ニキータ・フルシチョフ
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ニキータ・フルシチョフ Никита Сергеевич Хрущёв |
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ソビエト連邦第4代最高指導者
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任期: | 1953年3月14日 – 1964年10月14日 |
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出生: | 1894年4月17日 クルスク県カリノフカ |
死去: | 1971年9月11日 モスクワ |
政党: | ソビエト連邦共産党 |
配偶: | ニーナ・ペトローヴナ・フルシチョワ(三度目の妻) |
ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(ロシア語:Никита Сергеевич Хрущёв(ニキータ・スィルギェーイェヴィチュ・フルシショーフ);ラテン文字転写の例:Nikita Sergeyevich Khrushchev;ウクライナ語:Микита Сергійович Хрущов(ムィクィータ・セルヒーヨヴィチュ・フルシュチョーウ)、1894年4月17日 - 1971年9月11日)は、ソビエト連邦の政治家。スターリンの死後、ソ連の最高指導者として、ソ連共産党中央委員会第一書記と閣僚会議議長を兼ね、スターリン批判によってその独裁と恐怖政治を世界に暴露した。非スターリン化に基づく、自由化の諸潮流をもたらし、対外的には、アメリカ合衆国を中心とする西側陣営と平和共存を図り、核実験を抑制しようとした。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1894年4月17日、ロシア帝国のクルスク県カリノフカに生まれる。父親セルゲイ・フルシチョフは炭坑夫。祖父は農奴で帝政ロシアの陸軍に勤務していた。家族とともにウクライナ・ドンバス地方のユゾフカ(スターリノ、現在のドネツィク)に移る。15歳で鉛管工として働きはじめる。第一次世界大戦では、工場で勤務していたため、徴兵を猶予された。
[編集] 共産党入党
共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
1917年のロシア革命の以前から、労働運動に参加したことがきっかけとなり、1918年にロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。ロシア内戦中の1919年には赤軍政治委員として参加した。1920年にはセミョーン・ブジョーンヌイ元帥の下で勤務し、反革命を標榜した白軍やポーランド軍との戦闘に参加。1921年、ユゾフカに戻る。最初の妻ガリーナ(ハリーナ)は飢饉で餓死し、1924年に学校の教師であったニーナ・ペトローヴナと再婚した。
1925年、ユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区党書記に就任し、以後党活動に専従することとなる。ウクライナでのフルシチョフは、精力的な仕事ぶりと経験から学んだ実際的な現地事情に関する広範な知識で台頭し、ヨシフ・スターリンの側近であった、ラーザリ・カガノーヴィチに注目されることになる。1929年にはモスクワのスターリン記念工業大学に入学を許可され、冶金学を学ぶとともに、大学内でも党活動を熱心に推進し、大学の共産党書記に選出される。
[編集] 中央委員就任
1931年、モスクワ党専従となり、モスクワ地下鉄の建設の功でレーニン勲章を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、1934年の第17回ソ連共産党大会で中央委員に選出され、翌1935年にはモスクワ党第一書記となる。1938年、政治局員候補となり、スターリンに粛清されたスタニスラフ・コシオールの後任として、ウクライナ共産党第一書記となった。1939年、第18回党大会で政治局員に昇格する。
この時期、党中央では大粛清の嵐が吹き荒れていたが、フルシチョフもスターリンを称える演説をおこないウクライナにおける大規模な粛清を実行した。1938年だけで10万人以上が逮捕され大部分が処刑された。中央委員会では200人の役員の中で生き残れたのはたった3人に過ぎなかった。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦では、ウクライナ共産党の責任者としてウクライナの産業を東部に疎開させることに尽力する。疎開作業の完了後、陸軍中将と同位の政治委員の階級を授与され、南部戦線でナチス・ドイツ軍と戦った。スターリングラード攻防戦では、エレメンコ大将の政治委員となり、1943年のクルスクの戦いでは、ヴァトゥーチン中将の政治委員として直接前線に参加している。
[編集] 第一書記就任
1953年3月のヨシフ・スターリンの死後、ゲオルギー・マレンコフが閣僚会議議長(首相)と筆頭書記に就任し、事実上スターリンの後継者となったが、マレンコフはわずか9日で筆頭書記の座をフルシチョフに譲った。フルシチョフはまずラヴレンチー・ベリヤを逮捕・粛清して権力基盤を固めた後に党中央委員会第一書記に就任する。ついでマレンコフを辞任させ、後任には腹心のニコライ・ブルガーニンを充てた。
その一方、1956年の第20回党大会の秘密報告でスターリン批判を行い世界中に衝撃をもたらした。国内政治の民主化の推進や、アメリカ合衆国やフランスなどの資本主義諸国との平和共存外交をすすめ、冷戦下の世界に一時的な「雪どけ」をもたらした。その一方でハンガリー動乱に軍事介入するなど、東欧諸国の自由化要求に対しては厳しい態度で臨んだ。
軍事目的やソ連の宣伝も念頭に宇宙開発を推し進め、スプートニクやボストークの打ち上げに成功し、宇宙開発競争においてアメリカを引き離したのも、フルシチョフ在任中のことである。
1957年にヴャチェスラフ・モロトフ、ゲオルギー・マレンコフ、ラーザリ・カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求し、中央委員会幹部会の投票でいったん第一書記の地位からの解任が決まるが、中央委員会総会での投票で逆転勝ちして辛くも第一書記の座にとどまった(反党グループ事件)。「反党グループ」の3人は追放されたが、このときフルシチョフを支持しなかったブルガーニンはほどなく首相を辞任させられ、フルシチョフが首相を兼任した。
[編集] 政策
しかし、内政的には集団指導体制を無視した主意主義、主観主義による重要政策の決定、農業政策の失敗によりアメリカやカナダから穀物を輸入するようになったこと、外交的にはキューバ危機でのアメリカに対する譲歩や、スターリン批判により国際共産主義への混乱を招いたという理由で批判を浴びた。特に、同じ労働者階級出身の毛沢東率いる中華人民共和国とは、社会主義の路線をめぐって論争となり、やがて中ソ対立を招くことになる。身内の登用もしばしば批判を浴び、海外訪問の際に家族を同行させたこと、娘婿アレクセイ・アジュベイを特使として西ドイツに派遣したことなどが、一部からひんしゅくを買った。
フルシチョフは激情家で知られ、同志に対する叱責や暴言を繰り返し、党内に多くの敵を作ったとされ、これがのちに失脚につながる大きな原因となった。
国際的な舞台でも話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なもののひとつは、1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」(ロシア語“Мы вас похороним!”)との暴言を吐いたことである。 他にも1960年10月12日の国連総会で、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、フィリピン代表Lorenzo Sumulongが「ソ連の東欧諸国への関与こそ正に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲したことに怒ったフルシチョフは、自分の靴を脱いでこれで机をバンバンと繰り返し叩いてSumulongの演説を妨害した事件がある。
フルシチョフは無学な労働者階級出身の出自からか、特に科学技術や芸術に関する政策決定ついては周囲の人間の考えを鵜呑みにしやすく、その結果フルシチョフに取り入った人間の主張がそのまま国家の政策となることがままあった。スターリンがソ連体制に合致しているとして取り立てたトロフィム・ルイセンコによる反遺伝学キャンペーン(ルイセンコ論争)は、スターリン批判に伴って下火となった(ルイセンコも失脚)ものの、その後遺症でフルシチョフの農業政策は深刻なダメージを受けた。芸術家たちとの関係も、政治的にうまく立ち回る芸術家たちに振り回され、有名なマネージ展覧会ホールの事件では、エルンスト・ネイズヴェスヌイら前衛芸術家を「西側イデオロギーに侵された逸脱者」として罵倒した上、その作品をロバの尻尾で描いたようだとしてこき下ろした。
ただし、「反体制作家」の烙印を押されて当局からにらまれていた作家のアレクサンドル・ソルジェニーツィン(後にノーベル文学賞受賞)を擁護したり、ソ連水爆の父と呼ばれたアンドレイ・サハロフ(後にノーベル平和賞受賞)の進言を聞き入れて核軍縮を行うなど、後世評価されるような業績も残した。
日本との関係については、日ソ交渉をしたときの最高指導者である(詳細は日ソ共同宣言にあり)。晩年に記した回想記の中で、フルシチョフは日本の戦後の発展を羨み、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。このくだりは結局フルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって1989年になってはじめてその内容が公開された。[1]
[編集] 失脚
フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには前述のように同志に対する叱責や暴言を繰り返したため、ひそかにニコライ・イグナトフ、アレクサンドル・シェレーピン、ウラジーミル・セミチャストヌイ、レオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落としを着実に準備していった。ブレジネフはフルシチョフの暗殺をもたくらんだとも言われている[2]。
宮廷クーデターのウワサはひそかに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとして、息子のセルゲイ・フルシチョフや娘のラーダ・アジュベイに接触した。セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。
1964年10月、黒海沿岸のピツンダで休暇中のフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、ミハイル・スースロフからの突然の電話で「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモスクワに呼び戻された。10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。ミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、この提案は否決された。
フルシチョフは最終的に、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の両方を辞任することに同意した。後任にはレオニード・ブレジネフとアレクセイ・コスイギンがそれぞれ選ばれた。
[編集] 年金生活と回想録
引退後のフルシチョフは、公式には1966年まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、恩給と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有ダーチャ(別荘)に住まわされた。移動の制限は受けなかったが、ダーチャのいたるところに盗聴器が仕掛けられており、生活は当局の監視下にあり、事実上軟禁状態にあった。年金生活中、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子のセルゲイ・フルシチョフらがテープをタイプライターで書き起こした。キリレンコらソ連指導部はフルシチョフを呼び出して回想録の執筆の中止を要求するが、フルシチョフはこの要求を拒絶した。この結果、息子のセルゲイ・フルシチョフや娘婿のアレクセイ・アジュベイは、当局から様々な嫌がらせを受けることになった。セルゲイはミサイルの専門家であったが、転職を余儀なくされた。
1970年7月には、フルシチョフの入院中に国家保安委員会 (KGB) が息子セルゲイを騙して回想原稿とテープを押収することに成功するが、原稿のコピーはすでにアメリカのタイム社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに報復した。なお、セルゲイが西側に原稿を送るのを仲介したのは実はKGB自身であり、その代償としてフルシチョフ自身が回想録の内容の一部削除に応じたという噂がある。この噂が真実かと問われたセルゲイは「その質問の重要性は理解するが、いかんともしがたい事情から、それに答えることはできない」と述べている。[3]
回想録が西側で出版されると、激怒したソ連指導部はフルシチョフに新聞プラウダ紙上で「回想録はニセモノである」との声明を発表させた。実際のところ、回想録がニセモノでないかどうか、すなわち仲介相手からニセモノを掴まされていないかをタイム社は非常に気を揉んでおり、そのため同社はフルシチョフの回想を録音したテープの声紋分析を徹底して行っており、少しでもテープが途切れた部分はそのつど鑑定しなおす必要があったことから、声紋分析の数は数千にも及んだ。
[編集] 死去そして記念碑
7年間の年金生活の後に、フルシチョフは1971年9月11日にモスクワの病院で死去した。歴代の要人が埋葬されている赤の広場脇には埋葬されず、モスクワにあるノヴォデヴィチ修道院に埋葬された。当局との数年にわたる戦いの末に、家族らは墓地に記念碑を建てることを許されたが、その設計を請け負ったのはフルシチョフがマネージ展覧会ホールで罵倒した彫刻家エルンスト・ネイズヴェスヌイだった。記念碑の黒と白のデザインは様々な憶測を呼んだが[4]、ネイズヴェスヌイはセルゲイ・フルシチョフに「白と黒の組み合わせは、統一と、死に抗する生の戦いとを象徴する」と述べている。ネイズヴェスヌイはこの記念碑の仕事を引き受けたことが主として災いし、1976年にスイスへの亡命を余儀なくされた。
1984年に死去したフルシチョフの妻ニーナ・ペトロブナも、ノヴォデヴィチ修道院のフルシチョフの脇に眠っている。
[編集] 著書
- 『フルシチョフ回想録』(タイム・ライフ・インターナショナル, 1972年)
- 『フルシチョフ――最後の遺言』(河出書房新社, 1975年)
- 『フルシチョフ――封印されていた証言』(草思社, 1991年)
- 『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』(講談社学術文庫, 志水速雄訳, 1978年, ISBN 978-4-06-158204-0 )
[編集] 脚注
- ^ ニキータ・フルシチョフ「封印されていた証言」(草思社)1991年刊
- ^ ソ連崩壊後のV.A.スタルコフによるセミチャストヌイへのインタビュー
- ^ セルゲイ・フルシチョフ「父フルシチョフ 解任と死」草思社
- ^ 白がフルシチョフで黒がブレジネフだとする説(そうした憶測からフルシチョフの遺族は長年記念碑の建立を許されなかった)、白がフルシチョフ政治のよかったこと黒が悪かったこととする説など様々なものがある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 「個人崇拝とその結果について」 1956年2月25日、第20回ソ連共産党大会における「スターリン批判」演説の全文(ロシア語)
- Khrushchev's Secret Speech -- Full Annotated Text(上記演説の解説付き英訳)
- A "Stalinist" rebuttal of Khrushchev's "Secret Speech" from the CPUSA, 1956
- The Case of Khrushchev's Shoe, by Nina Khrushcheva (Nikita's granddaughter), New Statesman, Oct. 2, 2000.
- Comments by Stephen Pearl, Chief of the English Interpretation Section of the U.N. in New York from 1980 to 1994
- [1], Film chronicles the plot to expel Nikita Khrushchev from his post as KPSS Secretary General.
- Biography and Pictures
- "Tumultuous, prolonged applause ending in ovation. All rise." Khrushchev's "Secret Report" and Poland
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*首相代行 |