に就任した時は、その謎に包まれた経歴から帝政ロシア末期の怪僧「ラスプーチン」に引っかけられ、「ラス・プーチン」と揶揄されたことがある。ただし、プーチンという姓はロシア語で道を意味するプーチ (Путь, Put') を思わせ、ラスプーチンのラス (Рас, Ras) は(さまざまな意味があるがその1つとして)「逆」という意味があるため、ロシア人の間では、プーチンは「道」、ラスプーチンは「道がない」という逆の意味だと、好意的に捉える者もいる。ちなみに、祖父の代では姓が『ラスプーチン』だったためプーチンを名乗るようになったという説もある。また、天然ガスなどの資源外交を行うことから、同じくラスプーチンと引っ掛けて「ガスプーチン」と揶揄されたこともある。
[編集] 暗殺未遂
プーチン大統領に対しては、過去4度暗殺が試みられたが、いずれも事前に阻止されている。
- 2000年2月24日 - サンクトペテルブルグでのアナトリー・サプチャークの葬式時。ロシア連邦警護庁(FSO)によれば、チェチェン独立派が背後に立つ某組織が計画した。「標準より際立った保安措置」により計画は阻止された。
- 2000年8月18日~19日 - ヤルタでの非公式のCISサミット時。国外より情報がもたらされ、チェチェン人4人とアラブ人数人が拘束された。
- 2002年1月9日~10日 - アゼルバイジャン、バクーの公式訪問時。アゼルバイジャン国家保安省により阻止。アフガニスタンで訓練を受け、チェチェン独立派と関係を有するイラク人、キャナン・ロスタムが逮捕され、懲役10年を言い渡された。
- 2008年3月2日 - モスクワでのロシア大統領選当日。ロシア連邦保安庁(FSB)が察知し、直前に阻止。現場からはライフル銃やカラシニコフ銃などが発見され、タジク人1名が逮捕された。
[編集] 発言一覧
- 「テロリストは便所に追い詰めて肥溜めにぶち込んでやる」(または「たとえ便所に逃げ込んでも息の根を止めてやる」、チェチェン武装勢力に関して)
- 「我々が戦っている相手は残酷な連中、人間に化けた獣だ」 (チェチェン武装勢力に関して)
- 「もしあなたがイスラム過激派になりたくて割礼が必要ならモスクワに招待する」 (2002年11月「チェチェン住民を抹殺しようというのか」というフランス記者の質問に対して)
- 「あれは沈んだ」(ロシアの原子力潜水艦クルスクが沈み、乗員118人が死亡した事件について)
- 「我々の敵はテロリストでなく、ジャーナリストだ」(ロシア軍の略奪行為などを取り上げられたことについて)
- 「英国の連中は脳を入れ替える必要がある」(リトビネンコ毒殺事件の容疑者引き渡し要求に反論して)
- 「(金正日は)国をよい方向に変化させたいと望んでいる」(2005年7月)
- 「(温暖化のおかげで)毛皮コートを買う金も節約できる」(2003年9月の気候変動会議の開幕式で)
- 「国歌演奏中は行儀良くするように。歌詞を知らないなら、せめてガムを噛むなと選手に伝えて欲しい」(2004年サッカー欧州選手権・ロシア対スペイン戦開始前の国歌斉唱で)
- 「かわいくてついやってしまった」(2006年07月、クレムリン宮殿の中庭で少年のシャツをめくって腹にキスするというスキャンダルを起こす。後にこう釈明)
- 「10人をレイプした強い男性でうらやましい」(2006年10月、イスラエルのカツァブ大統領に関して。記者会見後、冗談のつもりで大統領府職員に語ったところ、偶然マイクの電源が切られておらず、声を拾われてしまう。後に報道官が釈明)
- 「バルト三国はロシアの小銭」
- 「謝罪は1回すれば十分だ」(ソ連時代のバルト三国併合の密約に対する謝罪を記者に聞かれて)
- 「ソ連が恋しくない者には心(心臓)がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」
- 「中世のように、汚職する公務員は手を切り落としてしまえ」(ロシア国内の汚職の横行に関して)
- 「EUは恥を知れ!国際社会のルールに反する勝手は許されない」(コソボ独立に関して)
[編集] 年譜
- 1952年 - レニングラード(サンクトペテルブルク)に生まれる。
- 1975年よりKGBに勤務。KGBレニングラード局第1課(人事課)に配属。
- 1984年 - KGB赤旗大学に入校。
- 1985年 - 東ドイツに派遣。ドレスデンのソ独友好会館館長をカバーとして、ソ連人学生を監督。
- 1990年 - 故郷レニングラードに戻り、国際問題担当レニングラード大学学長補佐官。
- 1991年12月 - サンクトペテルブルグ市対外関係委員会議長。
- 1992年 - 中佐の階級で予備役編入。サンクトペテルブルク市副市長。
- 1994年3月 - サンクトペテルブルク市第一副市長。
- 1996年6月 - ロシア連邦大統領府総務局次長に就任し、中央政界に転じる。
- 1997年3月 - ロシア連邦大統領府監督総局長。
- 1998年5月 - ロシア連邦大統領府第一副長官。7月、ロシア連邦保安庁(FSB)長官。
- 1999年3月 - FSB長官とロシア連邦安全保障会議書記を兼任。
- 1999年8月9日 - エリツィン大統領により第一副首相に指名される(同日、ステパーシン首相が退陣したため、そのまま首相代行)。8月16日、首相。
- 同年12月31日 - 引退を宣言したエリツィンにより大統領代行に指名。
- 2000年3月26日 - 過半数の得票を受け大統領に当選。
- 2004年2月24日 - ミハイル・カシヤノフ内閣を総辞職させる。
- 2004年3月5日 - ミハイル・フラトコフを新首相に指名。
- 2004年3月14日 - 大統領に再選。
- 2005年12月 - ヨーロッパ柔道連盟名誉会長に就任。
- 2007年9月12日 - 内閣を総辞職させヴィクトル・ズブコフを新首相に指名。
- 2008年5月7日 - 大統領を退任。同日統一ロシア党首、翌日首相に就任。
[編集] 文献
[編集] 自著
- 2000年8月 『プーチン 自らを語る』(述)扶桑社、ISBN 4594029604
[編集] 関連文献
- 池田元博『プーチン』(新潮新書)、新潮社、2004年2月、ISBN 4106100541
- 上野俊彦『ポスト共産主義ロシアの政治 エリツィンからプーチンへ』日本国際問題研究所、2001年7月、ISBN 4819303864
- 梅津和郎『プーチンのロシア その産業と貿易』晃洋書房、2000年9月、ISBN 4771011982
- 江頭寛『プーチンの帝国 ロシアは何を狙っているのか』草思社、2004年6月、ISBN 4794213166
- 加藤志津子『市場経済移行期のロシア企業 ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンの時代』文眞堂、2006年8月、ISBN 4830945532
- 木村明生『ロシア同時代史権力のドラマ ゴルバチョフからプーチンへ』朝日新聞社、2002年2月、ISBN 402259795X
- 木村汎『プーチン主義とは何か』角川書店、2000年12月、ISBN 404704010X
- 木村汎、佐瀬昌盛(共編)『プーチンの変貌? 9・11以後のロシア』勉誠出版、2003年5月、ISBN 458505085X
- 木村汎『プーチンのエネルギー戦略』北星堂書店、2008年1月、ISBN 4590012359
- 小林和男『白兎で知るロシア ゴルバチョフからプーチンまで』かまくら春秋社、2004年3月、ISBN 4774002577
- 寺谷ひろみ『暗殺国家ロシア リトヴィネンコ毒殺とプーチンの野望』学習研究社、2007年6月、ISBN 4054034586
- 徳永晴美『ロシア・CIS南部の動乱 岐路に立つプーチン政権の試練』清水弘文堂書房、2003年3月、ISBN 4879505617
- 中澤孝之『エリツィンからプーチンへ』東洋書店、2000年7月、ISBN 4885952972
- 永綱憲悟『大統領プーチンと現代ロシア政治』東洋書店、2002年3月、ISBN 4885953804
- 中村逸郎『帝政民主主義国家ロシア プーチンの時代』岩波書店、2005年4月、ISBN 4000240137
- 西村拓也『過去を消した男プーチンの正体』小学館、2000年7月、ISBN 4094046119
- 袴田茂樹『プーチンのロシア 法独裁への道』NTT出版、2000年10月、ISBN 4757120516
- 林克明『プーチン政権の闇 チェチェン 戦争/独裁/要人暗殺』高文研、2007年9月、ISBN 4874983901
- エレーヌ・ブラン『KGB帝国 ロシア・プーチン政権の闇』創元社、2006年2月、ISBN 4422202634
- アンナ・ポリトコフスカヤ『プーチニズム 報道されないロシアの現実』日本放送出版協会、2005年6月、ISBN 4140810548
- ロイ・メドヴェージェフ『プーチンの謎』現代思潮新社、2000年8月、ISBN 4329004135
- 山内聡彦『ドキュメント・プーチンのロシア』日本放送出版協会、2003年8月、ISBN 4140808098
- ロデリック・ライン、渡邊幸治、ストローブ・タルボット(共著)『プーチンのロシア 21世紀を左右する地政学リスク』日本経済新聞社、2006年11月、ISBN 4532352290
- アレクサンドル・リトヴィネンコ、ユーリー・フェリシチンスキー(共著)『ロシア闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』光文社、2007年6月、ISBN 4334961983
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
- ロシア連邦大統領府 (ロシア語)(英語)
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大統領 | ボリス・エリツィン (1991年 - 1999年) - ウラジーミル・プーチン (2000年 - 2008年) - ドミトリー・メドヴェージェフ (2008年 - 現在) | |
副大統領 (1993年に廃止) |
アレクサンドル・ルツコイ (1991年 - 1993年) | |
大統領代行 | ヴィクトル・チェルノムイルジン (1996年) - ウラジーミル・プーチン (1999年 - 2000年) | |
その他 | アレクサンドル・ルツコイ (1993年, モスクワ騒乱事件で大統領代行を自称) |
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帝政ロシア | セルゲイ・ウィッテ - イワン・ゴレムイキン - ピョートル・ストルイピン - ウラジーミル・ココツェフ - イワン・ゴレムイキン - ボリス・スチュルメル - アレクサンドル・トレポフ - ニコライ・ゴリツィン | |
臨時政府 | ゲオルギー・リヴォフ - アレクサンドル・ケレンスキー | |
ソビエト連邦 | ウラジーミル・レーニン - アレクセイ・ルイコフ - ヴャチェスラフ・モロトフ - ヨシフ・スターリン - ゲオルギー・マレンコフ - ニコライ・ブルガーニン - ニキータ・フルシチョフ - アレクセイ・コスイギン - ニコライ・チーホノフ - ニコライ・ルイシコフ - ヴァレンチン・パヴロフ - イワン・シラーエフ | |
ロシア共和国 | イワン・シラーエフ - オレグ・ロボフ* | |
ロシア連邦 | ボリス・エリツィン - エゴール・ガイダル* - ヴィクトル・チェルノムイルジン - セルゲイ・キリエンコ - ヴィクトル・チェルノムイルジン* - エフゲニー・プリマコフ - セルゲイ・ステパーシン - ウラジーミル・プーチン - ミハイル・カシヤノフ - ヴィクトル・フリステンコ* - ミハイル・フラトコフ - ヴィクトル・ズブコフ - ウラジーミル・プーチン | |
*首相代行 |