ブランデンブルク辺境伯
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ブランデンブルク辺境伯( -へんきょうはく)は、神聖ローマ帝国の貴族。選帝侯のひとつ。ドイツの北東部を領地とした。その領地は現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部に相当する。
ブランデンブルク辺境伯領(Mark Brandenburg)は、アルブレヒト1世を初代ブランデンブルク辺境伯として1157年に設置された。アルブレヒトの死後は息子オットーがブランデンブルク辺境伯となり、ポーランドへと領地を延ばした。13世紀半ばの重要な発展としては、ベルリン(1242年)、フランクフルト・アン・デア・オーダー(1253年)の開基と、シュテッティンおよびウッカーマルクの獲得(1250年)が挙げられる。
1415年、ホーエンツォレルン家のフリードリヒ4世(ブランデンブルク辺境伯としてはフリードリヒ1世)がルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ジギスムントからブランデンブルク選帝侯位を獲得し、ベルリンを居城とした。1539年にはヨアヒム2世がルター派に改宗した。ホーエンツォレルン家は17世紀前半の三十年戦争の頃から台頭し始め、主に結婚によって領土を獲得した。1618年にはプロイセン、1648年には後ポンメルン Hinterpommern(現在のポーランド領西ポモージェ県)を獲得する。ホーエンツォレルン家は政治的影響力を拡大しようと努め、さらにフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯によって、デンマーク、スウェーデン、ポーランド王国に対する優位を主張しつつ、西部ではフランスと対立することになる。、フリードリヒ3世は1701年、ハプスブルク家からプロイセン王の称号を得た。以後はプロイセン王国の項を参照。
ブランデンブルク選帝侯領はプロイセンの一地域、ブランデンブルク州としてとどまったが、1945年にオーデル・ナイセ線により、東のポーランド領と西のドイツ領に分割された。
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[編集] 歴代領主一覧
[編集] ブランデンブルク辺境伯
[編集] アスカン家
- アルブレヒト1世(熊公、在位:1134年 - 1170年)
- オットー1世(在位:1170年 - 1184年)
- オットー2世(在位:1184年 - 1205年)
- アルブレヒト2世(在位:1205年 - 1220年)
- ヨーハン1世(在位:1220年 - 1266年)
- オットー3世(在位:1220年 - 1267年)
- オットー4世(在位:1266年 - 1308年)
- ヴァルデマール(在位:1304年 - 1319年)
- ハインリヒ(在位:1319年 - 1320年)
[編集] ヴィッテルスバッハ家
[編集] ブランデンブルク選帝侯
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ヴィッテルスバッハ家
[編集] ルクセンブルク家
- ヴェンツェル(在位:1373年 - 1378年)
- ジギスムント(在位:1378年 - 1388年)
- ヨープスト(在位:1388年 - 1411年)
- ジギスムント(復位、在位:1411年 - 1415年)
[編集] ホーエンツォレルン家
- フリードリヒ1世(在位:1415年 - 1440年)
- フリードリヒ2世(在位:1440年 - 1470年)
- アルブレヒト・アヒレス(在位:1470年 - 1486年)
- ヨーハン・ツィーツェロ(在位:1486年 - 1499年)
- ヨアヒム1世ネストル(在位:1499年 - 1535年)
- ヨアヒム2世ヘクトル(在位:1535年 - 1571年)
- ヨーハン・ゲオルク(在位:1571年 - 1598年)
- ヨアヒム・フリードリヒ(在位:1598年 - 1608年)
- ヨーハン・ジギスムント(在位:1608年 - 1619年)
- 1618年以降はプロイセン公も兼ねる。
- ゲオルク・ヴィルヘルム(在位:1619年 - 1640年)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯、在位:1640年 - 1688年)
- フリードリヒ3世(在位:1688年 - 1713年)
- 1701年、フリードリヒ3世は「プロイセンの王(Könige in Preußen)」の称号を獲得(プロイセン王としてはフリードリヒ1世)。
- フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王、在位:1713年 - 1740年)兼プロイセン王
- フリードリヒ4世(大王、在位:1740年 - 1786年、プロイセン王としてはフリードリヒ2世)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位:1786年 - 1797年)兼プロイセン王
- フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位:1797年 - 1806年)兼プロイセン王